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Category雑学
港南区役所に隣接する横浜刑務所敷地に「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」が祀られています。
太平洋戦争直前、日本統治下のテニアン島などに飛行場建設を行なった所謂「囚人部隊」の慰霊碑です。
しかし、石碑の裏側には看守・職員11人の名が刻まれているものの、受刑者については全く触れられていません。
ここに、横浜刑務所とテニアン北飛行場、横浜大空襲、広島長崎原爆の一連の流れをまとめてみました。
横浜刑務所は、根岸にあった刑務所が関東大震災で被害を受け、また周囲の都市化が進んだため、現在の上大岡周辺地元の誘致を受けて現在の地(港南区役所の隣)に昭和11年5月竣工した刑務所です。
竣工してまもなく、日本が戦争へと突入する情勢の中で、南方へ受刑者たちを派遣することが決定されます。
国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島広島、長崎に原爆を投下した米軍B29爆撃機の発進基地テニアン。太平洋戦争直前、その飛行場建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から約千人の「囚人部隊」が動員された。日本の南洋進出を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲の拠点に転じる皮肉な運命をたどった。
1939年(昭和14年)、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で、司法省は前例のない受刑者二千人の南洋派遣を決めた。テニアン島と、マーシャル諸島ウオジェ島の二島に各1000人。
戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、道内の刑務所は網走の136人を筆頭に札幌30人、函館22人、旭川(支所)19人の計207人を選抜。刑期の残りが1年半以上ある約300人の希望者の中から、50歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。
予想外に南洋希望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大教授=は言う。
厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で40年2月、上陸した。炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。
網走勢は人数も多く、美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした」
集団赤痢や腸チフスで24人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の41年10月、完成した。
(北海道新聞より)
昭和6年9月18日満州事変が勃発、上海事変、日華事変へと日本を取り巻く状況は戦時体制一色に染められてていきました。
横浜刑務所においても、他の刑務所と同様に軍服の肩章、暴雨外套、敷布、軍用石鹸等の軍需製品を主に海軍から受注して大量に生産していました。
また、構外作業として飛行場建設といった大規模なものが、全国から受刑者を集めて行なわれました。
横浜刑務所では、昭和13年7月から4ヶ月間北海道網走郡の飛行場建設作業に30人を派遣しています。
しかし、横浜刑務所の特筆すべきところは国内のみならず、南方の島に職員・受刑者を派遣しているということです。横須賀海軍鎮守府に近いということが理由です。
昭和14年10月、司法省は横浜刑務所を拠点として、全国から受刑者を集め、受刑者2000人の南方諸島・テニアン、ウオジェ両島飛行場等の建設作業への派遣出役を決定します。
派遣部隊は「南方赤誠隊」と命名されました。
全国からの受刑者の結集後、
昭和14年12月18日ウオジェ島へ先遣隊(職員9名・受刑者20名)
昭和14年12月22日テニアン島へ赤誠隊(職員56名・受刑者300名)
昭和14年12月22日ウオジェ島へ赤誠隊(職員43名・受刑者300名)
以降、両島にはそれぞれ約1000名が派遣されています。
両島における作業は南方の灼熱、繁茂する密林、高低差の激しい地形、数々の風土病といった悪条件下のものであり、その中で職員・受刑者を問わず赤誠隊一丸となっての突貫工事でした。
ウオジェ島は昭和16年1月16日に就業延人員284,180名をもって、テニアン島は昭和16年10月23日に就業延人員387,807名を持って全工事が竣工。両島の工事期間中に病気・事故等で職員10名、受刑者50名が犠牲となりました。
この犠牲者を弔うため昭和17年11月21日、横浜刑務所において赤誠隊及び図南報国隊の殉職者11名の合同慰霊碑が旧庁舎正門前に建立され、岩村司法大臣、中尾刑務所長の参列により序幕慰霊法要が営まれました。
それが冒頭の石碑です。
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(左)炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地する「囚人部隊」=『日本行刑史散策』から
(中)テニアン北飛行場の現在。ジャングルの中に東西に貫く4本の滑走路が見えます。kameno撮影
(右)砂を敷詰めた2500m級の滑走路。エノラゲイはここから飛立ちました。kameno撮影
サイパン・ウオジェでの工事竣工後、トラック島への派遣要請により、トラック島春島図南報国隊と名を変えましたが、昭和16年に勃発した太平洋戦争の局面悪化で本国から次第に孤立し、凄惨な状況に追い込まれます。
昭和19年にはトラック島からの帰還船が米国の魚雷攻撃を受け撃沈、トラック島への大空襲により作り上げた滑走路、宿舎等は損壊、焼失。赤誠隊、図南報国隊員として南方に派遣され、その地に倒れた刑務官は40名、受刑者は442名にのぼり、その大半の遺骨はトラック島に仮埋葬されました。
日本の大きな誤算は、太平洋上での主力艦隊同士の一大決戦によって勝敗が決すると信じていたことであると思います。
従って、南洋の小島の防備が後手に回されてしまいました。
一方、連合軍は先ずは海兵隊を駆使して南洋の小島を制圧し、その飛行場拠点として日本本土に攻撃を行なう作戦を重点的に行ないます。
これにより、南洋群島では太平洋戦争後半において連合軍の上陸を許す結果となり、サイパン・テニアンの飛行場から日本各地への空襲の拠点となってしまいました。
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B29が並ぶサイパン・アイズリー飛行場・CC:Wikiペディア
折りしも、あと数日で横浜大空襲の日、5月29日を迎えます。
横浜は日本各地に比べてかなり遅い時期に空襲が始まっています。
しかし、それは歓迎すべきことではなく、横浜が原子爆弾投下の候補地となっていたために空襲が行なわれなかったという、ただそれだけの理由に過ぎません。
1945(昭和20)年5月10日に行なわれた第2回目標選定委員会での原子爆弾の投下目標は下記の通りでした。
1.京都市:AA級目標
2.広島市:AA級目標
3.横浜市:A級目標
4.小倉市:A級目標
横浜大空襲は1945(昭和20)年5月29日に始まります。
理由はその前日に行なわれた第3回原爆投下目標標選定委員会で横浜が目標から外されたことによるものでした。
横浜大空襲も、1945(昭和20)年8月6日広島へ、8月9日長崎へ落とされた原子爆弾も横浜刑務所からの「赤誠隊」により建設された飛行場を拠点として行なわれました。
生き残った「赤誠隊」の方たちはどのような気持ちでこの報道に向かい合ったのでしょうか。
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原子爆弾はテニアン島でB-29に搭載され、広島と長崎に投下されました。
・・・横浜刑務所の「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」は、敗戦後「戦争協力の責任を問われる可能性のある文書、証拠の物品」の一として連合軍の進駐を配慮し、砕かれ地中深く埋められてしまいました。
約20年の時を経て、昭和39年6月石碑は再び掘起こされ補修復元の上、再慰霊祭が行なわれました。
冒頭の石碑の写真随所に見られる大規模な補修跡、上部左が欠けた姿・・・・・砕かれ地中に埋められていたことを生々しく物語っています。
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蓮は仏教を象徴する植物として珍重されます。
蓮は泥より出でて泥に染まらず
植物は自分では自ら動いて汚れを拭い去ることが出来ないため、清浄を保つ様々な工夫をしています。
その工夫の一つが葉や花の表面に施されている微細構造です。
さらに表面の化学的な特性とが相俟って、降った雨は真ん丸な水滴となります。
水滴が花や葉の上で汚れを絡め取りながら転がっていくことにより表面を綺麗に掃除していくのです。
雨模様の境内を巡って、この大自然の智慧を写真に撮ってみました。
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雨の日の植物たちは美しく映えます。
単に水の反射だけで光っているのではなく、汚れが流され本当に綺麗になっているのです。
綺麗になった表面に表面張力で真ん丸になった水玉が飾られキラキラと輝きます。
これをロータス効果といい、建物の屋根や車、衣料品などの撥水加工として応用されています。
太陽光発電パネルの表面を特に掃除しなくても、雨により汚れが流され発電効率が保たれるのも、このロータス効果の一つです。
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(CG by William Thielicke・Wiki pediaより)
大自然の智慧に学ぶことは際限なくあります。
国が変れば仏教のスタイルも変ります。
例えばお釈迦様の誕生を祝う「釈尊降誕会(花まつり)」一つをとっても、行なわれる日付や法要の形態は同じ仏教とは思えないほどです。
北伝仏教の伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。
インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日(ウェーサーカ祭)であるとされている。
インド暦の2月は中国暦の4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。また、法顕の仏国記には「建卯」月の8日または1日から15日にかけて、グプタ朝治下のインド各地で祝祭が行われていたとある。
中国語で「卯の月」とは春分を含む月であり、インド暦の正月祭(例えばタイにおけるソンクラーン)が起源である可能性もある。
現在においては、正月などの他の伝統行事と同じように、日本と日本以外の全ての東アジア圏や世界各地の華人社会とで日付の慣行が全く異なる。
日本では、グレゴリオ暦4月8日、または寺院によっては同5月8日(月遅れ)を灌仏会とするのが一般である。他方、日本以外の東アジア圏や華人社会ではこのようなグレゴリオ暦への読み替えという考え方は存在せず、従来通り中国暦4月8日をもって灌仏会とする
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾での国定佛誕灌仏会は、「千僧万衆祝仏誕、一心十願報母恩」(千僧万衆が仏陀の生誕を祝い、10の心願にて母に報恩する)ということで、母の日と融合して行なわれています。
したがって、ウェーサーカとも建卯8日とも関係無く、5月第2日曜日開催となっているのです。
それにしても、凱達格蘭大道(全長400m両側10車線)を埋め尽くす僧侶と参列者・・・圧倒的な迫力ですね。
(国定佛誕灌仏会・浴佛節)での般若心経
世界各地での般若心経読経法は先日ブログ記事にしたとおりですが、この台湾での般若心経は、原文が日本と同じですから耳に馴染みます。
台湾の人口は約2300万、そのうち約1000万人が仏教信者と言われています。
仏教信者の数は、20年で倍増しました。
その要因としては
「中国の台頭などで先行き不安感も出ており、心の安寧を仏教に求めている」
「社会構造の変化や高齢化」
などがあるといいます。
法要の行い方、信徒がどのように参列されているのか、情報発信の仕方・・・・大いに学ぶところがありますね。
即心会研修-佛光山寺
台湾仏教を担う尼僧たち
世界を巡る般若心経
第11回ゆめ観音アジアフェスティバル報告(2)
ゆめ観音2007報告(2)
ブッダもキリストも誕生日は分からない
梅に疲労軽減効果 県が共同研究で実証和歌山県は26日、産学官の共同研究で、梅果実成分の肉体疲労軽減効果を実証したと発表した。梅由来のクエン酸と梅酢ポリフェノールの併用摂取で効果が高まることも分かった。県は「梅の効能を裏付けることで、売り上げ増につなげたい」と話している。
共同研究は文部科学省の補助事業。県工業技術センター(和歌山市)とサッポロ飲料(本社・東京)、近畿大学生物理工学部(紀の川市)で行っている。
実験は梅干し製造時に生成する梅酢から取り出したポリフェノール、クエン酸、その両方を含む飼料の3種を3週連続でマウスに与え、それぞれ遊泳時間の変化を調べた。
どの飼料でも1、2、3週すべての時点で、遊泳時間が通常のマウスを上回った。中でもポリフェノールとクエン酸併用摂取の効果が最も大きく、2週目で通常の1・2倍を超えた。
梅は古くから健康食品とされており、サッポロ飲料が2007年に行ったイメージ調査でも7割が「梅は健康に良い」と回答した。しかし、効能を数値化した例は少なく、今回の実証は意義が大きいという。
中でもこれまで廃棄対象だった梅酢は、安全性の高い新素材として活用が広がる可能性が高まった。県産業技術政策課は「新しい加工品への活用はもちろん、既存の梅干しや梅酒にも健康情報を付与することで、梅産業全体の活性化になる」と期待している。
サッポロ飲料は「30年以上、和歌山産梅果汁の飲料を販売している。直ちに新商品を投入できるわけではないが、共同研究を継続し、梅成分と疲労軽減のメカニズムを解明したい」と話している。
(紀伊民報 4月27日)
寺院の境内には梅がよく植えられています。
単に花を愛でるというだけではなく、その実が実用的であるという理由もあるでしょう。
遠くからお越しいただいたお客様をおもてなしするために「梅湯」をお出しします。
梅湯とは、蜜湯に、割り箸に挟んだ梅干を添えたものです。
単に飲み心地が良いというだけではなく、疲労を癒す効果があるということが実証されたようです。
永年培われた智慧でもありますね。
昨日GlyphWikiについてブログ記事を書きましたので、漢字の元素周期表を作成してみました。
マウスを文字に合わせると元素記号と名前が表示される仕組みにしています。
| 1A | 2A | 3A | 4A | 5A | 6A | 7A | 8 | 1B | 2B | 3B | 4B | 5B | 6B | 7B | 0 | |||
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | |
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L |
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A |
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Uut |
Uuq |
Uup |
Uuh |
Uus |
Uuo |
| L | |
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金属には「金偏」、非金属には「石偏」
常温で気体の元素には「气」、
常温で液体となる元素には「水偏(さんずい)」や「水」がついています。
周期表を漢字で眺めてみると新たな発見もあります。
漢字は素晴らしいとつくづく感じます。
※原子番号 105番
~ 108番
は、昨日のブログ記事で紹介した拡張文字コードを使用しないと表示されません。
※漢字の画像元はGlyphWik より引用しています。
※個人的感想ですが、原子番号 112番
は、漢字の要素に「水」を入れておくべきだったんじゃないかなぁ・・・
この春、『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』が技術評論社より出版されました。
出版元の技術評論者様より献本いただきました。
リコールを起こさないソフトウェアのつくり方
(組込みプレスSelection) (単行本(ソフトカバー))出版社: 技術評論社 (2010/3/19)
ISBN-13: 978-4774142166
内容紹介
さまざまな電子機器がソフトウェアで制御されるようになった昨今、トヨタのハイブリッド車プリウスのブレーキ問題をはじめソフトウェアが絡んだリコールが年々増加しています。ソフトウェアは見えないだけに、何がどのようにして問題を起こしているのか簡単には解明できません。
本書では大規模、複雑化したソフトウェアにどのようにして問題が入り込むのかを実例をもとに解き明かし、日本のソフトウェアプロジェクトにフィットしたマネージメント技術および、ソフトウェアの品質と開発効率向上の両立を実現するためのソフトウェアの資産化の技術を解説します。また、付録で「MISRA SA;MISRAソフトウェア安全解析ガイドライン」の概要を紹介しています。
『リコールを起こさないソフトウェアのつくり方』目次
Part1 ソフトウェアの危うさの本質を体感してみよう
Chapter 1 ソフトウェアの危うさを知ろう
Chapter 2 危ないソフトウェアのプログラム例とケーススタディ
Chapter 3 ソフトウェアはなぜ危ないのか
Chapter 4 ソフトウェアの品質を高く保持するために
coffee break アメリカ人と日本人
Part2 日本的ソフトウェアプロジェクトの管理はここから
Chapter 5 ソフトウェア開発の理想と現実
Chapter 6 日本のソフトウェアプロジェクトに求められる取り組み
Chapter 7 ソフトウェア構成管理
Chapter 8 ソフトウェア変更管理
Chapter 9 レビュー
coffee break 問題解決能力:自ら考え行動する力
Part3 ソフトウェア資産化の技術がリコール防止につながる
Chapter 10 ソフトウェア開発のプラットフォーム
Chapter 11 ソフトウェアシステムとソフトウェア搭載機器の価値
coffee break 3 ものづくり戦略とソフトウェア品質:品質=Qualityの話
Chapter 12 再利用資産を抽出するためのアプローチ
Chapter 13 再利用資産を抽出する手順
coffee break 4 UML導入のススメ
Chapter 14 再利用資産の抽出のケーススタディ
Chapter 15 再利用資産の抽出後のアプローチ
coffee break 5 テストカバレッジ
Chapter 16 安全性が求められるシステムに対するアプローチ
Chapter 17 安全アーキテクチャの検討
Chapter 18 ソフトウェアを資産化して品質と開発効率を高める
この本の中のChapter 17 「安全アーキテクチャの検討」で、当ブログの一部が引用されています。
どこで繋がりがあるかわかりませんね。
ところで、この本はトヨタ・プリウスのリコール問題をはじめ、最近話題となっているテーマについて技術的に掘り下げ纏め上げられている本です。
ソフトウエア開発にかかわる技術者のみならず、さまざまな分野で応用できる本だと感じます。
本屋さんにも並んでおりますので、是非お手にとって読んでみてください。
コーヒーブレイクとして「アメリカ人と日本人」
・・・日本の製品が欧米の製品より高品質なワケ・・・・・・
このような本の合間合間にあるコラムもとても面白いですよ。
貞昌院のライブカメラに使用しているMaxellのWS30が時々きまぐれな作風の画像を作り出しています。
しばらく調子が良かったのですが、ここ数日、また「きまぐれ」を起こすようになりました。
色数を大胆に落とし、色が変わる部分に墨線が入る技法を用いた画法をリーニュ・クレール様式という。 現代的な浮世絵とも解釈され、日本ではEIJIN、わたせせいぞうが有名である。
点の集合や非常に短いタッチで表現する画法を点描法という。 印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合をフランスの画家、ジュルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立、ポール・シニャックやカミーユ・ピサロらを生み出した。 水墨画では、米芾や米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米法山水が有名である。
緑と黄色から成る方形の「コンポジション」といえる。 この画風は抽象表現の実験が続く中でモンドリアンによって生み出された。水平と垂直の直線のみによって分割された青・赤・黄の原色を用いたモンドリアンの作品群が知られる。
■関連ブログ記事
今月10日に発売された『トイレの神様』がちょっとした反響を呼んでいます。
植村花菜さんの、小学生の頃おばあちゃんと暮らしていた実体験を元に実体験を元に書き下ろられた曲です。
おばあちゃんからプレゼントされた
トイレには それはそれはキレイな 女神様がいるんやで
という言葉が印象的です。
きっと、2010年を代表する曲の1つになるのではないでしょうか。
余談
お寺にも烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)という『トイレの神様』がいらっしゃいます。
インドの火の神アグニが元であるとされ、大威力烏枢瑟摩明王経などにも説かれています。
禅寺では、トイレのことを東司(とうす)といいます。
その東司を守護しているのが烏枢沙摩明王なのです。
曹洞宗の開祖、道元禅師の著された『正法眼蔵』にも東司で用を足す際の心得、作法が詳細に記されています。
両辺を汚すことなかれ 前後にそましむることなかれ 『正法眼蔵』「洗浄」
東司も修行道場・七堂伽藍の1つであり、ここを大切に使用し、清浄に保つことも修行であるのです。
次のような川柳を掲げているお寺様もありました。
急ぐとも 外にこぼすな 玉の露 吉野の花も散れば見苦し急ぐとも、心静かに手を添えて、外に漏らすな松茸の露 (詠み人知らず)
修行道場を訪ねた際には、是非『トイレの神様』を探してみてください。

昨年、山手線にチョコレート色の電車が走っていました。
これは品川駅でその電車に出会った際にケイタイで撮影したもの。
明治製菓と山手線100周年のコラボレーションだったようです。
山手線は「まあるい緑の山手線♪」というように、緑色というイメージが強いのですが、1909年から始まる歴史を Wikipedia などで調べてみると緑色の時代というのは意外と短いことがわかります。
山手線の色の変遷を右の図にまとめてみました。
歴史の半分以上がチョコレート色(正確には葡萄色)ですね。
このように昭和30年代まではチョコレート色が残っていたようです。
恐らくは東京オリンピック開催も決定し準次新型の電車に置き換えられていったのでしょう。
流石に昭和30年代のチョコレート色の山手線は見たことがありませんでしたが、私が小学生の頃は横浜線や南武線、鶴見線などにもまだまだ残されおりました。
冷房など無く、天井の扇風機が車内の空気をかき回していたり、走っているときのモーターの音が「ガガガガガッガガ~」と五月蝿いうなり声を上げたりして、その人間くささが好きで、電車待ちをしていてチョコレート色の電車が来ると内心とても嬉しかった記憶があります。
ということで、久し振りにチョコレート色の電車に出会って昔の思い出が蘇りました。
今の電車は性能はよいのでしょうけれど、乗ってワクワクするようなものってあまり無いような気がします。
涅槃会では、お釈迦様の入滅の様子を描いた「涅槃図」を掲げたりします。
このように、宗教的な物語のある絵画を「説話画」といい、その「説話的絵画」に描かれている内容を解き語ることを「絵解き」といいます。
2月15日の涅槃会に向けて、涅槃図を眼にする機会があると思います。
涅槃図は基本的な決まりごとがあり、その基本から派生した様々なバリエーションがあります。
いくつかの基本を押さえた上でご覧いただくとさまざまなことが見えてくると思います。
涅槃図は、お釈迦様が誕生されてから入滅されるまでの、いわゆる「八相」のうちの涅槃(入滅)を主題としています。
ブッダガヤの菩提樹の下、悟りを開かれ(成道)後45年間に亘る各地での説法を終え、いよいよ死期を迎えたお釈迦が沙羅双樹の下に牀座を設け、静かに臨終の時を迎る情景です。
■入滅されたのは旧暦2月15日とされますから、上空には満月が描かれます。
■空には忉利天から降下した釈尊の生母、摩耶夫人がお釈迦様をお迎えに表れます。
■牀座の周囲には八本の沙羅の木。これは八正道を表すとされています。
■沙羅の木は時期はずれの花を咲かせ入滅を悲しみます。項垂れている花が鶴ににていることから鶴林という語が生まれました。
■沙羅の木には釈尊の使用した鉢とも、水を入れた革袋とも言われる袋が掛けられています。
■沙羅双樹の向こう側にはクシナガラの熙連河が描かれます。
■釈尊の入滅を悲しむ弟子、菩薩、羅漢たち。釈迦の足に須跋陀羅(註)尊者が手を掛けます。気絶して倒れているのは阿難尊者。一比丘が水を注ぎます。
■動物たちや虫たちも集まり悲しみに暮れます。描かれる動物たちは時代により変化していきますが52種類(五十二衆)というのが基本となります。
描かれている動物たちの中で「猫」が描かれていないということがよく話題に上ります。
大抵の涅槃図には猫が居ません。
理由は諸説ありますが、室町時代以前は猫は魔物扱いされ、涅槃図に描かれる五十二衆の中に含まれることがありませんでした。
ただ、こういうものには必ず例外があるもので、室町時代初期の禅僧・吉山明兆の描く涅槃図には大抵猫が描かれています。涅槃図を仕上げている時に一匹の猫が近寄ってきて、涅槃図に猫が描かれないことを哀れんで、自らの筆による涅槃図には猫を描いたということです。
また、昨年の市仏連涅槃会の会場となった戸塚区R寺様の涅槃図にも猫が描かれています。
こちらは菱川師宣によるものだそうです。
⇒戸塚区R寺様のブログ「さんぜ通信」にリンク
涅槃図を見るにつけ、謎解ときを交えながら、その描かれた背景に思いを馳せることにより仏教への親しみも深まっていくのではないでしょうか。
いくつか謎を箇条書きにしてみます。
是非調べてみてください。
★お釈迦様は北枕であったのか。そうであれば何故か。
★沙羅双樹の沙羅の花ってどんな花か
★十大弟子(舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、須菩提、富楼那弥多羅尼子、摩訶迦旃延、阿那律、優波離、羅睺羅、阿難 諸尊者)は何処にいらっしゃるか
★涅槃図には阿那律尊者が二重に描かれている。何故か。
★お釈迦様が入滅される原因となった、純陀がお釈迦様に供養した食べ物は何か。
★牀座に泣き伏しているのは誰か。
★気絶した阿難尊者を介抱しようとしているのは誰か。
★お釈迦様の足が汚れている理由は何か。
★老女と須跋陀羅尊者が似ているのは何故か(上記註)。
★菩薩、羅漢たちの種類は?
★動物たちがお釈迦様の元に到着した順番は?
★動物・虫の種類は時代により経典によりどのような違いがあるか。
などなど。
一つの絵から派生する興味は尽きないですね。
お釈迦様が入滅されて2500年。
肉体は滅びても、その教えは世界各地で受継がれて生かされています。
今日の定例坐禅会にも多くの参加をいただきました。
この時間、大分明るくなってきました。
日の出の時刻が段々早まっていることが実感できます。
■関連ブログリンク
みんな読んでるか~い? (つらつら日暮らし)
涅槃図 (tera日記) ※こちらにも涅槃図に猫が描かれています
今月末より貞昌院本堂室中に江戸時代この永谷の地に立てられた高札を展示しています。
この高札は、元々は下野庭にある旧家の物置にあったものですが、維持していくことが難しくなったため、貞昌院で保管展示を引き受けることになったものです。
古いものであるため、虫食いの穴が随所に見られます。
このような貴重な文化財は、家主が代替わりする度に散逸の危機にさらされます。
地域が一体となって文化財を保存を行なう取組みをしていかないと後で取り返しがつかないことになってしまうでしょう。
地域に伝わる文化財の大切さを啓発し次世代へ受継ぐために多くの方にご覧頂きたいと思います。
高札に書いてある内容は以下のとおりです。
大津御預役所高札近頃浪人ども水戸殿浪人 或は、新徴組などと唱え ところどころ身元よろしきものども 攘夷の儀を口実に無心もうしかけ、その余り公事出入り等に携わり かれこれ申しおどし、金子、差し出させ候たぐい これあり候ところ、おいおい増長におよびみだりに勅命などと申し触れ、在々農民を覚類に引入れ候たぐいもこれあるやにあい聞え 今般御上洛、仰せいださる折がら捨ておきがたくこれにより以来、御料、私領、村々申し合せおき、帯刀致しおり候とも浪人体にて怪しく見受け侯分は容赦無く召し捕りて、手向いいたし侯わば切り殺し 候とも打ち殺し候ともいたすべく旨 仰せいだされ候あいだ、悪事に携わざる者どもはそうそう旧主へ帰参の儀、あい願い神妙に奉行いたすべし、もし悪事に携わり或は子細これあり旧主へたち戻り難き分は、ありていに、訴いいずべく候とも始末に応じ罪を免し又は難儀相成らざる様、取りはからいつかわすべく候
万石以上、以下ども用向きこれある家来、旅行至させ候らわばその度々きっと道中奉行へあい達し先ぶれ差し出すべく、領分知行よりまかり出で候もの共も先ぶれ差し出しいずれもこの程、相触れ候とおり調印の書付をもって関所にて、相通すべく、万一先ぶれ差し出されず、旅行いたし或は旧主へ帰参もいたさず召し捕らわれ候せつに至り手向いいたし、切り殺され侯らわば、其の身の不念に候あいだ、其の旨存ずべく候右の通り
公儀より仰せいだされ侯あいだ村々取締らず、これ無き様堅くあい守るべく者也亥 大津
十二月 御預役所
この高札は、江戸時代独特の文体で書かれています。
内容は十四代将軍徳川家茂が将軍として229年振りに行った御上洛のため、街道筋の治安を強化するために出されたものと考えられます。
人々は旅行することを控え、村から勝手に移動してはいけない。
浪人の取締りを厳しくすること、もしも悪事などを行なって村に戻れない場合には役所に届ければ便宜を図る、などが書かれています。
三代将軍徳川家光以来十三代までの長い間、将軍が京都へ行くことはありませんでした。
当時の上洛とは将軍とともに重要書類全てを運び込み、幕府そのものが移動する程大変なことだったようです。
高札が建てられたのは1863(文久3・癸亥)年、御上洛が行なわれたのは1864(文久4)年ですから、御上洛の一年前から鎌倉の片田舎、現在の上永谷周辺にまで高札が立っていたということは、いかに御上洛の警戒が厳しかったかが良くわかります。
(参考文献『お母さんが伝えるふるさと下野庭』 昭和63年発行・しものば郷土史編集委員会編)
昨晩何気なくテレビを見ていたら、NHKの番組『爆笑問題のニッポンの教養』で三浦公亮先生が出演されていました。
三浦先生の考案したミウラ折りはさまざまな分野で応用されています。
例えば大きな紙に印刷されている地図は、どのように折りたたむかによって使い勝手が大きく変わってきます。
これを一瞬のうちにたたみ、使うときに開くことができる便利な折り方、それがミウラ折りです。
一瞬で開くことができ、畳むときも一瞬。そして、折り目を南北に合わせることもできますし、折り目が破れにくく構造上も安定しているので開いたときに読みやすい。
お守りの中に納められた経典のようなものにも応用できます。
チューハイの缶にもこの折り方が見られます。
この缶は単に持ちやすさのために折り目がつけられているのではなく、アルミ缶のもつ「ふにゃふにゃ感」を、構造的に補うという役目も果たしています。
缶を開ける前には炭酸の圧力で折り目が出ていませんが、缶を開けると圧力が抜けてミウラ折りの形に変化します。
地図の折り方や、チューハイの缶のほかに太陽系探査衛星「はるか」のアンテナ、スペースシャトルのソーラパネル、宇宙船の構造物(PCCPシェル)としても応用されています。
宇宙に運ぶロケットの中では小さく折りたたまれていて、宇宙空間でそれを広げるというわけです。
具体的な折り方は、太陽系探査衛星「はるか」のVSOP計画に携わっていた私の弟(亀野誠二)のサイトに詳しく紹介されています。
⇒地図をミウラ折りにしてみよう
是非紙を広げて試してみてください。
ミウラ折りに表れるパターンは、基本的に4つの平行四辺形が繰り返される「二重波形可展面」となります。
三浦先生は、円筒形の紙の筒の端を机にぐしゃりと押しつぶしたときに表れるパターンから研究を深め、ミウラ折りの原理に辿りつきました。

(c)NHK
潰れて、一見ぐしゃぐしゃになった状態から、構造的に安定するパターンを導きだしているところが素晴らしいですね。
誰でも日常的に見る何気ない現象の中から着想しそれを発展させるという発想力の賜物といえます。
しかし、当初はその有意性について気づくものはほとんどいなかったそうです。
20年以上の時を経て缶のデザインに応用され世に出されるきっかけとなったのも、開発していた東洋製罐の技術者が研究室に置かれていたミウラ折りの紙の筒をみたことによるものです。
試行錯誤を経て「ダイヤカット缶」として製品として世に出されることとなりました。
それにしても、日本の技術力は凄いものです。
一度作った折り目を再び折り返す伝統的な「折り紙」の手法を円筒形の缶に応用し、量産化することを実現したのですから。
チューハイの缶には、隠されたいくつかの数学的なトリビアもあります。
・缶につけられた菱形のパターンは一周いくつになっているか。それは何故か。
・缶を開けたときに折り目に沿って折りたたまれるが、印刷された模様が歪まないようになっている。どのような工夫がなされているか。
・缶を開けたときに折りたたまれるので、容積が小さくなるはずであるが、どの程度小さくなるか。
考えながらチューハイを飲むと、良い酒のつまみになるかもしれません。
それにしても、大自然の中では既に何億年も前からミウラ折りの原理が使われています。
木々の新芽の中に折りたたまれた若葉、昆虫の羽根・・・・・
このような智慧の一部に、私たちがようやく気づきはじめたというところでなのしょう。
![]()
(左)セミの羽化。貞昌院境内で撮影。羽がだいぶ伸びてきました
(右)太陽系探査衛星「はるか」。宇宙空間でアンテナを伸ばします
今月(2010年1月)は様々な天体現象が目白押しです。
主なものは
1月1日 部分月食
1月15日 金環日食(西日本では日没帯食)
1月25日 プレヤデス星団(すばる)食
1月30日 今月2度目の満月(大きな満月)
月は地球の周りを、地球は太陽の周りを回っています。
太陽-月-地球 となるときに新月
太陽-地球-月 となるときに満月
となるということを単純に考えると、新月のたびに日食、満月のたびに月食となりそうなものですが、実際にはそうなりません。
折角ですから、なぜそうならないかということの説明をワードで図として作ってみました。

月が地球の周りを回る軌道は、地球が太陽を回る軌道よりも約5度傾いています。
また、地球からの太陽・月の見かけの大きさは、約0.5度(10円玉を腕いっぱいに伸ばして眺めた程度)です。
日食、月食はそれぞれ3つの天体がほぼ一直線(例えば日食は見かけ上約0.5度の範囲内)に並ばないと起きませんから、新月ごとに日食にならず、満月ごとに月食にならないということになります。
地球から見た見かけの太陽の軌道を「黄道」
地球から見た見かけの月の軌道を「白道」
といい、これも当然約5度の軌道面の傾きがあり、それが交わる点を「昇交点」といいます。
日食、月食は「昇交点」付近で起こることになります。
上図でいえば「昇交点」は地球が公転軌道上「A」の位置関係に来たときですね。
このときに月が満月であれば月食が起こりますし、新月であれば日食が起こります。
すなわち、地球の公転と月の公転に関する数字の最小公倍数が、日食、月食周期に関係してきそうだということがわかります。
地球から見た太陽が昇交点から昇交点にもどる周期は 346.6201日 (これを1食年といいます)
新月から新月(あるいは満月から満月)までの周期は 29.530589日 (これを1朔望月といいます)
ですから、この2つの最小公倍数は、ほぼ食年の19倍、朔望月の223倍となります。
19 食年 = 6585.782日
223 朔望月 = 6585.3212日
6585.3212日 = 6585日+0.3212日 = 18年11日7時間42分32秒 (うるう年の関係で18年10日7時間~の場合あり)
この周期で日食、月食が起こることになります。
これをサロス周期といい、アッシリア時代には既に知られていた周期であります。
ここでポイントはサロス周期の約8時間(1/3日)のずれです。
地球上のある地点で日食(月食)が見られたとして、その18年11日後には約+8時間のずれのため地球の経度で約120度ずれたポイントに日食(月食)帯があらわれます。
3サロス周期経つと、同じ地点にもどってきますので、昨年の南西諸島一帯で見られた日食は1サロス周期後には経度120度ほど離れた場所で同様の日食が見られますし、3サロス周期後には2009年と同じ地点で同様の日食が起こることになります。
実際にはサロス周期は1つだけでなく、地球全体で日食・月食ともにおよそ40もの系が同時進行しています。
逆に考えれば、 1サロス周期の間に地球上のどこかで日食・月食が概ね40回程度起こるということです。
その確率として、1サロス周期あたり
日食:皆既日食は11~14回、金環日食11~15回、金環皆既食0~3回、部分日食11~17回
月食:皆既月食が13~17回、部分月食が9~15回、半影月食が13~17回
となります。
さて、今月のこれからの天文現象に話を戻します。
まずは1月25日の すばる(プレヤデス星団)食。
「風の中のす~ばる~」
冬の夜空でひときわ目立つおうし座の散開星団、すばる(プレアデス星団=M45)を月が隠します。
このように月が背後の星を隠す現象を恒星食といいますが、すばる食に関しては、数年前から度々起こっていました。
サロス周期の関係で、18~19年程の周期で起こりやすい時期が巡ってきます。
1月25日はその周期の最後のすばる食です。
今回を最後に、2024年まですばる食は見られません。
双眼鏡程度で充分楽しめますので晴れていれば冬の夜空を見上げてみることをお勧めします。
Stella teaterですばる食を観測地点横浜としてシミュレーションしてみました。
もう一つ、1月30日 今月2度目の満月です。
月は楕円軌道で回っていますので見かけ上の月の大きさは変わります。
1月30日は一年の中で再も地球に接近します。
また、地軸が傾いていることにより、冬の太陽は低く、その反対側にある満月は高い位置に来ます。
さらに冬晴れの天気となれば、夜空にひときわ大きく、明るく、高く輝く満月が望めること間違いありません。
特別な満月となります。
蛇足
逆に、低い満月(正確には満月ではない)を愛でるのが中秋の名月です。
■おすすめの本
『天体観測の教科書 星食・月食・日食観測編』―天文アマチュアのための (単行本)
広瀬 敏夫 (編集), 相馬 充
価格: ¥ 2,310
『Total Solar Eclipses and How to Observe Them』 (Astronomers' Observing Guides)
Martin Mobberley (著)
価格: ¥ 2,882
今年は元日早々から月食を見ることができました。
その次の新月の日、1月15日には今度は日食を見ることができます。
しかも、この日食は今世紀最大の継続時間をもつ金環食となります。
金環食を見ることができる範囲は中央アフリカからモルジブ、ミャンマー、中国の青島を通る地帯です。
日食の継続時間は実に最長11分8秒となります。
![]()
(インド洋におけるシミュレーション:Stella teaterにより作成)
日食帯の西端である青島では、金環日食が終了した状態で日が沈んでいきます。
残念ながら日本では西日本で部分日食をみることができるだけとなりますが、それでも一ヶ月の間に月食と日食が見られることになります。
さて、ここで次なる興味は、日本で何処までの範囲で部分日食を眺めることができるかということです。
日本付近の日食図をもう少し詳細に計算してみると・・・・・
![]()
(上図はパソコン上で行なった計算ですので多少の誤差はご了承ください)
関東地方西部が限界のようですね。
条件がそろえば、もしかしたら見ることができるかもしれません。
神奈川県での日食欠けはじめの時刻は16時48分ですから、この時刻に太陽を見ることができれば、部分日食を見ることができるということになります。
とりあえず、見ることができた場合の状況をシミュレーションにて
追記
昨年も東南アジア地域で1月に金環日食がありました。
しかも、旧暦の元日に日食となる特別な日食でした。
(今年の日食は旧暦では12月1日です)
追記2
再来年(2012年)には関東地方でも金環日食が見られます。
その時を楽しみにしていましょう。
『市史通信』第6号(2009/11/30 横浜市史資料室発行)に興味深い記事が出ていました。
「1935年神奈川県名勝・史蹟投票」です。
全文はこちらで見ることが出来ますので併せてご覧ください。
| 名勝史蹟四十五佳選 (1935年選出) | |||
| 位 | 名勝・史跡 | 場所 | 票数 |
| 1 | 石小屋 | 愛甲郡半原 | 284,726 |
| 2 | 妙香寺 | 横浜市北方町 | 275,770 |
| 3 | 峰の灸 | 横浜市峰町円海山 | 239,345 |
| 4 | 玉泉寺 | 横浜市中村町 | 218,220 |
| 5 | 八菅神社 | 愛甲郡中津町 | 168,880 |
| 6 | 早川城趾 | 高座郡綾瀬村 | 166,204 |
| 7 | 石老山 | 津久井郡内郷村 | 163,165 |
| 8 | 浅間神社 | 横浜市浅間町 | 146,967 |
| 9 | 八景ノ棚 | 高座郡麻溝村 | 146,393 |
| 10 | 宮ヶ瀬渓谷 | 愛甲郡宮ヶ瀬 | 131,222 |
| 11 | 道了尊御本地 | 中郡成瀬村 | 123,417 |
| 12 | ペルリ上陸記念碑 | 三浦郡久里浜 | 121,684 |
| 13 | 丹沢の大滝 | 津久井郡鳥屋村 | 116,718 |
| 14 | 金砂山子育観音 | 藤沢町 | 111,775 |
| 15 | 北向庚申神社 | 高座郡座間村 | 109,722 |
| 16 | 鬼子母神常照寺 | 横浜市南太田町 | 105,437 |
| 17 | 重国城趾天満宮 | 高座郡渋谷村 | 95,169 |
| 18 | 城山城趾 | 津久井郡内郷村 | 92,829 |
| 19 | 鮎の水郷田名 | 高座郡田名村 | 83,413 |
| 20 | 花水河口 | 平塚市 | 80,350 |
| 21 | 志田山朝日寺 | 津久井郡串川村 | 71,895 |
| 22 | 青柳寺 | 高座郡大野村 | 69,718 |
| 23 | 称名寺百観音 | 久良岐郡金沢町 | 64,114 |
| 24 | 三眼六足稲荷 | 高座郡東厚木 | 62,145 |
| 25 | 与瀬神社 | 津久井郡与瀬町 | 60,616 |
| 26 | 綱島温泉桃雲台 | 横浜市綱島町 | 59,374 |
| 27 | 永谷天満宮 | 鎌倉郡永野村 | 50,729 |
| 28 | 大ダルミ | 津久井郡千木良村 | 50,311 |
| 29 | 若雷神社 | 都筑郡新田村 | 46,799 |
| 30 | 三浦畠山地蔵尊 | 三浦郡葉山町 | 46,593 |
| 31 | 畠山重忠霊堂 | 都筑郡都岡村 | 44,142 |
| 32 | 波切不動の滝 | 都筑郡新治村 | 42,373 |
| 33 | 吾妻神社 | 中郡二宮町 | 41,461 |
| 34 | 宝泉寺 | 高座郡小出村 | 39,646 |
| 35 | 柏山稲荷 | 藤沢町大庭 | 39,607 |
| 36 | 金蔵院安産子育観音 | 横浜市磯子 | 39,270 |
| 37 | 広沢寺温泉 | 愛甲郡玉川村 | 38,481 |
| 38 | 金目観音 | 中郡金目村 | 38,196 |
| 39 | 円満寺白衣観音 | 横浜市久保町 | 38,100 |
| 40 | 座間神社 | 高座郡座間村 | 37,816 |
| 41 | 白滝不動尊 | 横浜市中区根岸町 | 37,666 |
| 42 | 龍源院弁財天 | 高座郡座間村 | 36,578 |
| 43 | 旧城寺 | 都筑郡新治村 | 36,252 |
| 44 | 日限地蔵尊 | 鎌倉郡永野村 | 35,638 |
| 45 | 滝出現見合不動尊 | 高座郡御所見村 | 34,837 |
1935(昭和10)年に横浜貿易新報社(現在の神奈川新聞社の前身)創立45周年記念事業として行なわれた、神奈川県内の45か所の「名勝・史蹟」を読者投票で選定する『名勝史蹟四十五佳選』のいきさつが詳細に書かれています。
選定のコンセプトは「新しくして古き歴史とともに拓かれて来た近代県神奈川」は「『武相の天地』が描く『風光の神奈川』」であるが、その存在は「宝の持ち腐れ」であり、名勝史蹟による土地の発展は著しいものがあるのに、「有名地も声なくしては忘れられてゆく」のであり、そこで「欲求するものは『世に出す機会』である」というものです。
地元では有名だけれども、外部にはあまり知られていない名勝・史跡を新しく発掘し、選定しようという意気込みが感じられます。
この投票は、選定された45か所の名勝・史跡に記念標の建立、10位までに扁額の進呈、紙面上での紹介や絵葉書・写真帳を作製して紹介宣伝することが謳われており、新聞紙上でも報道が繰り返されたこともあって相当盛り上がったようです。
総投票数は実に450~500万票にもなったそうです。凄まじい数ですね。
結果は左表の通り。
当時の「隠れた」人気スポットが良くわかります。
なお、「新しく発掘」という観点から、既に有名な場所の得票が少ないという点も特徴です。
確かに金沢八景・城ヶ島・江ノ島・杉田・箱根・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・寒川神社・建長寺・円覚寺・平間寺・總持寺などは入っていないですね。
ちなみに見事1位となった石小屋とは、中津川渓谷のことです。
着目すべきは現在の港南区エリアから3箇所が選定されているということ。
3位 峰の灸(横浜市峰町円海山・239,345票)
27位 永谷天満宮(鎌倉郡永野村・50,729票)
44位 日限地蔵尊(鎌倉郡永野村・35,638票)
凄いですね~
3位の峰の灸っていうのは、円海山にある護念寺です。
古典落語『強情灸』にも登場するほど、江戸時代から「お灸」が有名で、字名を取って「峰の灸」と呼ばれていました。
当時の地図を見ると、かねさわ道(現在の笹下釜利谷道路)田中付近から峰の灸へ尾根道を辿る参道が見られます。
現在は洋光台、港南台の大規模開発、横浜横須賀道路の工事などによって、この参道はほとんど原形をとどめておりません。

※参道を赤で着色しました。赤丸で囲った卍が護念寺です。
(1/20000地形図「戸塚」・大正10年測図)
27位 永谷天満宮は、まさに貞昌院が別当として護っていた貞昌院に隣接する神社で、当時から地元に限らず各方面からの参拝者を集めていたことを伺わせます。
往時の天神山は桜山で、伊勢佐木町あたりの芸者たちがこぞって花見に訪れたそうです。
44位 日限地蔵尊も相当有名だったようで、永野小学校付近から永谷天満宮の脇を通り、上永谷5丁目を抜けて日限山に続く参道は、4の付く縁日の日には参道を人が埋め尽くしていたそうです。沿道には茶店も並び、賑わっていました。
現在は車がやっとすれ違えることができる程の細い道です。

※参道を赤で着色してみました
(1/20000地形図「戸塚」・明治36年測図)
これらの場所が神奈川の『名勝史蹟四十五佳選』に選ばれたという歴史的経緯は誇るべきことでありましょう。
追記
歴史を紐解いていくことは面白いですね。
今日のNHK『ブラタモリ』は横浜をブラタモリ。象の鼻や中華街からのスタートでした!
■関連ブログ記事
高浜虚子一行の永谷村探勝
日限地蔵尊
民企画運営講座 第6回 こうなんの歴史が貞昌院で開催されます。
日時:2009年12月19日(土) 10時00分 ~ 12時00分
会場:貞昌院 客殿
○ テ-マ: 港南区・明治創立の学舎のあゆみ
○ ナビゲータ : ワタクシが勤めさせていただきます。
(亀野哲也・ 貞昌院副住職)
○内容
Ⅰ.港南区・明治創立の学舎のあゆみ
港南区には、明治時代に日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校が開校しました。
その後、5番目の小学校開校は、実に昭和36年の南台小学校であります。
その時期から急速な人口増加と共に増え続け、平成20年には21校を数えました。
(現在は逆に1校減少し、21校となっています)また、日野、永野、日下、桜岡 の 4小学校開校以前には、地域の学舎の歴史もあります。
地域における学校の歴史を明治創立の4小学校の歩みから辿っていきます。貞昌院から見た永野村立尋常高等小学校(現在の永野小学校/大正12年)
田んぼがずっと広がっているあたりも、今は環状2号線が通り、すっかり様子が変わってしまっています。
※特別ゲストとして、地域を古くから知る平井さんにお越しいただく予定です。
これは、現在編集作業が進められている 『こうなんの写真アルバム』(仮題) ~明治創立の学舎に残された写真物語~ のための基礎資料となります。
それぞれの時代ごとに近隣の寺院と大いに関係が有ったことがわかりますし、宅地開発、人口増加と共に校舎・分校が枝分かれしていく様子もよくわかります。港南区・明治創立の学舎のあゆみ (参考:横浜市港南区役所ふるさとこうなん、『港南の歴史』、各小学校のあゆみ)
<港南区の歴史> |
永野小学校 |
日野小学校 |
日下小学校 |
桜岡小学校 |
|
江戸時代 |
現在の港南区の地域は、武蔵国久良岐郡に属する上大岡・雑色・関・松本・最戸・久保・宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の各村と、相模国鎌倉郡に属する永谷上・永谷中・上野庭・下野庭の各村からなる。 |
寺子屋 (天神社=貞昌院ほか) |
寺子屋 (洞雲閣ほか) |
寺子屋 (下大岡寺子屋ほか) |
|
明治初期 |
永谷上村と永谷中村が合併して永谷村に。 |
||||
1872年 |
雑色・関・松本の3か村が合併して笹下村に、宮ヶ谷・宮下・金井・吉原の4か村が合併して日野村に。 |
棲心庵学舎設置 (永谷村字八木2648番地) |
|||
1873年 |
第一大学第七中学区第五五番小学日野学舎 (字宮前2047) |
笹下東樹学舎設置 (関村の東樹院) |
|||
| 1874年 明治 7年 |
野庭学校設置 (正応寺を仮校舎とする) 棲心庵学舎は永谷学校と改称 |
最岡学舎設置 (来迎寺=現在の千手院) |
|||
1875年 |
日野学校と改称 |
最戸学校と改称 | |||
1877年 |
野庭学校新築 (永谷村字山田町1698番地) |
笹下学校と改称 |
|||
1878年 |
笹下の東樹院隣接地に久良岐郡役所を開設。 |
||||
1879年 |
水田の権田ケ谷戸に永谷学校新築。(永谷村字八木2690番地
勝海舟より「永谷学校」の書が贈られる。 |
||||
1880年 |
公立日野学校となる |
||||
1884年 |
関村の大火によって笹下小学校が焼失。 笹下学校、上笹下学校に分離 |
||||
1885年 |
村立日野学校となる |
||||
| 1887年 明治20年 |
最戸学校は最戸尋常小学校と改称 (大岡学校に尋常高等併置) |
||||
1889年 |
町村制が執行される。 笹下村と日野村が合併して日下村に、上大岡村・最戸村・久保村の3村が合併して大岡川村に、鎌倉郡の永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村に。 |
永谷学校と野庭学校が併合し、永野学校(本校)、野庭学校(分校)となる。 |
|||
| 1890年 明治23年 |
(大岡・井川・最戸学校が合併し大岡川学校と改称) ※現在の南区エリアのため( ) |
||||
1891年 |
小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。 |
||||
1892年 |
野庭学校が永谷学校の隣に村役場出張所の建物として移転。永野学校創立。 |
村立尋常日野小学校と改称 |
村立笹下尋常小学校 村立上笹下尋常小学校に改称 |
||
1893年 |
鎌倉郡永野村立尋常小学校と改称 |
||||
1901年 |
久良岐郡日下村立日野尋常高等小学校と改称。 |
||||
1903年 |
笹下・上笹下の2校を合併して久良岐郡日下村笹下に校舎を新築し、尋常日下小学校の開校式をあげる |
||||
1911年 |
大岡川村の一部が横浜市に編入(現在の南区エリア) | 校歌・記念式歌の使用を許可される |
(横浜市に編入され市立最戸尋常小学校となる) | ||
1912年 |
(久良岐郡大岡川村に旧名を引継ぎ村立尋常高等大岡川小学校として、久良岐郡大岡川村中里向田68番地に分離創立) | ||||
1913年 |
町に電灯がつき始める。 |
||||
1914年 |
記章(校章)制定 |
||||
1915年 |
鎌倉郡永野村立尋常高等小学校と改称、高等科併設 |
||||
1920年 |
上大岡駅前の鎌倉街道沿いに水道が敷かれる。 |
(久良岐郡村立大岡川尋常小学校と校名変更) |
|||
1921年 |
久良岐郡村立日下尋常小学校と改称 |
||||
1923年 |
関東大震災で大きな被害を受ける。 |
久良岐郡村立日野尋常高等小学校と改称 |
(2階建て校舎を除き全壊)
休校中は近隣3寺院にて分散授業 |
||
1926年 |
(新校舎落成。10教室) | ||||
1927年 |
第3次市域拡張で、久良岐郡日下村・大岡川村が横浜市に編入。区制施行に伴い、日下村・大岡川村は中区に編入。中区上大岡町・笹下町・日野町・最戸町・大久保町と改称。 | 横浜市立日野尋常高等小学校、現在地に移転 |
横浜市立日下尋常高等小学校と改称 |
(横浜市立桜岡尋常高等小学校と改称) |
|
1929年 |
弘明寺~日野町間に市営バスが運転開始。 |
||||
1930年 |
湘南電気自動車(現:京浜急行電鉄)が黄金町~浦賀間に開通。上大岡駅開設。 |
||||
1933年 |
日野共葬墓地(現:日野公園墓地)開設 |
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1936年 |
横浜刑務所が根岸から現在地(港南四丁目)に移転 。市域拡張で、鎌倉郡永野村は中区に編入。中区上永谷町・下永谷町・野庭町と改称。 |
横浜に合併のため,横浜市立永野尋常高等小学校と改称 横浜市立永野青年学校併設 |
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1940年 |
校旗制定 |
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1941年 |
法令改正により、横浜市立永野国民学校と改称 |
横浜市立日野国民学校と改称 |
横浜市立日下国民小学校と改称 |
新校地を中区大久保町13番地に得る。新校舎起工式を行う。 |
|
1942年 |
横浜市立桜岡国民学校と改称。 |
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1943年 |
中区の一部56か町の区域をもって南区を新設。南区となる。 |
青年学校を桜岡青年学校に統合 |
木造2階建て22教室が完成し、新校地に移る |
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1944年 |
疎開児童を受け入れる | 疎開児童を受け入れる | 分区により、南区大久保町13番地となる。木造平屋建て4教室(後に講堂として改築)が完成。 | ||
1945年 |
横浜大空襲(港南区のエリアは空襲を免れる) |
東福寺や東樹院で分散授業 |
戦争が激しくなり、児童56名が箱根宮城野村への集団疎開が始まる。 |
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1947年 |
六三制実施 |
横浜市立永野小学校と改称 |
横浜市立日野小学校と改称 |
横浜市立日下小学校と改称 |
横浜市立桜岡小学校となる。 戦争が終わり、全児童疎開先から引き上げる。 |
1948年 |
給食開始 |
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1950年 |
南区役所港南出張所開設(管轄内の世帯数3,990戸、人口19,748人) |
学校給食が始まる。 |
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1951年 |
学区変更(日野・笹下) |
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1953年 |
神奈川県戦没者慰霊堂、講和条約締結記念事業として建立。 |
創立80周年記念式典 |
創立50周年記念式開催 |
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1955年 |
野草園が全市に紹介される |
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1957年 |
市営バスが野庭口~横浜間を運行。 |
プール竣工 |
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1961年 |
創立50周年。 南台分校が開設、8教室305名(笹下町2213) |
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1962年 |
校庭中央の桜の木を切る |
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1963年 |
校歌制定(創立60周年) |
南台小学校、分離開校 |
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1965年 |
体育館落成 |
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1966年 |
芹が谷分校開校 |
吉原分校開校 |
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1967年 |
芹が谷分校独立 |
吉原小学校開校 |
プールが完成 鉄筋3階建て8教室完成(現在のA棟の一部) |
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1968年 |
下永谷分校開設(18教室874名) 鉄筋3階建て10教室完成(現在のA棟の一部)、給食室完成 下永谷小学校、分離独立 |
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1969年 |
南区の一部8か町の区域により港南区を新設。(管轄内の世帯数25,928戸、人口95,545人)。 |
藤の木分校開設、8教室275名(大岡町池の谷戸1722-1) 藤の木小学校分離開校(南区) |
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1970年 |
人口10万人突破 |
体育館完成・校歌制定,開校記念日とする |
校旗新調 |
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1971年 |
港南区総合庁舎落成港南保健所・港南消防署・港南公会堂開設 |
洋光台第一・第二小学校独立開校(磯子区) |
講堂兼体育館落成記念式典 |
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1972年 |
横浜市高速鉄道1号線(市営地下鉄)が上大岡~伊勢佐木長者町に開通。 |
校舎鉄筋化完了 |
創立100周年記念式典 特殊学級設置 |
上大岡小開校に伴い、学区の一部変更。 |
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1973年 |
国鉄(現:JR)根岸線全線開通、港南台駅開設。 |
野庭小学校分離開校 |
訪問指導学級併設 |
第1期東側鉄筋4階建て校舎完成。第2期北側鉄筋3階建て校舎・屋上プール完成。 日下のあゆみ70年史発行 |
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1974年 |
環境事業局港南工場と余熱利用施設(港南プール・蓬莱荘)完成。 日本住宅公団港南台団地入居開始。 |
日限山小学校開校分離 |
港南台第一小学校開校 |
創立70周年 新校舎落成記念式典 |
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1975年 |
人口15万人突破 |
日野南小学校開校 |
緑化植樹完了 |
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1976年 |
市営地下鉄(上大岡~上永谷)が延伸、港南中央駅・上永谷駅開設。 |
永谷小学校分離開校 |
港南台第二小学校開校 | ||
1978年 |
特殊学級開設 |
||||
1979年 |
区制10周年。区の花に「ひまわり・ききょう・あじさい」を制定。 横浜横須賀道路の一部開通 |
港南台第三小学校開校 | |||
1980年 |
上大岡駅前にバスターミナルが完成。 |
最後の木造校舎解体 |
第2運動場新設落成 |
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1980年 |
丸山台小学校分離開校 |
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| 1981年 昭和56年 |
野庭東小学校が野庭小学校より分離開校。 | ||||
1982年 |
創立90周年記念式典 |
創立110周年記念式典 |
鉄筋2階建て校舎新築(図書室・研修室) |
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1983年 |
横浜市南部病院の開院 |
小坪小学校開校 |
住所変更により、港南区大久保1-6-43となる。 |
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1984年 |
人口20万人突破 |
給食室、体育倉庫その他の改修工事完成 プール改築・竣工式 |
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1985年 |
市営地下鉄上永谷駅-舞岡駅間開業 | 新設プール完成。 住所表示変更(日野7-11-1) 校庭整備 学習園 植樹完成 |
学習園・学習池・花壇が完成、植樹完了 | ||
1986年 |
郷土資料館、A棟3階に開設 多目的教室(学習センター)開設 |
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1987年 |
学校前に歩道橋ができる |
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1992年 |
創立100周年記念式典 |
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1993年 |
住所変更日野町→日野中央二丁目 |
90周年記念式開催 |
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1994年 |
区制25周年。区のシンボルマーク・鳥(シジュウカラ)・木(クロガネモチ)を制定。 |
特殊学級再開設 |
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1996年 |
はまっ子ふれあいスクール開設 |
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1998年 |
環状2号線暫定開通 |
防災備蓄庫完成 |
防災備蓄庫設置工事 |
校庭整備・飼育小屋移築工事 |
プレハブ建て郷土資料館開設 |
2000年 |
はまっ子ふれあいスクール開設 |
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2002年 |
創立130周年記念式典 |
創立100周年記念式典開催 郷土資料館完成 |
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2005年 |
プレハブ棟:図工室、はまっ子ふれあいスクール完成 |
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| 2006年 平成18年 |
野庭小学校、野庭東小学校廃校。両校合併、野庭すずかけ小学校となる。 | ||||
2009年 |
区制40周年 |
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<港南区の歴史> |
永野小学校 |
日野小学校 |
日下小学校 |
桜岡小学校 |
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昨日、日本テレビ『所さんの目がテン!』で、紅葉の特集がありました。
その中の一齣。
「紅葉が一番美しく見えるのは、一日のうちで何時か」
ほとんどの人は昼前後が一番という認識ですが、答えは朝。
紅葉は陽があたると徐々に葉が萎んでしまい、昼過ぎにはくちゃくちゃになってしまいます。
日が沈んで夜露に当り、葉に水分が吸収されると葉は「シャキーン」と元の形に戻る。
したがって、朝が一番の見頃だという内容でした。
そうそう。
朝の紅葉は格別です。
今朝の境内で何枚か撮影してみました。
右写真は裏庭のイロハモミジです。昨夜は雨が降っていましたので更にキラキラ輝いています。
葉に朝露の水滴が残っているうちに朝日が差し込む紅葉は本当に美しいですね。
■関連ブログ記事
紅葉チャート2009
昨日のブログ記事で、根岸線の路線構想図の中で、新大船(現在の本郷台)から大船に直線で結ばれる構想があったことがわかります。
この路線は具体的にどのような路線を想定していたのでしょうか。
航空写真と地図から検証してみましょう。
まず、現在の状況から。
環状4号線(県道23号線)「笠間十字路」に立つと、東北東方向に斜めに伸びる直線道路が眼に入ります。
この道路は、戦後まもなくに撮影された航空写真にもはっきりと写っています。
太平洋戦争中、現在の本郷台駅周辺は、旧大日本帝国海軍の第一海軍燃料廠がありました。
したがって、戦時中はこの道路はとても重要な役割を果たしていたことがわかります。
栄区役所のホームページには次のような記述があります。
1938年(昭和13年)から、現在の本郷台を中心とする、小菅ケ谷、公田、桂地区の大水田地帯をつぶして、海軍の燃料廠が建設されました。この地域は本郷村の穀倉地帯で、春はレンゲ草が咲き乱れ、夏は一面の青田が広がり、秋ほ稲穂の黄金の波が美しい豊かな田園地帯でした。
今の城山橋の手前が正門。柏陽高校の運動場の東づめが東門。警察学校横のT字路が西門で、現在柏陽高校、消防学校、警察学校、栄区役所、野村コーポ、本郷台駅及び駅前高層住宅群、栄土木事務所、下水処理場、信光社等のところがその本部。栄警察署、南農協本郷支所、公会堂・栄スポーツセンター、消防署、保健所、地区センター、本郷中学校は工員宿舎・養成工寮・購買部等の付帯施設でした。共済病院は付属病院で、このほか鎌倉女子大は分室、笠間の公務員宿舎は将校クラブ、小菅ケ谷住宅や岩井口付近のほとんどが職員宿舎でした。
大船から笠間十字路を経て警察学校への道路もこの時に造られ、それによって水道が初めて本郷に引き込まれました。この道路は水道みちと呼ばれました。また、この道路に沿って、大船駅から鉄道の引込線が敷かれ小型のSLが貨車をひいて走り、電気も高圧線が引き込まれ、周辺の住宅にも昼間の通電がされました。原宿六浦線もこれと関連して、追浜の海軍航空隊と燃料廠と厚木の航空隊を連結する道路として建設されましたが、笠間大橋は完成しないうちに終戦となりました。これら燃料廠関係の施設の建設は本郷村の開発についての方向付けをしたことになり、今日の本郷の基本図となっています。便利になった事や所がたくさんありますが豊かで美しい本郷村は歴史の彼方へ消え去ってしまったのです。
第一海軍燃料廠と横浜市との合併(栄区役所)より引用 下線はkameno付記
つまり、海軍の戦艦、航空機、ロケット戦闘機「秋水」などに使用する燃料、潤滑油を研究、製造していた施設が現在の本郷台にあり、そこに結ばれる貨物船が引かれていたのです。
第一海軍燃料廠が建設されたのは1938年(昭和13年)。
航空写真を判読すると、現在の大船駅北口出口あたりにプラットホームが見え、ここから笠間十字路~第一海軍燃料廠まで線路が延びています。
笠間大橋はまだ出来ていませんね。
![]()
(1946/03/05米軍により撮影 国土変遷アーカイブより)
※鉄道の線路を赤線でなぞってみました。なお、南側に見える工場は、三菱の工場と思われます。
第一海軍燃料廠内部には
第一~第六研究室、第一~第九実験室、特殊潤滑油製造所、ヘックマン式真空蒸留室、グリース製造所、耐爆熱実験室、第一過酸化水素連接濃縮工場、第二過酸化水素連接濃縮工場、過酸化水素フラスコ濃縮工場、第一航空発動機実験場・実用機械、第二航空発動機実験場・ロケット燃料テスト、特殊燃料実験場、高圧燃料実験、潤滑油試験機関室 ディーゼルエンジン実験場・31型単箱ディーゼル及61型高速試験機関、ボイラー燃焼実験場、石炭液化実験場、低温低圧実験場、揮発油重合実験場、原油蒸留実験場、化学工業研究室や、それに付随する宿舎、病院などの施設があったようです。
ここからトラックにより追浜の海軍工場とを結ぶ軍用道路(現在の環状4号線)を通り、貨物列車により工場引込線から大船を通って物資が追浜や横須賀方面へ物資が運ばれました。
第一海軍燃料廠は、1952年(昭和27年)に駐留軍により接収され「米軍大船PX」となります。
根岸線建設計画において、新大船(本郷台)駅の設置場所については、この米軍大船PXが最適であると検討されます。
PXの全敷地面積は35万平米あり、米軍から払い下げされる目処がついたこと、周辺地区と併せて新しい街の形成が見込まれることにより、PX敷地北側を駅用地として確保できるように交渉が開始されました。
また、大船ー本郷台間は飯島を回り込み半円状に結ばれる路線が選定されました。
根岸線建設の時期と同時期には、東海道線の増線工事も同時進行で行なわれており、そのために根岸線の本郷台~大船間を先に行い、大船で一部根岸線を東海道線増線工事の切替に使用するということがなされたようです。
そのために、根岸線は横浜~港南台、本郷台~大船の部分が先に出来、港南台土地区画整理事業との兼ね合いがあった港南台~本郷台の部分が最後に竣工することとなりました。(昨日のブログ参照)
同一範囲の地図を並べてみました。
![]()
(左)地形図「戸塚」昭和20年部改・昭和22年発行 (右)地形図「戸塚」平成13年改測・平成14年発行
※なお、左側地図には史料をもとに第一海軍燃料廠の施設名称をkamenoが付記しています。

戦時中

昭和40年代前半

昭和50年代
参考文献
栄区の歴史「38 昭和のころ」 - 横浜市栄区役所
いたちかわらばん(通算30号)- 横浜市栄区役所
『根岸線工事記録』(昭和49年3月 日本鉄道建設公団東京支社)
港南区を通る唯一のJR路線、根岸線(年配の方には桜大線といったほうが馴染みがあるかもしれません)。その歴史的経緯をまとめてみました。
今日の記事は、以前のブログ記事 歴史に学ぶ港南台の会勉強会 の補足記事となります。
■根岸線計画の主な経緯
大正11年4月11日 鉄道敷設法別表(昭和12年4月1日一部改正)「神奈川県桜木町より北鎌倉に至る鉄道」
昭和31年2月24日 鉄道建設審議会「昭和31年度から調査を開始すべき新線」として調査線に編入「この線は桜木町から大船附近に至る線で、重要な都市の旅客交通を担当するとともに、横浜港湾臨海工業開発計画上まことに効果大なる線である。本線は複線電化すべき線として着工すべきである。」
昭和32年7月5日桜木町一大船問の運輸大臣の建設認可
昭和32年 調査測量
昭和33年 桜木町一磯子間の路線決定
昭和34年 建設工事に着手
昭和39年3月23日 日本鉄道建設公団発足
昭和39年5月19日 横浜一磯子間営業開始
横浜-磯子間は比較的すんなりと営業開始となりました。問題はここから先の区間です。
根岸線磯子-大船間の路線選定にあたっては
(1)日野廻り
(2)田中廻り
(3)杉田廻り
の3ルートが検討されています(下の地図参照)。
![]()
図:根岸線計画の変遷 (kameno作成、青が現在のルート)
もしも日野廻りのルートが採択されていれば、現在の港南中央から鎌倉街道沿いに国鉄が通り、七曲から大船に抜けるというルートとなっていますから、港南中央、吉原、清水橋あたりに駅が出来たかもしれないですね。港南区の歴史も大きく変わったわったことでしょう。
しかし、結果的に杉田廻りの路線が採択されます。
![]()
図:第一次工事計画変更線路縦断面図(杉田・新大船=本郷台間)『根岸線工事記録』より
(港南台地区に駅は計画されていなかった)
当初設置予定の駅は、新杉田、矢部野(現在の洋光台)、新大船(現在の本郷台)、そして大船に結ばれます。
この時点では港南台の駅計画は無く、しかも現在よりも南に500メートルほどずれた路線計画(地図の湘南日野を通る赤い線)でした。
後に地元の要望により湘南日野駅の設置が検討されます。
この湘南日野は、現在の港南台よりも南に500メートルの位置です。
このように鉄道公団は、当初、根岸線計画の中で港南台駅設置を想定していなかったのですが、結果的に港南台駅が設置されるに至るには、昭和41年3月に出された「根岸線延伸路線の駅設置について」の要望書が契機となっています。
以降の経緯をまとめてみます。
表:矢部野~大船間ルート変更、港南台駅設置に関する協議経過| 鉄道建設公団内部 | 地元関係 | 住宅公団関係 | 国鉄関係 |
41/3/25 根岸線延伸路線の駅設置について。 |
41/3/4 港南台土地区画整理事業区域決定及び事業決定 41/10/11 都計街路1.3.5号1.3.28号1.3.30号の告示 41/11/25 洋光台、港南台駅の設置について 住宅総裁→鉄道公団総裁(要望) 41/12/17 港南台駅の予定なし 鉄道公団総裁→住宅総裁 |
41/6/27 工事実施計画その1回答(大船連絡設備を除く) 41/8/9 大臣認可(その1) |
|
| 42/3/30 線路中心軌道測量完了(旧ルート) 42/8/24 工事実施計画その1変更上申保留となる) 42/10/14 湘南日野駅の設置を含め矢部野-新大船間のルート変更の検討 |
42/7/13 港南台駅設置(要望)住宅総裁→鉄道公団総裁 42/10/16 港南台駅設置の要望と費用一部負担の申入れ 住宅総裁→鉄道公団総裁 |
42/710 工事実施計画その1変更下協議東京支社長→関東支社長 42/8/19 関東支社長了承の回答 42/8/8 大船駅連絡設備について計画、着手の依頼(44/10)国鉄総裁→公団総栽 42/11/27 矢部野-大船間開業調査依頼 東京支社長→関東支社長 |
|
| 43/3/14ルート変更につき1住宅公団と協議6/7 | 43/11/2 横浜市戸塚区、飯島町、小菅ヶ谷町、鍛冶ケ谷町、南区日野町関係地主に中心改測および巾杭建植の立入説明 43/ 11/12 駅名変東陳情(洋光台、港南台)横浜市長→東京支社長 |
43/8/1 費用負由は1/2とする覚書 |
43/2/17 新大船-大船使用開始を45/10に要望 国鉄総裁→公団総裁(照会回答) |
| 44/3/30 線路中心、巾杭建植完了(新ルート) 44/7/30 用地測量完了予定 |
44/6/12 用地測量の立入説明 | 44/1/27 県回答 44/1/30 市回答 44/2/6 事業計画、施行規程大臣申請 44/9/8 同認可 |
44/6/6 矢部野-大船間その1変更下協議 東京支社長→関東支社長 |
根岸線のうち、港南区を通る部分の大半は、日本住宅公団が施工する港南台土地区画整理事業の区域内を通ります。
昭和40年当時公団が根岸線の磯子-大船間のルート決定の時点では港南台地区は大まかな構想しかなく、根岸線のルートは宅地造成の構想に近い線で現地形を勘案して鉄道公団としてのルートを杉田廻りルートに決定しています。
しかし、この当初計画は港南台地区の第百土地株式会社、並びに周辺の民間団地の中央を横断する計画となるため、造成開発や販売に重大な支障を与えるとして測量中止の申し入れがありました。
また、この時点で住宅公団は既に港南台地区の土地区画整理事業に一部着手ししていたこともあり、鉄道公団は住宅公団に対して第百土地および周辺団地を避け500メートル北側にずらしたルート変更の内容を説明し、協力方を要請したところ、この案の受諾とともに港南台駅新設の要望の申し入れが行なわれました。
新駅設置に要する工事費の折半負担と、根岸線のルート変更案に住宅公団が応じるという条件で設計協議が合意に達し、昭和44年6月6日国鉄関東支社長に「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」申請書が提出されます。
| 「矢部野(洋光台)-大船間工事実施計画その1の変更」について
変更理由書 |
これにより、路線のルート変更と、駅構造を切り土ではなくトンネル構造への変更が行なわれることとなりました。
港南台駅は住宅公団が新駅設置に係る相当の部分を負担することにより「新たに」現在の場所に設置されることとなりました。
実に港南区(当時は南区)唯一の国鉄駅であります。
港南台-本郷台間の工事が一番最後となり、 昭和48年4月9日に根岸線は全線開通となりました。
参考文献
『港南台の歴史(港南台駅開業まで)』(港南台バーズ)
『根岸線工事記録』(日本鉄道建設公団東京支社・昭和49年3月)
大船の街を見守る大船観音。
その白衣観音像がどこを向いて鎮座しているのでしょうか。
今日はそれを検証してみましょう。
以前、大船観音の頭上に登らせていただいたことがあります。
その時に目線の先にを辿ると、大船から鎌倉方面に延びる横須賀線の曲線、その向こうに見える山々。
概ね大体鎌倉市街地中心部のほうを向いているということはなんとなく判っていました。
Google earthでどこに向いているかを詳細に検証してみます。
図の赤い線が目線です。
大船観音の目線の先には鎌倉大仏(もしくは長谷観音)があるという噂がありましたが、実際はそれよりもやや東。
鎌倉駅と鎌倉大仏の間を通って由比ガ浜に抜けています。
もしかすると、昭和4年の初期の大船観音建造時には鎌倉大仏に向けて観音像を設計していたのかもしれません。
そうだとしたら概ね鎌倉大仏に向けようと建造したものの、若干の誤差が生じてしまったのでしょう。
では、鎌倉大仏はどこを向いているのでしょうか。
こちらもGoogle earthで調べて見ます。
真南よりやや西側を向いていますね。
だいたい伊豆大島の方向を向いていているようです。
ただし、鎌倉大仏に関しては、室町時代の津波で移動しているようですので、大仏殿に収まっていた当初は真南を向いていたのかも知れません。
ついでといっては何ですが、自由の女神像がどちらを向いているかも調べてみると・・・・・
湾を越えて・・・・・・
南アメリカ大陸の東側を向いていることがわかります。
フランスは自由の女神から見て左の方向ですね。
自由の女神像は、送り主のフランスの方向を向いていると思われがちですが、決してそうではありません。
建造物がどの方向を向いているかということは、非常に重要な意味をもちます。
前に港南図書館で開催された「横浜港の七不思議講演会」で、田中先生は横浜港開港当初の主要な建物は開港したての「横浜港」の方向に向けられていたということを検証されていました。
それぞれに隠された意味を探るということも面白いことですね。
境内のシンボルともいえる2本のイチョウの葉がだんだんと黄色く染まってまいりました。
まもなく見事な黄金色となります。
イチョウの黄葉は、見頃を迎えたかと思ったら一気に散ってしまいます。
タウンニュースでは昨年、記事として取り上げていただき、港南区役所発行の「まち自慢ガイドブック」では表紙を飾りました。
各方面より、今年の見頃の時期の問合せがありますので、過去の記録からイチョウの見頃を予想してみました。
(※1998年はきちんとした記録をとっていません)

上記図中、[50%]は散り始めて全体の半分程度が散った日付、[100%]は殆ど散った日付を示しています。
また、色は大体こんな感じで黄葉が進行したという目安です。
このように、毎年かなりばらつきがあることがわかります。
10月から11月にかけての気温の変化によって色づきの進み方が違いますし、散り始めの時期に風の強い日が有るか無いかによっても異なります。
予想は難しいものです。
それでも敢えて予想するとすれば、今年は比較的気温の低い日が多いので、昨年(20087年)よりやや早い進行ではないでしょうか。
12月1日前後が見頃であると思います。
本日(2009年11月20日)撮影したイチョウはこのような感じです。
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港南の絵本をつくろう会による、「昔の豊かな遊びを子どもたちに伝えるプロジェクト」が進行中です。
かつての豊かな遊びを、一緒に未来に引き継いでいきませんか!
「遊び」は子どもの育ちに欠かせないもの。
港南区では、子ども達はどんなところでどんな遊びをしていたのでしょう。
『港南の絵本をつくろう会』は、昔のさまざまな遊びをヒアリング集にまとめ、将来的には絵本にすることを
目指しています。
まずは、各年代ごとに地域にお住まいの方から遊びの想い出を中心にヒヤリングを行なっているところです。
どの方も、子どものころの思い出を語るときの表情は生きいきとしています。
まるでその時の様子を目の当たりにしているようです。
ヒヤリングの内容は、順次、纏められていきます。
形になった時点でまたお知らせいたします。
たくさんの発見もあったのですが、その中の一つをご紹介します。
それは、戦時中に生産していた「松根油」にまつわる話です。
永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
(松根油と戦時中の永谷)
今日のヒヤリングでも、松根油の話題となり、その中で「松根油を煮出すのに使っていた釜は、貞昌院の天水桶となっていた」ということが新たに判りました。
簡単に纏めると次の通りです。
「戦時中は鉄の供出のため戦前まであった天水桶は撤去されていた」
「戦中、松根油を煮出した釜が戦後不要になったため、貞昌院の本堂に持ってこられ、天水桶として設置した」
「しかし、鉄の質が悪いため、何十年か経つうちに腐食し穴が開いてしまった」
「そこで、新しい天水桶(現在あるブロンズ製のもの)を寄進することにした」
この2行目のことは初めて聞きました。
驚きです。
古いアルバムを取り出して、以前の天水桶が写っている写真を探してみました。
このころは本堂の正面に棕櫚の木があったのですね。
屋根はまだトタン葺きでした。
背景に見える黒いものが天水桶です。
穴が開き始めて水が漏れ出した頃の大きな真っ黒いドラム缶のような天水桶は、子どもの頃の記憶としてしっかり刻み込まれています。
その天水桶が、松根油を煮出した釜だったとは・・・・・
大本山總持寺では、毎月25日に常照殿において無際大師月忌(がっき)法要が営まれます。
無際大師とは、中国禅宗第8祖・石頭希遷禅師のことです。
『参同契』の経典を撰せられたといえば禅宗の系譜の上で重要な禅師であったかが判ると思います。
こちらも併せてご参照くださればと存じます。
無際大師月忌は冒頭に述べたように毎月25日(12月が御正当)となります。
その差定(式次第)は次の通りです。
【常照殿に於いて無際大師月忌 差定】
・前後三拝
・参同契
・回向(上慈恩)
(正当十二月は九拝差定・逮夜有)
總持寺御征忌会第3日
第3日(10月14日)
朝課罷
石頭希遷禅師月忌(於・放光堂)差定
・置茶湯
・前後三拝
・参同契
・回向
・法要罷 石頭希遷禅師真前にて焼香
ここで、何故14日に石頭希遷禅師月忌が営まれているかを考察するために差定の変遷を辿っていくと、どうやら總持寺に石頭希遷禅師のミイラ仏が安置されるようになってから、御両尊御征忌会随喜衆により「御真前」への拝登を、という要望もしくは法要都管寮の配慮があって差定として定着することとなったようです。
当時は、石頭希遷禅師が總持寺に安置されるということは大ニュースとなったのでしょう。
きっと御征忌中の石頭希遷禅師月忌は多くの随喜衆で放光堂(当時の法堂)が溢れかえっていたのではないかと思います。
現在では大祖堂での課罷法要と同時進行で内勤として営まれておりますので、法要には都管寮、両班寮、堂行寮の随喜のみとなっています。
なお、石頭希遷禅師のミイラ仏が日本に来た経緯については、複雑な経緯があり、中国版ウィキペディア(维基百科)には次のように記載されています。
石头希迁 (重定向自石頭希遷)
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石头希迁(700年-790年),禅宗大师。先於曹溪六祖門下出家為沙彌,惠能去世時,年僅十四歲,後依於六祖門下青原行思而開悟。曾在南岳一块巨石上结庐而居,称“石头和尚”,他這一系禪法,也因此被稱為石頭宗。提出“触目是道”的禅宗修行方法,有「石頭路滑」之稱。希迁的再传弟子创禅宗曹洞宗、法眼宗、云门宗。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。太平洋戰爭期間,日本人把石頭和尚真身搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。初期總持寺把石头希迁的真身開放給遊人參觀,後來已經收藏起來,謝絕參觀。
石头希迁著有《參同契》、《草庵歌》。来自 维基百科,自由的百科全书
下線はkamenoが付記しました。
当該下線部の記述は「在2008年11月27日 (四) 12:31所做的修订版本」とありますから最近書き加えられた記述ですね。
中国としては本音として返して欲しいのでしょう。
しかし、この記述は正しくなく、
「辛亥革命(1911)の時にミイラ仏を祀った寺が革命軍により焼かれたが、石頭希遷大和尚の研究家・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、三井物産の船で日本に運んだ。」
ということが史実です。
日本人山崎彪氏がいなければ、ミイラ仏は灰燼に帰していたことでしょう。
【追記】
维基百科 石头希迁 項下線部を修正してみました。
石头希迁在南嶽衡山南寺坐化。辛亥革命期間,革命军放火寺院烧了。日本人在火灾中搭救石頭和尚真身,搬到日本,至今仍供奉在日本總持寺。
■関連ブログ記事
大本山總持寺に祀られるミイラ仏
まずは、次の写真をご覧ください。
![]()
昭和6(1930)年当時の上大岡、和田山から弘明寺・最戸耕地方面を望む
(CC by 港南歴史協議会)
戦前の、炭鉱から亜炭を運び出すトロッコとその線路が写っている貴重な写真です。
付近には広大な水田が広がっていました。
稲藁が干されていますから丁度秋の収穫シーズンですね。
影の状況から察するに午後2時くらいに撮影されたものでしょう。
以前の記事 港南区の炭鉱と戦争の影でご紹介した炭鉱坑口の写真から延びる線路が見えます。
赤い線でトロッコの線路をなぞってみました。
線路脇には、トロッコが幾つか見られます。トロッコは青丸で囲いました。
茶色の線は道路です。
写真の右上(緑丸)には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の車両が見えます。一両編成ののんびりした電車ですね。
黄金町 - 浦賀間に湘南電気鉄道として鉄道が開通したのは昭和5(1930)年ですから開通したてですね。
この写真の撮影時期から数ヵ月後、横浜から野毛山のトンネルで敷設された京浜電鉄延長線と日の出町で接続、横浜・浦賀間の相互運転となります。
写真ではよくわかりませんが、このような車両だったのでしょう。
和田山(慰霊堂近辺)からの眺望をカシミールで再現したものを並列配置していました(上段右側)。
赤線で囲った四角の範囲が写真の範囲と一致します。
丘の稜線、道路の形など現在の地形から偲ぶことが出来ますね。
写真が撮影された場所「和田山」は、最戸2丁目、現在の戦没者慰霊堂の丘です。
なお、「和田山」の地名の由来は、近辺の急な坂道を利用して鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が関所を設けたことによります。
このことからわかるように、鎌倉古道下之道が通っておりますので、古来から交通の要所でありました。
大正時代から戦中にかけて貴重な燃料資源としての亜炭が採掘されていたという事実を物語る貴重な資料です。
冒頭の写真には右部分をパノラマで写した続きの写真があります。
右側の写真は上大岡駅方向を映しています。
こちらの写真にも左から5番目の架線柱の付近に湘南電気鉄道の車両が見えますね。
一枚の写真から得られることが沢山あることを実感できる写真です。
■関連ブログ記事
港南区には次のような昔話があります。
丘の上の黒船見物(上大岡)むかし、江戸時代の終りのころのお話です。
ある日、突然、浦賀沖に、アメリカの軍艦がやってきました。
日本人が、よその国へ行ったり、外国人が来たりしてはいけなかった時代でした。
港から離れていた村人たちは、のんびりと畑仕事をしていました。
子どもたちも、よく親の手伝いをしていましたが、暇をみつけては、野山をかけまわりうさぎを追いかけたり、木の上に登ったり、次から次へと遊びを考えだしては、仕事の合間に遊んでいました。
きょうも、小高い山の木のてっぺんに登って、はるか遠くをながめていた子どもたちが、竹づつをのぞくと、真黒い、みたこともない船が、丸い輪の中に現れたのでした。
びっくりした子どもたちは、それぞれ、すっとんで家に帰りましたが、家には誰もいません。じいちゃん、ばあちゃん、親たちまでが、庄屋の家の庭先に集まつて、ワイワイガヤガヤさわいでいたのです。
浦賀では、一日中半鐘が鳴っているとか、真黒い大きな船が煙りをはいては、ボー、ボーと大きな音をだしているというのです。
目をつりあげ、口をぎゅつと結んだ武士が、馬にむちをあてては、西へ東へ、血そうを変えながら走らせているとか、街道沿いの人たちは、家の中にかくれて、息をつめてなりゆきを見守っているとか、杉田村へ野菜を売りにいってきたじいさんが、まるで見てきたかのように、まくしたてていました。
金沢の小柴沖まで、黒船が入ってきていると聞くと、戦になるかも知れないと、おびえながらも、黒船を一目見ようと村人たちは、すっかり、お祭り気分になってしまいました。
「さあさあ、仕事さ、かたづけて、見にいくぞ!お前たちも、早よう、手伝えよー」
上大岡の真光寺の高台が、見晴らしも良く絶好の見物場所になったのでした。
一人、二人、また一人と、うわさをききつけた近隣の村人たちで、あれよ、あれよという間に、人だかりができました。
そのうち、おだんごや、お茶を売る者までが現れて、いっそうにぎやかになりました。黒船がいた八日間、この高台は、黒船見物の人々でにぎわったそうです。
(港南歴史協議会のサイトより)
このように、江戸時代末期・嘉永6(1853)年に初めて浦賀に来航し、翌年の嘉永7(1854)年に再度来航した黒船艦隊を、物珍しさからたくさんの人々が黒船見物に押しかけ、茶店まで出ていたようです。
冒頭の物語は、ここ港南区(当時は武蔵国久良岐郡)でも黒船見物で賑わった様子が描かれています。
・・・・しかし、本当に上大岡真光寺の丘から東京湾を眺めることが出来たのでしょうか。
昨日開催された港南歴史協議会定例会の場でその話題となり、現在はマンションや立ち木などで検証しづらいということがありました。
そこで、障害となるマンションがない状態だとどのように見えるのかをシミュレーションしてみます。
明治初期に作成された迅速測図(上の地図)で見ると、汐見台(磯子区)の丘さえクリアーできれば、真光寺の丘からも根岸~小柴~浦賀沖を見渡すことができそうです。
大岡あたりからスタートし真光寺の丘を越え久良岐公園方面へ抜けるルート(下図の赤い線)を辿るとどのように東京湾が見えるのかをカシミールを使って検証してみます。
![]()
上記ルートの中でベストポイントは、ムービー開始30秒の場所、地図上の「A」の場所です(後述)。
目線の高さに合わせ、対地高度2メートルでムービーを作成しました。
※注:判りやすくするために高さ方向の倍率を3倍にしています
やはり真光寺の丘からは東京湾がよく見えたはずだということが判ります。
浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 黒船来航項 (下線はkameno付記)
とありますから、東京湾をやりたい放題勝手に航行していたことも伺えます。
対し、村人たちも花火感覚で楽しんでいたというのも大したものです。
冒頭の物語の様子が目に浮かびます。
黒船来航当時、真光寺の丘からは、このように見えたことでしょう。
つい先ほど、このポイントで実際にパノラマ写真を撮ってみました。
残念ながら台風前の雨でしたので、海は見えませんでしたので後日晴天の日に再度撮影してみようと思います。
先の記事で港南区と栄区の境界の変遷について話題が出ました。
早速検証のため地形図から境界線を抽出してみました。
橙=大正10年測図
緑=昭和41年改測
青=昭和51年二改
なお、大正10年の地図には武相国境線も描かれておりますので、そのまま橙の線で描きました。
境界線のパスを平成13年修正地形図の上に落としてみます。
<この記事は追記します>
コーヒーブレイク的なクイズです。
ちょっとしたクイズです。
このシミュレーション画像は、何処からの光景でしょうか。
また、年月日は・・・・?
富士山に沈むダイヤモンド富士、そして、そのすぐ左上に細い細い月。
手前には海が広がります。
これから見られる(はずの)光景です。
昨日の記事の続きです。
一劫が何年かを計算してみましょう。
【計算上の定義】
芥子劫を1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間とします。
【計算上の仮定】
1由旬の城を一辺が7km=7,000,000mmの立方体とします
また、芥子粒を直径0.5mmの球とします
![]()
(芥子の実。Wikipedia「ケシ」項より引用)
さて、一番単純な計算方法は、一つ一つの芥子粒がそれぞれ0.5mmの立方格子に入った状態で、この格子を角砂糖をジャングルジムのように積んでいくことを考えます。
すると、一辺には 14,000,000 個の芥子粒が並びますので、これを3乗して
2,744,000,000,000,000,000,000 個の芥子の実が詰ります。
読み方は 27垓(がい)4400京(けい)個。
100年に1つづつこれを取り去るわけですから、全部取り去るまでには
274,400,000,000,000,000,000,000 年の歳月を要します。
読み方は 2,744垓(がい)年。
ここまで計算したうえで、実際には芥子の実はさらに「きっちりと」詰まっていることが予測されます。
イメージとしては、八百屋の店先に積まれている蜜柑のような積み方です。
このことを考えたのがヨハネス・ケプラーです。
ケプラーは1611年、「物質を構成する粒子は体積を最小とするように自己を組織化するだろう」という構成原理に基づき、「六方最密充填」と「面心立方格子」が最高密度の配置であると予想しました。

これが面心立方格子。こんな具合に詰まれている場合に最も充填率が高くなると予想しました。
このケプラーの予想は、実に約400年後の1998年、トマス・ヘールズによりコンピュータを使って虱潰しに精査するという手法により、ほぼ証明に至りました。
ということで、冒頭の単純に立体格子状に縦横に積んでい方法ですと、その充填率は球の体積の公式より π/6 (= 52.3598・・・%)
六方最密充填、面心立方格子による充填率は、√2π/6 (= 74.08・・・%)
となりますので、芥子粒の数は √2π/6 ÷ π/6 = √2 倍増えます。
つまり、時間もそれに比例して増えますので、
一劫は274,400,000,000,000,000,000,000 × √2 = 388,000,000,000,000,000,000,000 年くらいだろうという計算結果となりました。
※ここまで適当に計算していますので、間違いあればご指摘ください
それにしても、このケプラー予想問題は、問題自体は単純でありますが、球を積むときにはどのように積むことが一番充填率が高いのか、未だ完全に証明されていないということが面白いですね。
もしかすると、面心立方格子よりももっと充填率の高いつめ方があるかもしれないのです。
これは人類の永遠の課題なのかも知れません。
駐車場の一角にちょっとした土の山ができています。
山というと大げさでしょうか。高さ数センチ、幅1メートルくらいのものです。
この下はアスファルトなのですが、すっかり埋まってしまっています。
暫く観察していると、次々とアリたちが土の粒を運んでいます。
このようなことを何十日も繰り返し続けて山を築きあげたのでしょう。
彼等には、「おっくう」という概念は無いのでしょうね。
ただ、只管に土粒を運んでいます。
先月は、夏休み土曜塾で、地獄の一番深いところにある「阿鼻地獄」での刑期が「1中劫」であるとされていることを学びました。
この「劫」という時間の単位は、仏教的数学観におけるきわめて長い時間の単位です。
具体的には1辺1由旬(だいたい7km程度だと考えられる)の大岩があり、そこに100年に一度、天女が降りてきて衣の袖でその表面をなでる。そんなことを繰り返してついにその岩がすりきれ無くなるまでの時間を一劫といいます。
これは、『雑阿含経』に記述される「磐石劫」の概念とされています。
劫には、もう一つの概念があります。
「芥子劫」と呼ばれるものです。
それは・・・1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間・・・・・とされています。
ちょうどアリたちが運んでいる土粒が、芥子粒くらいの大きさですので、そんなことが頭に浮んできました。
アリが一回に運ぶ量はごく僅かです。
しかし、それを只管繰り返すことにより、眼に見える成果となり、時には 蟻の巣は雨の日どうなるの? の記事でご紹介したオーストラリアのアリたちのように巨大な建造物を造りあげることもあります。
「おっくう」という言葉は、漢字で書くと「億劫」となりますね。
1辺1由旬の城に芥子粒を満たし、100年ごとにそれを1粒づつ取り出して、芥子粒が空になるまでの時間のさらに一億倍という、とてつもない時間の概念です。
もしも、最終目的の巨大構造物と、一回の土粒の運搬量を比較して考えてしまうと、それこそ「おっくう」になってしまい、はじめの一歩を歩みだすことすらできなくなるかも知れません。
けれども、アリたちはそんなことは全く考えず、ただただ土粒を運びます。
そして気がつくと、大きな蟻塚が出来上がっている。
ただそれだけのことなのですね。
何事も「おっくう」がらずに、まずは一歩足を進めてみなさい、そんなことを教えてくれているようです。
そこから何かがきっと生まれてきます。
地図を過去に遡っていくと、街がどのように形成されていったかが明確に判ります。
例えば横浜中華街がなぜ周囲の街区と異なった方向を向いているのかということも見えてきます。
よく言われることは、中華街は当時の中国人が風水思想に基づいて、わざわざ東西南北の街区として区画を整備したというものですが、街の形成を時系列に辿ると、これが間違いだということが判ります。
その謎解きをされたのが横浜開港資料館・伊藤泉美さんです。
伊藤さんは、中華街が他と違った街区を形成している理由として次の3つをを提示しました。
■理由1:土地の高低差
現在の中華街エリアは「横浜新田」と呼ばれた一帯でした。
横浜新田とその周囲の土地との高低差が一つ目の理由。
■理由2:立ち退きを迫られた村民の思い
横浜新田が「外国人居留地」に指定されたため、この地区に住んでいた村人たちは土地を幕府から立退きを余儀なくされました。立退一時金給付査定のために従来の田畑の区画形状が残された。
■理由3:偶然東西南北に区画割された土地を華人が好んだ
関内地区は海岸線にあわせた街路のため、東西南北に沿っていない。
しかし、現在の中華街エリアだけは上記理由で東西南北の街区ができている。
風水を重んじる中国人は、あえてこの場所を居留地として選んだことが考えられる。
横浜開港150年企画(横浜中華街公式サイトへ)
横浜開港資料館
横浜中華街 おいしさネットワーク
これを踏まえてさらに、様々な古地図を検証していくと、横浜新田が川と堀に囲まれていた地形であり、堀と川と新田の田んぼ道がそのまま、現在の中華街の街区となっていることがより明確に判ります。
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横濱村外六ケ村之図 安政6(1859)
図中の赤字はkameno記載
この横濱村外六ケ村之図と、1/20,000地形図 横浜(明治39年測図41年製版)を重ねて作成してみました。
(こちらの図は上が北となります)
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中華街のみならず、江戸時代の地形が、現在の街区に大きな影響を残していることがわかります。
開港以前にあった「象ケ鼻」は、その場所が埋立てられ第一代横浜駅(現在の桜木町駅周辺)となりました。
港南図書館を会場とした歴史講座が開催されました。
(前回は私が勤めさせていただきました)
今回第2回目開催も横浜開港150周年記念として「横浜港の七不思議」をテーマに、田中祥夫さんによる講演が行なわれました。
主催は港南歴史協議会です。
今回も応募に対して抽選となるほどの反響があり、会場は満員となりました。
講演内容は、自身の著書『横浜港の七不思議』をもとに横浜港にまつわる謎解きをしていく講演でした。
その謎とは・・・・・
(1)「象の鼻」の不思議
大桟橋の根元にある「象の鼻」。
この波除堤は、安政6(1859)年に造られた2つの突堤(東波止場・西波止場)を、慶応の大火災後に延長し、従来まっすぐだった突堤を、象の鼻のような形に変えたものです。
しかし、何故そのような形で曲げられたのでしょうか。
(2)横浜築港の不思議
横浜港は日本の重要な貿易港でありながら、開港から約35年間も外国船が横付けできず、沖合いに停泊し艀から荷物や人を積み下ろす状態が続いた。
なぜ築港がこれほどまでに遅れたのでしょうか。
(3)大桟穂の不思議
開港から25年経過し、ようやく明治27年に鉄桟橋(現在の大桟橋の前身)が出来上がる。
この工事費がどこから来たかというと、長州藩か攘夷に走った下関事件で日本が列強国に払わされた賠償金を、アメリカ政府が返還したものが大桟橋建設の原資となったのです。
一度支払われた国家賠償金が、なぜ何年も後に、しかも賠償額そのままきっちり返還されたのか。
(4)「メノリケン波止場」の不思議
「象の鼻」は、かつてイギリス波止場の通称があった。
その先端に築造された鉄桟橋(大桟橋の前身)が、なぜメリケン波止場と呼ばれるに至ったのか。
(5)石造ドックの不思議
旧横浜船渠会社(通称横浜ドック)のドック築造には、外国人技師ではなく、佐世保軍港の日本人技師・恒川氏がその設計に携わった。
なぜ、日本人を、そして恒川氏が選ばれたのか。
(6)新港埠頭の不思議
大正3年に出来た新港埠頭により、横浜港の機能は格段に向上した。
この築造工事は大蔵省により行なわれた。
通常、港の土木事業は内務省土木局が行なっていたが、なぜ内務省でなく大蔵省で行なわれたのか。
(7)「横浜市歌」の不思議
横浜市民に親しまれている「横浜市歌」は、開港50周年の年に森鴎外により作詞された。
森鴎外は、市歌としては浜松市と横浜市のみ作詞している。
なぜ、森鴎外が横浜市歌を作詞することになったのか。
横浜港にはたくさんの謎が隠されています。
田中氏は、 梅原猛氏の『隠された十字架―法隆寺論』 (新潮文庫)にある「法隆寺の七不思議」になぞらえて、「横浜港の七不思議」として、謎をとりあげ、その謎解きを展開していきました。
謎解きの種明かしはここでは行ないません。
興味ある方は是非氏の著書をご購読ください。
また、今回の講演の内容は、神奈川県内全域のケーブルテレビで放送されます。
9月1日(火)夕方6時からの「「デイリーニュース」にて1分ほどの紹介、さらに、10月26日~11月1日までの「TVフォーラム」(ケーブル局により放送時間は異なります)にて、講演内容を1時間に編集して放映される予定です。

『横浜港の七不思議』
田中祥夫:著
新書判/248頁
1,050円(税込)
ISBN:9784896602005
◆著者略歴◆
田中祥夫 (たなか よしお)
1931年東京生まれ。早稲田大学第一理工学部建築学科卒。 横浜市役所に勤務し、街づくりや住宅計画に携わる。 1991年「明治前期における建築法制に関する研究」で日本都市計画学会賞(論文)受賞。
東海大学大学院、関東学院大学で非常勤講師をつとめ、 現在、国土交通省中央建設工事紛争審査会委員。 工学博士。 著書に、『ヨコハマ公園物語』(中公新書)、『神奈川県建築史図説』(共著/神奈川県建築士会)など。
皆さまは、四十九日の法事・法要に参列するときには「御仏前」、「御霊前」どちらの熨斗袋をお持ちしますか?
ここで、興味深いことが判りました。
市販されている「冠婚葬祭マナー集」や、ネットで公開されている「マナー集」では、「御仏前」、「御霊前」 両説入り混じっています。
■「御仏前」説の例
通夜から三十五日の法要までなら、不祝儀袋に「御霊前」と表書きするか、そう書かれた不祝儀袋を使います。
(冠婚葬祭ホットライン より引用)
■「御霊前」説の例
49日の忌明け後の法要までは「御霊前」、それ以後は「御仏前」もしくは「御佛前」を用いる。
(生活知恵袋 より引用)
四十九日法要での熨斗袋の表書きは「御霊前」「御仏前」両説入り乱れていますね。
どの冠婚葬祭マナー集を見ても、大抵はこのような2通りの回答のどちらかが書かれています。
だいたい割合としては、やや「御仏前」優勢といった感じでしょうか。
それでも「御霊前」とするマナー集もかなりの割合を占めています。
ここで、死を迎えてから行われる法要について整理して考えてみます。
世間一般常識とされているものは、七七日(四十九日)に御霊前と御仏前の境界線が引かれています。
四十九日法要での熨斗袋の表書きが「御霊前」「御仏前」なのかは、どの時点で「仏」になるかということの考え方によるものです。
■死を迎える
■枕経
■通夜
■葬儀
・引導■初七日
■ニ七日
■三七日
■四七日
■五七日
■六七日
■七七日(四十九日)
・位牌開眼
■納骨(納骨時期は施主により異なる)
■初盆
■百か日
■一周忌
以前のブログ記事 年回法要にまつわるお話 も併せてご参照ください。
宗派による違いも見られます。
例えば、浄土真宗などでは、死を迎えると直ちに成仏するという考えですから、■死を迎える の時点から「御仏前」がマナーですね。
では、曹洞宗はというとどのように考えたらよいでしょうか。
私見を書かせていただくと、
(1)葬儀の「引導」により成仏がなされ
(2)四十九日法要で、(既に仏となっていることを前提として)正式な位牌開眼を行う
ということですから、引導を渡した瞬間、あるいはその後直ぐに仏となり、四十九日には既に仏となっていると考えてよいのではないでしょうか。
世間一般常識よりは前の時点ということになります。
すると考えると、枕経、通夜、葬儀開式前にお持ちするのなら「御霊前」、引導が渡された瞬間からは「御仏前」でも良いということになるでしょう。
実際には、初七日から参列される方は殆ど居ないと思われますし、次に参列される機会といえば、四十九日法要であるでしょうから、「御仏前」として良いという考えです。
なお、この「御霊前」「御仏前」という考えは、宗派のみならず、地方により大分考えが異なることもわかりました。
時間があれば、その差異について纏めてみたいと思います。
「御霊前」「御仏前」の違いは、場合によっては失礼にあたる可能性がありますから、
もし、「御霊前」「御仏前」どちらをお持ちするのが不明である場合は、「御香典」としてお持ちするという方法もあります。
これなら、どちらとしても通用します。
港南区には、かつて炭鉱がありました。
まずは現在の上大岡周辺を当時の地図で確認してみましょう。
明治時代の地図には炭鉱標記が見られませんので、明治末期から大正期に出来た炭鉱であることがわかります。
(上大岡駅周辺はまだまだ田んぼと畑が広がっていたのです)
また、米軍の地図にも記載されていることから戦後暫く採掘されていたようです。

(地形図・戸塚・大正10(1921)年測量,大正14年発行)

(米軍Army Map Service: Japan City Plans TypeF 1946 / Lignite mineの標記があります)
炭鉱といっても良質の石炭が生産されたわけではなく、亜炭と呼ばれる木質系の燃料です。
亜炭(あたん、英: lignite)とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。地質学上の用語としては褐炭が正しいが、日本においては行政上の必要からこの語が用いられる。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市・名古屋市、または長野市など大規模~中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
港南区内には最戸、日野、野庭町など炭鉱がありました。
神奈川新聞(平成8年6月4日版)にはそれぞれの炭鉱について次のような体験談が掲載されています。
最戸の炭鉱⇒「千手院のがけで大正のころ掘っていた。炭鉱員が仕事を終え帰った後、ひそかに坑内のトロッコで遊んだ」「戦中もよそから来た親子二人が別のがけ(県戦没者慰霊堂前)で数年間掘った」「低温で石炭のように炎が出ない。燃えかすが多くて、臭かったな」
野庭の炭鉱⇒「明治のころ、上野庭(現野庭町の南側)で掘った。日野の吉原(現日野二丁目)でも大正期のころ掘った。知る人は地元でももうわずかだ」「祖父から、穴は奥で2つか3つに分かれていると聞いた。コウモリがいた。私は怖くて奥まで入れなかった」
港南区の亜炭炭鉱についての特徴をまとめると次のとおりです。
(1)港南区最戸、日野、野庭町、戸塚区下倉田町に広がっている
(2)亜炭の採掘は大正7、8年ごろ及び戦時中が最盛期
(3)つるはしを使っての手掘り。
(4)亜炭層は30-35センチの厚さ。空気穴(立て坑)を二本掘り、横穴を約1000メートル掘った。
(5)亜炭層は緩傾斜にあり坑道は横穴だった
(6)亜炭を運び出すため農道拡張、トンネル掘りも行われた
(7)明治末から大正期に採掘されたが、一部は戦時中に燃料不足のため再び掘られた。
このうち、戦時中の横浜鉱山(最戸町)についてさらに詳細を紐解いてみます。
大正期にも採掘が行われていたが、さらに拡大生産するため昭和15年試掘開始、昭和17年より操業
鉱山主は東燃料工業株式会社
神奈川県では最初の大規模な亜炭鉱山
坑道の入口は大久保新地。
左坑道100間、右坑道 30間の2つの水平坑道があった
鉱夫10名が日産10トンの亜炭を産出
当時使われていたトロッコは木枠の箱で車輪は鉄だったようです。
写真は昭和17年に撮影された横浜鉱山坑道の入口(最戸町大久保新地)です。
昭和17年当時の新聞には「横濱の眞中に鉱山~亜炭が続々・注文殺到」との見出しが付けられています。
(昭和17年に東燃料工業が)掘出すと同時に石炭の殆ど手に入らぬ現在、各方面から注文が殺到する。
県では亜炭が産出するといふのは初めてのため、マル公(注1)はもとより9・18停止価格令(注2)にも載っていないため、亜炭の二大産地に問合わせ慌てていまマル公算出中だといふ。
ここから産出する亜炭は木質で4200カロリー、平均で3700カロリーで、石炭の6000カロリー以上と比べて遥かに及ばぬが、常磐炭の四級品程度、普通工場のボイラー程度なら十分使用できるし、山形、岐阜等から高い輸送費をかけて移入するのと違ってリヤカーで20分もすれば市の中心地に運べるのだから採算は十分とれるとあり、鉱夫10名とは一寸飯事のような鉱山ながらなかなか活気づいているのは正に燃料国策時代、現場監督談。(注1 マル公:日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格)
(注2 価格等統制令=昭和14年勅令第703号)
(昭和17年6月の新聞記事より引用、脚注kameno付記)
日本には資源はまだまだ豊富にあるのだという大本営発表的な意図も含まれている可能性はありますが、資源入手が困難な時期にあっての亜炭産出はよほど貴重なことであったことがうかがい知れます。
亜炭の生産を見ていくと、その背景には戦争の影、戦局が常につきまといます。
これだけ亜炭が産出された背景には、工業化の進展による燃料の確保、そして戦中に有っては燃料の輸送事情が悪化したことによるものです。
日本が大東亜戦争に突入せざるをえなくなった主因は、米軍などにより石油など工業生産に不可欠な石油輸送を封鎖されてしまったことにあると言えましょう。
例えば、1920年代から1930年代において立案された米国海軍による オレンジ計画(War Plan Orange) では、米国が制海権を握り、日本の海路を抑える作戦が取られています。
大東亜戦争開戦に至るまでににおいては、日本の石油供給を止めるために米国は
1939(昭和14)年 米国航空用ガソリン製造設備、製造権の対日輸出禁止など徹底的な資源封鎖を講じました。
1940(昭和15)年 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1941(昭和16)年 日本の対米資産を凍結、石油が禁輸となる
さて、もう1つの石油に代わる資源の入手手段として有力視されたのが人造石油です。
昭和12年「人造石油製造事業法」「帝国燃料興業法公布」が制定され、石炭から人造石油を製造する方法が研究され、一部実用化されました。
しかし、その生産量は僅か70万キロリットル程度に留まり、充分な燃料を供給するには程遠い状況でした。
大戦における戦術として、連合軍は徹底的に南方から輸送される日本軍のタンカーを攻撃していきましたので、この石油資源の枯渇が戦争の敗因の大きな要因となったといっても過言ではないでしょう。
戦時中は稀少な石炭石油資源は主に戦争のために使われることとなったため、資源が不足し、工業生産の補助資源として、家庭用として亜炭が着目されたのです。
戦局がさらに悪化すると、亜炭のみならず松根油の生産まで行うようになりました。
港南区にあった亜炭炭鉱という局所的な史実から、大東亜戦争・太平洋戦争のマクロ的局面の一端も伺い知ることができました。
すなわち、エネルギー供給の動向が戦争を行う主要な契機となりうり、また戦局を決定付ける大きな要因となったということは、現代社会においても、いや現代社会だからこそ深刻に受け止めなければならない教訓であるといえます。
現状、日本はどれほどのエネルギーを自給しているのでしょうか。
日本の経済を支えているエネルギーは、どのように賄われているのでしょうか。
他の国々、特に隣接国は?
エネルギー政策は一国の運命、ひいては地球全体の運命も左右するということを心しておく必要がありそうです。
平和な世の中を支えている土台は意外に脆いものなのかも知れません。
先の記事の続きです。
施食会(施餓鬼会)における餓鬼について考えて見ます。
曹洞宗で施餓鬼会が施食会と改められた理由には様々あろうかと思いますが、例えば
・亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんは餓鬼と成ってしまっているの?などという檀家さんからの疑問
・私たちも死後に餓鬼になるかもしれない?
・餓鬼に施すという「上から目線」は如何なものか
・そもそも餓鬼道とか畜生道とか地獄とかいう六道輪廻思想なんてナンセンス
・餓鬼という発想自体が人権問題にかかわるのでは?
このような感じでしょうか。
その根底には「餓鬼」ということばを避けて通りましょうという考えが見受けられる気がします。
そもそも、餓鬼って何でしょうか。
餓鬼[preta]
サンスクリット原語は元来(死せる者)(逝きし者)を意味し、ヒンドゥー教では死後一年経って祖霊の仲間入りする儀礼が行われるまでの死者霊をさす。その間、毎月供物を捧げて儀礼が行われるが、もしこうした儀礼が為されない場合は、pretaは祖霊になれず、一種の亡霊となる。
仏教でも死者霊としての用法はあって、閻魔の住所たる地獄へ行ったり人に憑いたり、生者からの供養をうけて望ましい世界に生まれ変わることを願ったりする。
また中国から日本では、新仏の供養と同時に有縁無縁の三界万霊への供養が合して、施餓鬼会の伝統が発展し、今日に至っている。<後略>
岩波『仏教辞典』中村元他編、岩波書店より引用
現在の施餓鬼法要は、様々な経典、思想が混在して形成されています。
・中国南北朝時代に行われていた水陸会
・仏説盂蘭盆経
・仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経
・地水火風空の五輪思想
・御霊信仰
↓
・日本古来の魂祭り(たままつり)
などなど。
民間祖霊信仰に仏教的思想が有機的に交錯し、施餓鬼会の要素を形成している訳でありますので、そのどれか1つが欠けたとしても施餓鬼とはなりえないといえます。
例えば施食会(施餓鬼会)法要の差定から大悲・甘露門を省略してしまったら、只の先祖供養、新亡供養となってしまいます。
さて、ここで前回のブログ記事より、施食会(施餓鬼会)法要の後半の部分を改めて見てみます。
| 餓鬼 に向けられた法要 (甘露門) |
| ↓ [普回向) 願以此功徳 普及於一切 (願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし) |
| ↓ 我等與衆生 皆共成仏道 (我らと衆生と みな共に仏道を成ぜんことを) |
| ↓ |
当山亡僧法界亡僧伽等 |
さて、この[普回向]の中の
「この功徳をもって」というのは、餓鬼供養も含めた施しのこころによる功徳を以って
「我らと衆生と みな共に」というのは、生きている私たちも、亡くなられたご先祖さんも含めて、みな遍く平等に
ということになるでしょう。
だからこそ、甘露門と修証義の間に普回向が読まれ、餓鬼供養から付施食への流れとなるのだといえます。
「我らと衆生と みな共に」は、さらに言えば
ということでもあります。存者福楽寿無窮(存者は福楽にして寿きわまりなく)
亡者離苦生安養(亡者は苦を離れて安養に生ず)
餓鬼というとなにか差別的な思想が含有されているように思えますが、決してそうではなく
・死せるもの全般をさす
・供養を受けていない御霊
・飢饉、戦乱、災害、大火などにより亡くなられた多くの方々
・私たちの中に貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)から生じる煩悩の心
といった複合的な概念のものなのですから、餓鬼への回向は、むしろ私たち自身にも向けられているものであるということを認識することも大切でしょう。
単なる施しを行う法要ではなく、自らを省みる機会としたいものです。
餓鬼というと「餓鬼草子」に描かれた餓鬼がイメージとして定着しています。
東京国立博物館蔵 餓鬼草紙(平安時代・12世紀)より部分
この姿はあくまでも象徴的なものであって、物質的に豊かになったように見える現代社会においても、内面を映し出す鏡を通して私たちを見るとこのように見えるのかもしれませんね。
施食会(施餓鬼会)法要で最後に読まれる修証義第2章は次のように完結します。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔 是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり 心念身儀発露白仏すべし 発露の力罪根をして 銷殞せしむるなり
(我れ昔より造れるところのもろもろの悪業は、皆いつとも知れず我が身にまつわりついている貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚(おろか)さの妄想が原因である。他から来たのではなく、すべて我が身、我が口、我が意(こころ)から生じた罪過である。わたくしは今、仏の前に一切を懺悔する。このように懺悔すると、必ず仏祖は目にみえぬお力をかしてくださるのである。だから、仏祖の慈悲を心に念じ、端坐合掌、懺悔の文を口に唱えて、一切を告白するがよい。自分をさらけ出し、投げ出すまごころの力は、必ずや罪過をつくり出す根ともいうべき貪瞋癡の妄想を消滅せしめ、清浄なる心境に至らしめてくれるのである。懺悔こそ新生の第一歩である)
このように見ていくと、施食会(施餓鬼会)法要で、いかに餓鬼供養の部分が重要な役割を担っているかが良くわかると思います。
時期を問わず行われる施食会(施餓鬼会)はもとより、盂蘭盆施会食会(施餓鬼会)については (随時行われる)施餓鬼+(お盆の時期に行われる)付施食 のどちらが欠けても施食会(施餓鬼会)法要とはなりえないのです。
餓鬼とは何かを考えてみると、施餓鬼会を容易に施食会に改めてしまったこと、餓鬼の説明を避けてしまっていることについて問題点が見えてくるかもしれません。
煩悩の心に毒された私たちを省み、生きているものも、どんなに苦しい状況にある御霊(みたま)も、全てに広く平等に苦を離れて安楽を得る事ができますよう願う・・・・これほど平らかで思いやりの志を持った法要が他にあるでしょうか。
施食会(餓鬼会)法要の持つ意味を改めてかみしめてみたいものです。
教区寺院の施食会行事も半数の寺院が終わり、今日あたりが丁度折り返し点となります。
丁度良い機会ですので、施食会について振り返ってみましょう。
施食会(せじきえ)は、従来は施餓鬼会(せがきえ)と称されておりましたが、曹洞宗では行持軌範の改定により施食会と称するようになりました。
ただし、従来とおり「施餓鬼会(せがきえ)」あるいは「お施餓鬼(おせがき)」と称している寺院も多くあります。
貞昌院においても施餓鬼会法要としています。
ここで、各宗派の公式ホームページより、行持の呼称と説明を見てみましょう。
| 宗派 | 呼称 | 説明 (公式Webサイトより引用) |
| 曹洞宗 | 施食会(せじきえ) | お盆の施食会の法要は、曹洞宗にとって大切なもので、祖先、父母、親類、縁者の精霊、または無縁の精霊に供養するために、各お寺で勤められるのです。 |
| 天台宗 | 施餓鬼会(せがきえ) | 施餓鬼、お釈迦さまの弟子の阿難尊者が、餓鬼に「おまえの命はあと3日である。死んだ後は餓鬼の世界に生まれ変わる」と告げられたことをお釈迦さまに相談し、「餓鬼に飲食を施しなさい。そうすれば汝も延命がかない、餓鬼も苦しみをまぬがれて天上に生まれることができる」と教えを受けたのに始まります。 法要は施餓鬼壇を設け、五如来の幡をかけて、三界万霊、すべての精霊をまつって修されます。餓鬼に食べ物などの施しをして、先祖供養をするとともに、自らも餓鬼の心を起こさないように自戒する機会です |
| 真言宗(智山派) |
施餓鬼会(せがきえ) | お施餓鬼の由来は、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)』に説かれる物語です。この物語の主人公は、お釈迦さまの身の回りの世話をし、お釈迦さまのそばで一番多くの教えを聞いたので「多聞(たもん)第一」といわれる、「十大弟子」の一人、阿難(あなん)尊者です。 ある日、阿難尊者が一人修行していると焔口(えんく)という餓鬼が現れ、「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼道に堕ち、私と同じような醜く恐ろしい姿の餓鬼になるだろう」と告げました。びっくりした阿難は餓鬼に、「どうしたらその苦をのがれることができますか」と尋ねます。すると餓鬼は答えました。「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に、多くの飯食(おんじき)を布施しろ。そうすれば、その功徳によってお前の寿命は延び、私も餓鬼の苦を離れ、天上に生まれることができるだろう」。しかし、そんなに多くの飯食を一晩で用意することはできません。困った阿難はお釈迦さまに助けを求めました。するとお釈迦さまは、施餓鬼の陀羅尼(だらに)を示し、「心配しなくてよい。この陀羅尼を唱えながら食物を布施すれば、無数の餓鬼、そしてバラモンに心のこもった施しをすることになるだろう」と教えました。そして阿難は、この教えのとおり餓鬼に布施をして、無事に死をのがれ、餓鬼は苦しみから救われたのでした。 ここに出てくる餓鬼とは、地獄・餓鬼・畜生という「三悪趣(さんあくしゅ)」の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいいます。 餓鬼は、水を飲もうとしても水が血の膿となって飲むことができず、喉が針のように細いので食べ物を飲み込めない、そして口から火を吐いているので食べ物が燃えて口に入れることすらできないのです。 限りない物欲(ぶつよく)を象徴しているのが餓鬼です。そして阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。物欲に支配されていると、自分本位に走り、人を差別したり、傷つけたりします。そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示したのです。 このように、私たちが生きていく上で避けて通れない「食欲」をたとえにして、「もの惜しみをせず」人間らしく生きていく道を教えてくれるのが、お施餓鬼の法要なのです。 |
| 臨済宗・黄檗宗(臨黄ネット) | 山門施餓鬼会(さんもんせがきえ) | 盂蘭盆会(うらぼんえ)の当日に行なわれる施餓鬼をいうため、盂蘭盆会、大施餓鬼会ともいいますが、ここで、盂蘭盆会と施餓鬼会は本来、別法要であることを知っておかねばなりません。 |
| 日蓮宗(本門寺) | 盂蘭盆施餓鬼会(うらぼんせがきえ) | 参列する檀信徒と共に読誦唱題をささげて、各家先祖代々の霊、新盆の霊、戦争災害、交通事故等殉難の霊、法界万霊に供養の心を捧げます。 お盆はお釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が餓鬼界で苦しむ亡き母親をお釈迦様の教えに従って雨安居(雨季の間、一定の場所に留まって僧侶が修行すること)が終わる7月15日に大勢の僧侶に施しをして、亡き母を供養してもらい、餓鬼界から救われたことに由来しています。 花や線香を手にした参詣者は、墓前において手を合わせ、感謝の誠を捧げます。 |
| 浄土宗 | 施餓鬼会(せがきえ) | 「おせがき」は、「施餓鬼会(せがきえ)」「施食会(せじきえ)」などといわれ、各宗派を通じて行われる仏教行事の一つです。 その由来は、『救抜焔口餓鬼陀羅尼経(くばつえんくがきだらにきょう)』というお経によるといわれています。 それによると、釈尊の十大弟子の一人である、阿難尊者(あなんそんじゃ)が、ひとりで瞑想している時、口から火を吐く一人の恐ろしい餓鬼があらわれ、「お前は3日後に死んで、我々と同じ恐ろしい餓鬼道に落ちる。」と言いました。恐れおののいた阿難尊者が、どうしたらそれを免れることができるかを尋ねたところ、その餓鬼は、「その苦から免れたければ、三宝(仏・法・僧)に供養しなさい。また無数の餓鬼たちに食物を(ほど)こして供養した功徳(くどく)により、餓鬼も救われ、その功徳によってお前も救われるだろう。」と答え、姿を消しました。 阿難尊者は、釈尊に教えを請い、寿命を延ばすことのできた阿難(あなん)の説話にもとづく行事である。 その求めに応じて釈尊が示された修法が施餓鬼会のはじまりとされています。そして餓鬼だけでなく、先祖代々や広く無縁の諸精霊(しょしょうれい)を供養し、また同時にみなさん自身の福徳延寿(ふくとくえんじゅ)を願うわけです。 ぜひこの施餓鬼会の機会に、心からお念仏を称(とな)え、自他ともに救われる功徳(くどく)を積んでいただきたいものです。 本来、施餓鬼会の期日は定められていませんが、お寺の年中行事のひとつとして、お盆の頃におこなわれることが多く、施餓鬼棚に「三界万霊牌」や初盆の戒名を記した位牌を置き、浄水や食物を供え、五如来の「施餓鬼幡」を立てて法要を営むのが習わしです。 施餓鬼会は、新亡の霊や先祖代々の諸霊を供養するとともに、無縁仏や餓鬼に施しをする法要でありますが、さらに日頃の自分自身に巣くう「餓鬼」の心を反省し、自他ともに生かされている身をしっかり受け止め、救われる功徳をお互いに積んでいくことが大切なことであります。 今日ではお盆の前後に行われることが多く、先祖追福のために、また一切の生物の霊を慰め、あわせて自分自身の福徳延寿(ふくとくえんじゅ)を願う法要である。 |
| 浄土真宗 | --- |
施食会としているのは曹洞宗だけですね。
(それはそれで良いのですが、それならば少し説明が簡素すぎる感がありますし、「餓鬼」についても触れたほうがいいとも思います)
施餓鬼会(施食会)法要の差定(式次第)は、各宗派、地域により大きく異なります。
曹洞宗神奈川県第五教区でのスタンダードな差定を改めて検証してみましょう。
※差定は行持軌範「盂蘭盆大施食会」項、一般の恒規大施食会・・・の差定に則ります。
| 殿鐘三会・七下鐘導師上殿 | 回向の対象 |
| 上香普同三拝(置茶湯) 読経(般若心経) 本尊上供回向 普同三拝 |
part1 釈迦牟尼仏 現座道場本尊 高祖承陽大師(道元禅師) 太祖常済大師(瑩山禅師) |
| 転班・南面 | |
鼓ハツ三通 読経(大悲心陀羅尼) 普回向 |
part2 餓鬼 |
| 読経(修証義) <参列者焼香> 施食会回向 鼓ハツ三通 |
part3 当山亡僧法界亡僧伽等 当寺開基 万国殉難者諸精霊 ・・・・・ 檀信徒各家先亡諸精霊 ・・・六親眷属七世の父母 有縁無縁法界の含識等・ |
| 導師退堂・散堂 |
このように、法要は大きく前半・後半の2つに、さらに後半が2つに分かれており、前半は北面法要(前後三拝)、後半は南面法要(前後鼓ハツ三通)となっています。
さらに後半の部分が2つのパーツから構成されておりますので、全体として3つのパーツにわかれているといえます。
それぞれの回向の対象は、
part 1 (本尊上供)
大恩教主本師釈迦牟尼仏、現座道場本尊、高祖承陽大師(道元禅師)、太祖常済大師(瑩山禅師)
part 2 (施餓鬼)
餓鬼
part 3 (付施食)
当山亡僧法界亡僧伽等、当寺開基・・・万国殉難者諸精霊・・・・天災地変横死者諸精霊・・・・檀信徒各家先亡諸精霊・・・六親眷属七世の父母、有縁無縁法界の含識等・・・・
となっています。
さて、よく言われるのが、施餓鬼(施食)会法要は、『仏説盂蘭盆経』と『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経との混用(盂蘭盆会と施餓鬼会を混同)ということです。
しかしながら、整理してみると、本尊上供 + (随時行われる)施餓鬼 + (お盆の時期に行われる)付施食 となっているのですから、混用というよりは併修という言い方のほうが適切でしょう。
曹洞宗では公式には「施食会」という呼称としていますが、押し並べて「施食会」という言葉だけを強調すると、檀家さんからは「この法要に参加すると、何か食事でも戴けるのでしょうか?」などという誤解も生じるかもしれません。
単に名称を変えることだけではなく、きちんとその理由を説明していく必要がありますね。
蛇足ですが、教区寺院の中には、part3 の 当山亡僧法界亡僧伽等を精霊棚ではなく、須弥壇にお迎えし、開山歴住とともに北面の本尊上供中で回向する寺院もあります。
その場合は、後半、南面の拈香法語や施食回向においては、当山亡僧法界亡僧伽等が省略されています。本来はそのようにするべきでしょう。
実際に施餓鬼(施食会)法要において、亡僧牌は須弥壇、精霊棚どちらにお迎えすることが多いのか、法語の中でどちらで読み込むことが多いのか気になるところです。
ということなどを考えながら、今日もこれから法要随喜に出かけます。
気象庁は、今年2009年関東甲信地方の梅雨が 7月14日に明けたとみられる と発表しました。
これは平年より6日早く、昨年と比べて5日早いとのことです。
しかし、梅雨明け発表から今日まで雨の日が多かったように感じます。
そもそも、梅雨はその前後の時期と比べて雨が多くなるために日照が少なくなる季節現象です。
したがって、日照時間を毎日記録して精査すれば梅雨明けの時期が概ね判ります。
貞昌院の太陽光発電設備の生み出す電力量は、日照時間と相関関係にありますから、発電量の累計をグラフ化すると一目となります。
さっそくグラフで見てみましょう。
![]()
グラフの中の★印が、気象庁発表の梅雨明けの日です。
(2009年は速報)
このグラフから見ると、やはり7月14日が梅雨明けというのは、横浜について言えば早すぎるということが言えそうです。
おそらく、8月後半から9月前半あたりに梅雨明け日の訂正が発表されると思いますので、その発表を待って比較してみましょう。
太陽光発電量のグラフから判断するに、7月25日前後を境にグラフの傾きが大きくなっていますので、このあたりが梅雨明けと判断してよいのではないかと思います。
今年は国際天文年ですので、星の話題を書いてみます。
太陽系には数限りない星があるわけですが、その中で断トツに数が多いのは小惑星です。
現在までに小惑星番号が与えられ、軌道が計算できる小惑星だけでも20万個を超えています。未知の小惑星も多いわけですから、毎年多くの小惑星が発見されています。
発見者に与えられた特典は、命名権です。
新しい小惑星であると正式に認められ、軌道要素が確定することにより小惑星センターで登録され、小惑星番号と共に命名が為されます。
小惑星名には発見者のような人名も多く、また発見者とは別の名前を付けることも出来るため著名人の名前も多くつけられています。
宗教者についても例にもれず
宗教者に因む小惑星名一覧
(89) ジュリア(コルシカのジューリア、5世紀の殉教者)
(1840) フス(ヤン・フス)
(5275) ズディスラワ(ズディスラワ・ベルカ (en)、13世紀チェコの聖人)
(6031) 良寛(良寛)
(6866) 空海(空海)
(7100) マルティン・ルター(マルティン・ルター)
(7256) ボンヘッファー(ディートリッヒ・ボンヘッファー、反ナチス活動を行った牧師)
(7674) 春日(春日了、僧侶、声学家、天文家、奇術師)
(8661) ラッツィンガー(ベネディクト16世の俗名)
(11064) 道元(道元)
(11254) 金光碧水(金光鑑太郎の雅号)
(15672) 佐藤範雄(佐藤範雄、金光教徒、教育者)
出典: ウィキペディア(Wikipedia) 人名に因む名を持つ小惑星の一覧 項
というように多くの名前が見られます。
東京のお寺でプラネタリウムを運営している住職さんの名前もありますね。
小惑星「道元」もあります。
そして、このウィキペディアのリストにはありませんが、小惑星「瑩山」もありました。
つまり、曹洞宗の両祖さまの小惑星が存在するのです。
| 11064 Dogen Discovered 1991 Nov. 30 by M. Mukai and M. Takeishi at the JCPM Kagoshima Station. |
| The Japanese priest Dogen Zenji (1200-1253) built Eiheiji Temple in Fukui prefecture in 1243 in order to preach Zen Buddhism, and he fostered many disciples there. In Eiheiji Temple, over 200 monks still practise asceticism. |
| 15790 Keizan Discovered 1993 Oct. 8 by M. Mukai and M. Takeishi at the JCPM Kagoshima Station. |
| The Japanese priest Keizan Zenji (1268-1325) practised asceticism at the Eiheiji Temple in Fukui prefecture and built Sojiji Temple in 1321. Afterwards he built temples in various parts of Japan to spread Zen Buddhism. |
この小惑星「道元」は1991年11月30日に、「瑩山」は1993年10月8日に、どちらも鹿児島市のアマチュア天文家である向井優さん、武石正憲さん両名の共同観測により発見されました。
まさに両祖さまが宇宙空間を旅されているわけです。
軌道要素はNASAのサイトによると下記のとおりです。
| Element | 11064 Dogen (1991 WB) |
15790 Keizan (1993 TC) |
| e 軌道離心率 | 0.3274343 |
0.3168055 |
| a 軌道長半径 AU | 2.7503045 |
2.3606208 |
| q 近日点距離 AU | 1.8497605 |
1.612763 |
| i 軌道傾斜角 deg | 35.95032 |
22.86893 |
| node 昇交点黄経 deg | 79.13933 |
23.61418 |
| peri 近日点引数 deg | 314.75934 |
293.58811 |
| M 平均近点角 deg | 330.93593 |
152.63364 |
| tp JED | 2455135.0003858 (2009-Oct-30.50038580) |
2454438.8244296 (2007-Dec-04.32442961) |
| period 周期 year | 4.56 |
3.63 |
| n 平均日々運動 deg/d | 0.21608912 |
0.27174698 |
| Q 遠日点距離 AU | 3.6508485 |
3.1084785 |
軌道を計算により追尾してみると、小惑星「道元」は今年の9月~年末にかけて地球に接近することがわかりました。
道元禅師・瑩山禅師ご両尊の忌日である両祖忌は、9月29日ですので、その時の軌道計算もしてみました。
今年最接近するのは2009年11月15日前後で、その距離は 1.008AU(天文単位)となります。
太陽と逆方向に見えますので、観測するには都合が良いでしょう。
なお、小惑星 「瑩山」は太陽の向こう側にあるため、しばらくの間は観測が困難となっています。
では、この日小惑星 「道元」がどれくらいの明るさで見えるのかというと・・・絶対等級から勘案して概ね13等級となるでしょう。
![]()
(天文シミュレータソフト Stella Theaterにて作成:AM3:00ごろ南西の地平線近辺に見えるはず)
肉眼では観測不可能ですけれど、天体望遠鏡であれば見ることが出来そうです。
このように今年の両祖忌の前後にかろうじて見ることが出来ることになりそうですが、夜空にはまだまだ私たちの気づいていない未発見の数限りない天体があるかと思うとワクワクしますね。
貞昌院客間に掲げられている勝海舟による「眠雲」の扁額について、よくその意味を尋ねられます。
折角の機会ですので、出典を辿りながら考えてみましょう。
扁額を書かれた勝海舟は、幕末から明治時代にかけて活躍した幕臣の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人です。
幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができなかった。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡であった。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した。その後、勝が単身で西郷と交渉、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなる。
江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するのである。
(出典:Wikiペディア)
江戸城無血開城の年、徳川慶喜の家臣、陸軍総裁であった勝海舟の手下であった平野玉城が朝廷方官軍に追われ、この永谷の地に逃れる時点から歴史年表としてまとめてみました。
■永谷学校と勝海舟の書の年表
慶応 4(1868)年(明治元) 徳川慶喜の家臣、陸軍総裁勝安房(海舟)の手下、平野玉城が朝廷方官軍に追われたところを、現在の横浜市港南区下永谷で醤油醸造を行っていた福本宅にて助けられる。
明治 9(1876)年、一命を助けられた平野玉城は、命の恩人福本輿四郎宅を再び訪れた。その際村人よりに当地に滞在するよう懇願された。
明治10(1877)年 村民に推されて棲心庵学舎に第三級訓導として教職に就く。平野玉城が就任するや入学者が殺到し、庵が手狭になった。
明治12(1879)年 水田の権田ケ谷戸に永谷学校が新築された。平野玉城はその落成記念にかつての師、勝海舟に「永谷学校」の書をお願いし快諾の上贈与された。現在は永野小に保存。
明治22(1889)年 町村制が執行され、永谷、上野庭、下野庭の3村が合併して永野村となる。
明治22(1889)年 永谷学校と野庭学校が併合、永野学校(本校)、野庭学校(分校)。
明治24(1891)年 小学校設備準則により永谷学校が現在の永野小学校の位置に移転。
明治24(1891)年 平野玉城、鎌倉の長谷にて死去。
明治25(1892)年 野庭学校が村役場として永谷学校の隣に役所として移転。
明治30(1897)年 平野玉城7回忌の時、子息平野直吉(第一代永野小学校長)より玉城の分骨を得、貞昌院墓地に埋葬。
明治36(1903)年 平野玉城の徳を慕う人々により、13回忌が盛大に行わた。列席した直吉は感激し、貞昌院28世住職・亀野源量和尚(第四代永野小学校校長)に勝海舟の書「眠雲」を記念として贈呈。
現在その書は貞昌院の寺宝となっている。
永野小学校、貞昌院と平野玉城の密接な関係がわかると思います。
この関連として、以前書いたブログ記事や、貞昌院のホームページ、勝海舟の書―永谷学校―(港南歴史協議会)でも勝海舟の書に関する記録を掲載していますので、是非あわせてご覧ください。
貞昌院に掲げられている勝海舟の書は「眠雲」と書かれています。
眠雲・・・山中に住むこと、雲の中や上で眠ること 『新大字典』(講談社)
眠雲とは、雲の中に眠ることということで、自然に囲まれた山深い地で、雲の中に眠り、大自然の懐に抱かれて俗世間の喧騒から離れた生活を送るという意味であります。
その出典の1つに「臥月眠雲」が挙げられます。
師紹定二年五月一日。在靈隱。受請入寺陞堂祝聖畢。就座。
僧問。呼猿洞口。無心臥月眠雲。長水江頭正好。拋綸擲釣。只如靈山密付。還許學人咨參也無。
師云。崑崙嚼生鐵。・・・<以下略>
『虚堂録』巻1「興聖寺語録」
虚堂智愚禅師(1185~1269)は南宋時代、臨済宗松源派の禅僧です。
運菴普巌の法を嗣ぎ229年に霊隠寺より興聖寺(浙江省嘉興府)に晋住。その際の最初の上堂における問答の部分が上記の句です。
霊隠寺の呼猿洞で無心に「臥月眠雲」の修行を続けてこられた禅師の教えを受けることが出来る興聖寺の僧侶たちの様子がよく表れています。
虚堂智愚禅師はその後、報恩寺、顕孝寺、瑞巌寺、延福寺、宝林寺、阿育王寺、浄慈寺などに歴住されました。
日本臨済宗各派の法系につながる南浦紹明禅師(1235-1309)の師匠でもあることから、特に茶道界ではこの虚堂智愚禅師がとても重んじられております。
例えば、江戸・大崎(現在の御殿山)に在った大崎茶苑(大崎苑)の邸内には11の茶室があり、その1つに「眠雲庵」がありました。
この大崎苑は、松江藩七代藩主・松平治郷公(号は「不昧」)の所有していた1万8千坪の大茶苑です。
「眠雲庵」の扁額は、現在東京国立博物館(東京都台東区)に所蔵されています。

(『臥月眠雲』額・写真は">山陰中央新報の記事より)
また、伊豆半島の湯ヶ島には、国指定有形文化財に登録されている「眠雲樓」 (後に「落合樓」と改名)があります。
こちらには、幕臣の三舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らが集い、高橋泥舟による「眠雲」の書が残されているそうです。
(いつか実際に見てみたいものです)
このように、「眠雲」を辿ると、さまざまな繋がりが見えてきました。
最後に「眠雲」について、もう1つ出典をご紹介いたします。
蘆花被下 臥雪眠雲 保全得一窩夜気
竹葉杯中 吟風弄月 躱離了萬丈紅塵
『菜根譚』後集38
『虚堂録』は「臥月」でしたが、こちらは「臥雪」です。
躱離了萬丈紅塵・・・萬丈の紅塵を躱離たりし了わる
雪が吹き込む質素な庵で、蘆の入った布団に横になり、雲の中で眠れば、気が満ちてきて元気が漲ってくる。
竹の葉の杯を飲みながら 風に詩を吟じ、名月を愛でれば 俗世間の塵芥は落ち清浄となる
そのような意の扁額を寺宝として大切に守っていきたいと思います。
鯉のぼりの泳ぐ空 |
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15世紀のカリブ海 |
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ポセイドンの深海 |
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早春の忘れな草 |
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雨上がりのあじさい |
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琉球の瑠璃柳 |
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大正ロマンの紅藤 |
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3月3日ひなまつり |
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母の日のカーネーション |
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インドのマンゴー |
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晩秋の柿の実 |
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初夏の枇杷 |
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夏祭りのほおずき |
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浜辺で拾った桜貝 |
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夕暮れの彼岸花 |
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八百屋さんの完熟トマト |
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ニッポニア・ニッポン |
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秋風に揺れるコスモス |
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安曇野のわさび |
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睡蓮の浮かぶ古池 |
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おばあちゃんの草餅 |
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シュッツトガルトの森 |
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春霞の香具山 |
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新月の松林 |
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陽炎にゆれるモスク |
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5月の富士山 |
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夏休みの朝顔 |
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故宮の夜 |
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紺碧の宇宙 |
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子供の頃の茜雲 |
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インカの太陽 |
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シュリンプカクテル |
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八重咲きの鳳仙花 |
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お姫様と毒リンゴ |
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白いテラスのレモネード |
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八十八夜の茶摘み |
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スコットランドの蔦の洋館 |
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苔むす石畳 |
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朝焼けのアルプス |
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ノルマンディの海に沈む夕日 |
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紅葉の交響曲 |
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暖炉の残り火 |
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煉瓦通り |
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小春日和の冬木立 |
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天津の甘い栗 |
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クラリネットの音色 |
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ブルージュのチョコレート |
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楊貴妃の梨の花 |
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ギリシャの大理石 |
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オーストラリアのアカシア |
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南半球のクリスマススカイ |
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地中海の妖精 |
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長谷寺の牡丹 |
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萩の夏蜜柑 |
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ほろ酔いのピーチフィズ |
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鮮やかなサボテンの花 |
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れんげ草のじゅうたん |
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あぜ道のたんぽぽ |
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孔雀の羽根 |
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午後のアップルティー |
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ポケット一杯のキャラメル |
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野を駆けるサラブレッド |
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小鹿の散歩 |
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中秋の名月 |
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萌黄おどし |
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下校途中の猫じゃらし |
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新緑の風 |
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森林浴 |
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五月雨 |
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クリスマスの樅の木 |
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グラスホッパー |
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静かな湖畔 |
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お正月の門松 |
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珊瑚礁の海中散歩 |
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瀬戸内に浮かぶ小さな島 |
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ヒマラヤの青いケシ |
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月夜の杜若 |
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ヒースの丘 |
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珊瑚の首飾り |
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梅雨の晴れ間の青梅 |
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柊のクリスマスリース |
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シベリアの針葉樹林 |
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ナイチンゲールの歌声 |
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アンデスの空ゆくコンドル |
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白百合のつぼみ |
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ペパーミントの葉 |
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春の七草粥 |
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月の女神・ダイアナ |
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キンセンカの咲く頃 |
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雪降る夜のペチカ |
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10月のパンプキンパイ |
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にんじんのグラッセ |
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ミックスジュース |
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聖夜のキャンドルライト |
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山里のグミの実 |
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カナダのスモークサーモン |
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アルプス乙女 |
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スウィトピーの花束 |
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女王カトレア |
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カシスソーダの誘惑 |
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星影の桔梗 |
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ため息のベール |
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闇夜のカーテン |
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博多の辛子明太子 |
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キャベンディッシュの三日月 |
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草千里 |
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ゆでたてのさやえんどう |
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午前7時30分の露草 |
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プリンスメロンのデザート |
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幸せを運ぶカナリヤ |
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雨に香る銀木犀 |
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青磁の香炉 |
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ビスクドールの頬 |
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デリーのピンクローズ |
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ラスコーの壁画 |
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雪ん子のほっぺ |
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フロリダのオレンジ |
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南アフリカのフラミンゴ |
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マロニエの並木道 |
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日溜まりのマリーゴールド |
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出窓を彩るセントポーリア |
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盛夏の鬼百合 |
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潮風にそよぐハマナス |
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夏咲きの東洋蘭 |
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風にふくらむ合歓の花 |
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アステカ王国のダリア |
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7月のグレープフルーツ |
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パルテノン神殿の夜更け |
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夕暮れのグランドキャニオン |
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カルガモの親子 |
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5月の青麦畑 |
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南極のオーロラ |
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ラムネのあぶく |
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バルセロナの聖火 |
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サファイアの祈り |
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雪解け水と桜草 |
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紅殻格子 |
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山道のからすうり |
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巫女の紅袴 |
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紫禁城の沈黙 |
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プラムのタルト |
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夜明けのサフラン |
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子兎の小さなお耳 |
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嵐のドーバー海峡 |
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若返りの泉 |
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朝日を浴びるなすび |
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南仏のラベンダー |
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聖母マリアのすみれの花輪 |
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ミッドナイト |
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満開のアザレアガーデン |
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摘みたてのブルーベリー |
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プランター栽培のパセリ |
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輪切りのレモン |
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朝露に濡れる牧場 |
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西部のテキーラサンライズ |
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クランベリージャム |
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大和撫子 |
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新鮮なラディッシュ |
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薩摩ガラスのぬくもり |
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谷川のサワガニ |
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清少納言のあこがれ |
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雷小僧 |
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コンロン山脈の闇のとばり |
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古代エジプトのリンドウ |
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新大陸に実る巨峰 |
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ペルシャのざくろ |
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カルメンのバラ |
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ミモザサラダ |
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カスタードプティング |
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収穫まぎわの麦畑 |
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ライオンのたてがみ |
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河川敷きの枯れススキ |
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落ち葉焚き |
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カフェロワイヤルの炎 |
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神秘なる縄文杉 |
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朝市のパンジー |
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水車と黒いチューリップ |
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温室育ちのブーゲンビリア |
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京菓子と抹茶 |
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ファラオの時代のナイル河 |
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青竹の一輪差し |
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木陰のコノハチョウ |
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小川の藻 |
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台風一過の夕焼け空 |
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静寂のアマリリス |
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エリカ街道 |
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春の宵の矢車草 |
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晴天のアドリア海 |
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夕立の雨宿り |
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ジェラシー |
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朝食のスクランブルエッグ |
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ひまわり娘 |
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檜の湯桶 |
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ジンジャークッキー |
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春を待つ猫柳 |
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満月に照らされたススキ |
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ハイドパークの芝生 |
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尾瀬の水芭蕉 |
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暗闇のキャッツアイ |
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金沢の友禅流し |
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英国のサクランボ |
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神に捧げた青銅器 |
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火の鳥の舞 |
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丹頂鶴のベレー帽 |
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乙女座宮 |
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石舞台古墳の深い眠り |
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土手に咲くキンポウゲ |
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古都の屋根瓦 |
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くるみ割り |
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ネパールのベンガル虎 |
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謎めく無人島 |
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朝もやに霞むしだれ柳 |
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広口瓶のピクルス |
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宇治の茶団子 |
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水が薫る葉月 |
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ヴァニラアイスクリーム |
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海で生まれた天使の翼貝 |
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雪国の低い空 |
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ティモール海の青海亀 |
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レイシの果実 |
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ローズマリーオイル |
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懐かしい金平糖 |
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パリのカフェオレ |
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コンソメボラーユ |
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寿のいくら |
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夜明けを待つロンドン塔 |
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飾り窓のヒヤシンス |
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額田王の茜 |
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浅草の手焼きせんべい |
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入江のさざなみ |
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クレオパトラの真珠 |
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キリギリスの演奏会 |
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週末のレマン湖 |
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日本海の漁火 |
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輝く樹氷 |
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シャンピニオンのかさ |
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お母さんのおしるこ |
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茶の湯の釜 |
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霜の降りたキャベツ畑 |
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白菜の浅漬 |
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アポロンの月桂樹 |
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軒先の干し柿 |
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雨にむせぶ赤土 |
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ペルーの更紗 |
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涼しげな水羊羹 |
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わらぶき屋根 |
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ジュラ紀のアンモナイト |
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カッコウワルツ |
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旬の秋刀魚 |
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冬のオホーツク海 |
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湿原のツルコケモモ |
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バッカスの髪を飾る葡萄 |
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お昼寝するチャウチャウ犬 |
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たちこめる雨雲 |
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ノースランドの羊の群れ |
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初めての口紅 |
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山菜摘み |
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メキシコの百日草 |
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蝉時雨の深山 |
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夕日に染まる白壁 |
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こおろぎの輪唱 |
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夏の日よけの簾 |
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おとぎ話のかぼちゃの馬車 |
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古久谷の角皿 |
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夏の終わりの20世紀ナシ |
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囲炉裏でつくる茶粥 |
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木漏れ日のプロムナード |
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ブロッコリーサラダ |
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端午の節句の菖蒲湯 |
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木の芽料理 |
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アマゾンのジャングル |
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紅茶染めのテーブルクロス |
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竹の子掘り |
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シルクロード |
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木の幹のカブトムシ |
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甘ずっぱい青りんご |
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田植えの季節 |
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ベゴニアの花時計 |
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丘の上のポピー |
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弾ける野木瓜 |
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アラビアンナイト |
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シオンの咲く庭 |
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色づくいちょう並木 |
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大輪の菊祭 |
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ピーナッツバター |
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緑の黒髪 |
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幸運の茶柱 |
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ガイフォークスの花火 |
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秋のおみなえし |
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アランバーンズの白馬 |
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瞑想の孔雀石 |
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タツノオトシゴ |
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やまびこ |
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校庭のテニスコート |
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キッシンググラミー |
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温泉の湯けむり |
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ほかほかの石焼き芋 |
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ムール貝のワイン蒸し |
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金閣寺 |
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秋の夜長のホットココア |
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津和野の花菖蒲 |
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琥珀のブローチ |
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インド洋のアオヒトデ |
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山ほととぎす |
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雑木林のヤブレガサ |
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霧けむる山麓 |
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初雪の空 |
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ブラックチェリーパイ |
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アフロディーテの微笑 |
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野辺に咲く黒百合 |
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卵料理とパプリカ |
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春を告げるうぐいす |
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オランダの木靴 |
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メープルシロップ |
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リスのドングリ集め |
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ランプの灯火 |
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アルパカのセーター |
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天女の羽衣 |
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高野山の肝だめし |
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竜宮の宴 |
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雨を喜ぶあまがえる |
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北海道のじゃがいも畑 |
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七夕の笹の葉 |
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オレンジピール |
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桃源郷 |
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屋久島のおさるさん |
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スペインのオリーブ畑 |
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レディーマクベスの夜 |
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すなけむり |
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黄昏のスフィンクス |
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鎮守の森 |
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ライムのソルベ |
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コマドリの巣づくり |
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山東省の田舎道 |
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藍の絞り染め |
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鹿鳴館の舞踏会 |
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ベートーヴェン「田園」 |
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栗毛の少女 |
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春一番のふきのとう |
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かぼちゃのランタン |
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馬車のわだち |
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ヘリオトロープの香り |
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紫の炎 |
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清らかなかすみ草 |
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赤ちゃんの手 |
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焼きたてのマドレーヌ |
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絹の光沢 |
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スウェーデンのリンネソウ |
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残暑の頃のくず餅 |
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星のきらめく夜空 |
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四つ葉のクロバー |
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トワイライトゾーンの雪 |
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宵の明星 |
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夜露のマチュピチュ遺跡 |
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お父さんがつくった笹舟 |
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冬将軍の到来 |
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湯上がりの梅酒 |
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山際に沈む夕日 |
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ラフレシアの謎 |
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ピエロの涙 |
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洋梨のコンポート |
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阿寒湖のマリモ |
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モニュメントバレーの残丘 |
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野生のルピナス |
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若草の息吹 |
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谷間に響くこだま |
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二月のアメシスト |
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天馬の駆ける空 |
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咲き乱れる山吹 |
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デンマークの菜の花畑 |
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なみなみ注ぐティーオーレ |
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かごいっぱいのネーブル |
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木苺のゼリー |
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雨上がりのクモの巣 |
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バイカル湖のラピスラズリ |
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雛壇の金屏風 |
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水面に映える岸辺の葦 |
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香ばしいフランスパン |
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1月の葉牡丹 |
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街角のプラタナス |
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ファイヤーストーム |
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真夜中のミステリー |
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洗いざらしのダンガリー |
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寒空の三日月 |
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リネンのテーブルクロス |
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初恋のミルクチョコレート |
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勝利に酔う土佐犬 |
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花壇を縁取る芝桜 |
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エトルタの海岸線 |
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たらの新芽 |
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コアラの好きなユーカリ |
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野山のピクニック |
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カヌー小僧とヤシの実 |
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たぬきの鼓笛隊 |
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氷柱のしずく |
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渓谷の深淵 |
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銀の燭台 |
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和敬静寂 |
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夕暮れの雪景色 |
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女学生の矢がすり |
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ニュージーランドのキウイ |
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おだやかな昼下がり |
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目覚めのブラックコーヒー |
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サハラ砂漠の風紋 |
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羊飼いの角笛 |
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マスカットキャンディー |
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メキシコの柱サボテン |
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魔法使いのマント |
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スズメノテッポウの草笛 |
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高原のニッコウキスゲ |
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ネス湖のネッシー |
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たわわに実る黒すぐり |
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帆船の渡る海 |
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粋に着こなす黄八丈 |
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桐の箪笥 |
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手づくりのリンゴジャム |
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傷心のティラミス |
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鉢植えのゼラニウム |
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椿の花咲く小径 |
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長崎のビードロ |
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金沢の土塀 |
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松ぼっくりのドアリース |
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せせらぎのカワセミ |
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森の茂みのオオルリアゲハ |
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華麗なジプシーダンス |
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アーサー王の剣の湖 |
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切り株のテーブル |
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ひきたてのきなこ |
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温かいオートミール |
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ピースメモリーパークの鳩 |
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大文字の送り火 |
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初詣の焼きぎんなん |
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太陽のプロミネンス |
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モロッコのターバン |
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マホガニーの揺りかご |
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空を映す湖 |
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咲きけぶる三椏の花 |
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古本の皮表紙 |
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国道沿いのカンナの花 |
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セント・バレンタイン |
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セーブルの陶器 |
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ベランダのセキセイインコ |
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モンゴルの大草原 |
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イカすみのスパゲティー |
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薄氷の張る水たまり |
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ルナパークの噴水 |
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ハレー彗星の伝説 |
|
カンパニュラの夢 |
|
風にのる萩の花びら |
|
スターチスのドライフラワー |
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クリームソーダのはじける泡 |
|
原初の春 |
|
夢見る五月 |
|
休日の草野球 |
|
南国の楽園 |
|
潮騒 |
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エメラルドの都 |
|
避暑地の軽井沢 |
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プリンスエドワード島の夏 |
|
恐竜のいた原生林 |
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古代の翡翠の曲玉 |
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アラスカのブリザード |
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翠の風鎮 |
|
熱帯夜 |
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ふるさとの海 |
|
愛のキューピッド |
|
ためらい |
|
サンタフェのテラコッタ |
|
秋のウラシマツツジ |
|
栗まんじゅう |
|
祝言の朝の桜湯 |
|
杏の里の花便り |
|
マドリッドのサングリア |
|
ビーツの酢漬け |
|
神話の中の悲哀 |
|
コロボックルの衣装 |
|
深山おろし |
|
浅もやの中の山荘 |
|
優雅なネーレイド |
|
シャム猫の澄んだ瞳 |
|
ポンパドゥール夫人の笑顔 |
|
岩陰のユキワリソウ |
|
山桜のぼかし |
|
ウェディングパーティー |
|
ライラックのティアラ |
|
いぐさの花むしろ |
|
新緑の中の山ツツジ |
|
オレンジシャーベット |
|
トルコ石のプロミスリング |
|
人魚のまとうローブ |
|
夕張メロン |
|
甲子園の砂 |
|
ぬかるみのムツゴロウ |
|
霧雨の午後 |
|
平安京の藤棚 |
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初秋の残霧 |
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硝子窓をうつ北風 |
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レッドテールナイト |
|
夜明けの一瞬 |
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ラムレーズン |
モンゴルの草原色
この色を好む人は温厚な人柄で、
物事に対する姿勢や意見は率直で
包み隠しすることなく、
誠意ある行動をとります。
(c)Jun-ichi Nomura
フェリシモが先月から販売を始めた「500色の色えんぴつ」が大人気だそうです。
この色鉛筆セットは、平成4年に限定販売した500色セットの復刻版ということで、多くの再販希望の声に応える形での発売となりました。
(復刻されるのは良いのですが、以前は三菱鉛筆製、今回は中国製というのが少し残念です)
さて、この500色の色鉛筆、眺めるだけでも様々な想像力が喚起されますけれど、一本一本(一色一色)に名前が付けられているのがもう一つの特徴です。
命名は色彩学者・野村順一氏によりなされ、その色の持つ特徴や、その色を好きな人についての物語が提案されています。
冒頭の緑色はモンゴルの草原色だそうです。
このような色たちが紹介されている500色の色鉛筆特設サイトがとても美しいです。
この記事の右側⇒に、500色の色鉛筆の色を再現して並べてみました。
(パソコンのディスプレィですから、実際の色鉛筆の色と若干異なることをご了承ください)
「色」の右側を「マウスを左クリックしたままなぞる」と、野村順一氏による色名が表示されるようになっています。
それぞれの色に、皆さんはどのような名前を付けますか?
逆に、
「ポンパドゥール夫人の笑顔」
「ナイチンゲールの歌声」
「カッコウワルツ」
「謎めく無人島」
「シルクロード」
「霧雨の午後」
「ベートーヴェン 田園」
「高野山の肝だめし」
「ためらい」
「熱帯夜」
「やまびこ」
「こおろぎの輪唱」
「谷間に響くこだま」 ・・・・
などなど、色の名前からどのような色をイメージするかを楽しむこともできますね。
年代によって、性別によって、国によって、傾向もことなるはずです。そういう学術的な調査も面白いですね。
モンゴルの草原の色も場所によって、時間によって、天気によって全く違う景色に見えました。何時間もの移動も全く退屈することはありませんでした。
色とそれから生み出されるイメージが固定化されてしまうことはつまらないことです。
しかし、それらを前提として自分のイメージと他人のイメージを比較してその差異を楽しむことや、先入観と実際の色との違いを実感することも面白そうです。
■蛇足
最近の絵の具や色鉛筆からは、かつてあった「肌色」という色名が消え、「ペールオレンジ」などの言い換えがされています。
人種には多様性があり、肌色も多種多様であるために特定の色を決めるのはおかしいという人権的な配慮からと言われています。
人種差別に対する問題意識から、人種・個人差・日焼けの度合いによって肌の色は異なるのに特定の色を肌色(フレッシュ)と規定する事はおかしい、としてこの名称を避ける動きがあり、クレヨン・クーピーペンシル・絵具等で従来の肌色を薄橙(うすだいだい)・ペールオレンジ(pale orange)等と言い換える場合がある(アメリカでは、たとえば1962年にCrayola社は肌色に相当するfleshの呼称をpeach「ピーチ」と呼び変えている)。
(出典: ウィキペディアWikipedia「肌色」項)
まあ、これも固定概念を植えつける上での弊害の一つですね。
となれば、500色の色名の中で気になるものが一つあります。
それは「赤ちゃんの手」という色名。
(右の色の中の何処にあるかを探してみてください)
これも少し配慮が必要だったかもしれません。
以前のブログ記事 永野村、鎌倉郡から横浜市へ において、港南区を南北に走っている武相国境の稜線が如何に地域を分断してきたかについて書きました。
当時、武蔵側と相模側を結ぶ道路は、いわゆる尾根道の古道だけでありました。
自動車が永野村に初めて入ることができたのは、実に昭和4年に平戸と吉原を結ぶ道路の完成を待つこととなります。
それまでは、横浜の隣りでありながら道路整備が不完全で、いわゆる陸の孤島のような状態であったわけです。
横浜市への出入が遠い町村にすら及ばず、自ら別天地のごとき生活状態でありました。
生活習慣も総てが鎖国的であったという中、国境の丘陵を越えるということの障害が、横浜市への編入の遅れの主因となったようです。
昭和4年、平戸と吉原を結ぶ道路が開通することにより、永野村はようやく「開国」の日の目をみることになりました。
今回は、その状況を地図の変遷で検証してみます。
鎖線にて武相国境が標記されています。
明治時代の武相国境を越える道らしい道は、現在の環状2号線(県道平戸吉原線)のルートではなく、現在の港南図書館前の道~港南台ゴルフセンター~日野病院へ抜ける山道だったことがわかります。
吉原~永作~馬洗橋に抜ける道が出来ました。
永作にトンネルがあることが目に付きます。
分水嶺はそれだけ険しく、人道トンネルがあったのでしょう。
車の通行は出来なかったと思われます。
『港南の歴史』によると、平戸~永作~馬洗橋の武相国境を車で越えることが出来るようになったのは昭和4年以降です。
上の地図は、車の通行が出来るようになってまもなくのものです。
人道トンネルが切通しとなり、ようやく車の通行が可能となったものと推測されます。
この切通しにより、ようやく永野村は「開国」の日の目をみるようになったのです。
戦時中は軍需物資を運ぶ道路が整備され、県道平戸吉原線の原型が出来たことがわかります。
宅地化が進み、大規模な開発が行われた時期です。
県道平戸吉原線には造成地の土砂を積んだトラックが往来しました。
市営地下鉄上永谷駅の開業は昭和51年です。
丸山台の造成がほぼ終わり、横浜横須賀道路の工事が進行しています。
住宅地が面状に広がったため、かつての武相国境線が明確に分からなくなってしまいました。
このようにしてみると、武蔵と相模の国を分断していた稜線を結ぶ道路(県道平戸吉原線)により港南区として両国が一体となっていく様子が良く分かります。
地図はその変遷を雄弁に物語ってくれるのです。
※今回の地図資料は『今昔マップ』首都圏版を使用して作成しました。
7月22日の皆既日食まで一か月を切りました。
皆既日食自体は、地球上のどこかで1年に1回程度見ることができる現象ですが、同じ場所で見ることができることは数十年~100年程度に一度しかありません。
日本の陸地での皆既日食は、1963年7月21日(北海道東部)以来実に46年ぶり。
今年の次は、26年後の2035年9月2日(北陸~関東北部)となります。
日本で見ることができる久し振りの日食ですので、ニュースでも盛んに取り上げられていますね。
ところで、今年の日食が観測できる場所を詳細に見ると、とても興味深い偶然が重なっていることがわかります。
まず、NASAの画像を。
薄いグレーの大きな円が部分日食の観測できる範囲、そして濃いグレーのほんの小さな円が皆既日食の観測できる地点です。

(c)NASA
皆既日食が観測できるエリア(皆既日食帯)を さらに詳細にGoogleMapに落としたものがこちら です。
![]()
※青い線の間が皆既日食帯。ここで皆既日食を見ることができます。
もし私が何処で皆既日食を見たいかと問われたら、迷わずブッダガヤと答えるでしょう。
ブログ記事のタイトルのとおり、今回の日食のルートは仏教の伝来ルートにかなり一致しているということがわかります。
それが興味深い偶然ということです。
日食はお釈迦様が悟りを開かれたブッダガヤ付近では、日の出とともに日食が始まります。
段々と欠けていってやがてダイヤモンドリング⇒皆既日食となるはずです。
ブッダガヤ【皆既日食】
北緯 24.6951° 東経 84.9908°
日食継続時間 2分55.5秒
2009/07/21 23:59:32.4 日食の始まり
2009/07/22 00:54:33.6 皆既の始まり
2009/07/22 00:57:29.2 皆既の終わり
2009/07/22 01:58:56.9 日食の終わり
(Indian Standard Time=UTC+5:30)
どのようなイメージになるのか、20年前にインドを旅した時に撮った写真と、Stella Theater のシミュレーション画像を合成し、作成してみました。
天気が良ければ東の空にこのように見えるはずです。
お釈迦様は2500年前に明けの明星を見上げて悟りを開かれたといわれます。
ブッダガヤで暁天坐禅をして、明け方に東側を流れる尼蓮禅川からスジャータ村の上方に見える皆既日食現象を眺める・・・
いいですね~
霊鷲山【皆既日食】
北緯 25.0246° 東経 85.4256°
日食継続時間 3分24.5秒
2009/07/21 23:59:39.6 日食の始まり
2009/07/22 00:54:38.0 皆既の始まり
2009/07/22 00:58:02.6 皆既の終わり
2009/07/22 01:59:29.5 日食の終わり
(Indian Standard Time=UTC+5:30)
さて、皆既日食の見える場所は、ここから東へ漸み、数時間後には菩提達磨大和尚が渡った少林寺の直ぐ南を通ります。
残念ながら少林寺では皆既日食とはなりませんが、きっと達磨大師が通ったルートと皆既日食帯はかなり重なっている筈です。
少林寺【部分日食 90.9%】
北緯 34.5131°東経 112.9631°
2009/07/22 00:16:17.4 日食の始まり
2009/07/22 01:25:44.0 最大食分
2009/07/22 02:42:08.6 日食の終わり
(Chinese Standard Time=UTC+8:00)
そして、日食帯は禅の流れと同様にさらに東に漸み、道元禅師が修行された天童寺へ到達します。
天童寺でも皆既日食を見ることが出来ます。
阿育王寺【皆既日食】
北緯 29.853°東経 121.7447°
日食継続時間 4分23.2秒
2009/07/22 00:23:23.9 日食の始まり
2009/07/22 01:37:47.7 皆既の始まり
2009/07/22 01:42:10.9 皆既の終わり
2009/07/22 03:03:13.0 日食の終わり
天童寺【皆既日食】
北緯 29.8063°東経 121.7907°
日食継続時間 4分10.2秒
2009/07/22 00:23:27.0 日食の始まり
2009/07/22 01:38:00.0 皆既の始まり
2009/07/22 01:42:10.2 皆既の終わり
2009/07/22 03:03:21.3 日食の終わり
(Chinese Standard Time=UTC+8:00)
日食帯は道元禅師の渡られた海路を通り、奄美列島へ。
禅宗の教えが伝わった2500年の歴史を僅か数時間で東漸する日食となるわけです。
今回の日食は、禅の源流に思いを馳せながら横浜において部分日食を観測してみようと思います。
貞昌院(横浜市港南区上永谷)では次のとおりです
貞昌院【部分日食 75.8% 】
北緯 35.4028° 東経 139.5704°
2009/07/22 00:55:07.4 食の始まり
2009/07/22 02:12:51.9 最大食分
2009/07/22 03:30:36.0 食の終わり
(Japan Standard Time=UTC+9:00)
2時間余りの天文ショーとなります。
天気が良くなりますように。
下の写真は国道16号線、八幡橋交差点付近から見た光景です。
パノラマで撮影してみました。
流れる川は掘割川、中央に根岸プールセンターが見えます。
その左側の高架は首都高湾岸線とJR根岸線です。
このあたりに、戦前から戦後にかけて根岸飛行場がありました。
プールセンター入口交差点には次のような看板が設置されています。
根岸飛行場跡昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社により日本発の飛行艇専用民間飛行場がつくられました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン経由パラオに向け飛び立ちました。
発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
2式大艇の最終飛行は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の詫間基地からここに飛来したのが最後です。
根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。
(看板に記載されている説明)
![]()
根岸飛行場を発着していた飛行艇(看板より)
(左)97式大艇 (右)2式大艇「晴空」
これだけの巨体が轟音を響かせて水上を離着陸する光景はさぞかしダイナミックだったことでしょう。
![]()
(左)看板に記載されている地図
(右)米軍により撮影された昭和22年の航空写真=接収後の根岸飛行場
![]()
根岸飛行場が運用されていたときの貴重な写真(戦後・接収後)
アプローチから海に出る飛行艇が写っています
第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で敗北するまで、日本は世界的な航空技術先進国であった。これは民間航空も同様であり、1929年(昭和4年)に設立された日本航空輸送株式会社(現在の日本航空とは直接のつながりはない)が、日本本土と大陸を結ぶ航空路を運航しており、中心的存在であった、
しかし日本政府は中華民国との間の日中戦争の勃発により中国大陸と日本本土との航空路による連絡が戦略的に重要になったため、1938年に日本航空輸送は国策会社へと改組され、満州航空傘下の国際航空を合併させて新たに発足したのが「大日本航空株式会社」であった。
航空路線としては、海軍の九七式飛行艇を民間輸送機型によってサイパンやパラオといった南洋群島への長距離路線が運航されたほか、後世日本の傀儡国とされた満州国の首都新京(現在の長春)を結ぶ航空路も開設されていた。またタイのバンコク線によって欧州系航空会社の極東線との連絡が可能となり、日本と欧州を結ぶ航空路が連結されていた。
だが、太平洋戦争の開戦とともに、大日本航空が運航する路線は軍の管理下に置かれ、さらに新たに占領した東南アジアにおけるネットワークを拡大し、戦争中は軍事的に重要な輸送手段となっていた。大日本航空の機材や乗員の多くは開戦直前に陸軍が編成した「特設第十三輸送飛行隊」に編入され南方地域をへの運航を担い、さらには「南方航空輸送部」に組織改変された。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)
根岸飛行場をはじめ、横浜にはいくつかの飛行場がありました。
・富岡飛行場(飛行艇・日本が運用)
・根岸飛行場(飛行艇/終戦までは日本が運用、戦後接収され米軍が運用)
・伊勢佐木町飛行場(戦後/米軍/セスナ機用)
・間門飛行場(戦後/米軍/セスナ機用)
まずは、時系列に整理してみます。
(間違いがあれば指摘ください)
1929(昭和4) 日本航空輸送株式会社発足
1929(昭和4) 日本航空輸送による運行開始
1930(昭和5) タコマ号が根岸・市電埋立地より太平洋横断に挑戦
1935(昭和10) 根岸飛行場完成
1936(昭和11) 金沢区富岡に横浜海軍航空隊の富岡飛行場が開港 飛行艇の運行
1938(昭和13) 大日本航空海洋部発足 (日本航空輸送株式会社消滅)
1939(昭和14) 横浜~サイパン方面の定期便が運行開始 月2便ほど
横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)
1940(昭和15) 根岸飛行場拡張、サイパン航路の発地が富岡から陸根岸飛行場へ移転、週1便に増発
1941(昭和16) 映画『南海の花束』公開、97式大艇運行開始
1941(昭和16) 航路がチモールまで延びる
1941(昭和16) 大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となる
-----------開戦-----------------------
1941(昭和16) 日本軍真珠湾を空襲、マレー半島上陸、米英宣戦布告
根岸飛行場の人員・機材は南方との連絡や人員・物資の輸送を担う
-----------終戦-----------------------
1945(昭和20) 米軍に接収され、大日本航空は解散
1946(昭和21) 伊勢佐木町に飛行場が出来る
1948(昭和23) BOAC(イギリス海外航空)ロンドン横浜(根岸飛行場)
ロンドン⇒アウガスタ(泊)⇒アレクサンドリア(泊)⇒バーレーン⇒カラチ(泊)⇒カルカッタ(泊)⇒ラングーン⇒バンコク(泊)⇒ホンコン(泊)⇒上海(泊)⇒横浜
1952(昭和27) 間門飛行場が完成、伊勢佐木町の飛行場が間門に移転
1958(昭和33) 根岸飛行場が役割を終える
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タコマ号が市電埋立地より太平洋横断に挑戦
『横浜の100年(上巻)』(郷土出版社・P146・1930年)
![]()
『Yokohama City Map』(米第8軍作成・1949年・赤色はkamenoが着色)
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戦後の横浜の飛行場の姿
■伊勢佐木町飛行場
(左)米軍により撮影された1947年の航空写真
(右)伊勢佐木町飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1949)より
■間門飛行場
(左)米軍により撮影された1956年の航空写真
※冒頭にある米軍により撮影された昭和22年の航空写真(1947年)には、間門飛行場の滑走路が写っていないことがわかります。
(右)間門飛行場 『敗戦の哀歌』(写真:奥村泰宏・1950)より
日本が1945年(昭和20年)8月14日にポツダム宣言受諾を決定したため、軍隊は即日武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。そのため大日本航空も解散させられることになり、戦後処理のために日本国内で運航されていた緑十字飛行も10月7日に終了し、11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止され、1952年に再開が認められ日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことは無かった。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 大日本航空 項)
なんとも残念なことです。
今日のブログ記事は 横浜に水上飛行場があった!?(ハマちゃんのひとり言)を併せてお読みください。
■関連ブログ記事
わたしたち にんげんの げんごのりうょくは とても じゅなうん で かつ あいまい に できいてる こと が よくわりかますね。
こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげは たんご を にしんき する ときに その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
■関連リンク
mirakui::tumblr
貞昌院・永谷天満宮とも縁の深い永野小学校。
明治25年11月3日に永野学校として創立して以来まもなく120周年を迎えようとしています。
小学校には貴重な資料が保管されております。
現在、永野小学校土曜塾を中心に、港南歴史協議会などでデジタルアーカイブ化を行っています。
併せて、特に写真資料について、縁のある方々で回覧し、情報を付加していく作業が進められています。
撮影された場所、年代、写されている人物、建物など一つひとつを検証しながら行っています。
だいぶ特定されてきました。
写っている方や、その写真の場面を共有している方がいらっしゃると作業は飛躍的に早まります。
(もちろんなかなか検証が進まない写真も多いですが地道に進めています)
さて、永野小学校の現在の校歌は、おおぞらーは・・・の歌詞で始まります。
「永野小学校校歌」
作詞:蕪木直行 作曲:松井健裕
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/nagano/txt/songs.htm
作曲された松井先生直筆の楽譜を御紹介いたします。
松井先生のお人柄を表すような楽譜ですね。
このように、元来別の校歌があったため、最初は「永野小学校こどもの歌」として作られたものでした。
松井健裕先生は菩薩である。
先生を知る人ならこの言葉に誰もが共感をおぼえるだろう。
メガネの奥からいつもにこにこと私たちを甘守り、優しく穏やかな口調で話されていた先生。
いつ、どこで会おうともその笑顔、その温かい声は変わらない。
そして先生に接していると心があかるくなるのである。
作曲家としての業績もさることながら、先生はまた音楽教育においてすばらしい足跡を残された。教育者になるべくして生まれてきたような方である。先生の教えは、はめることに始まりはめることで終わる。
人の才能を見つけだし、引き伸ばしていくのにも一種の才能がいるとすれば、先生はそのことにかけ天賦の才をおもちだったようだ。
そしてその人柄故、多くの人が先生を慕って集まり、先生の薫陶を受けて社会に旅立っていった。
しかし先生の人生においては音楽だけがすべてだったというわけではない。学生時代はサッカーの名フォワードとして活躍、その腕前は日本代表にまで選ばれたほどである。他にスキー、水泳などスポーツマンとしても知られていた。そして忘れてはならないのが奥様の存在であろう。先生は奥様の事を「チューリップ」と称されていらした。英国紳士然とした先生に優しい笑顔で寄り添う奥様…。あらためて今、先生の写真を拝見していると、奥様の笑顔で先生はとても幸せな人生を過ごされたのではと思う。
(松井先生を語る「松井先生を偲んで」より)
昭和45年5月25日、このこどもの歌が正式な「永野小学校校歌」として制定されました。
昨日、地域の中で「寺院」が取り組むデジタルアーカイブについてのお話を2時間ほどさせていただく機会がありました。
(そのことについてはいつか追記するかもしれません)
先月開催されたBankartでのデジタルアーカイブに関するシンポジウムに出席させていただいた機縁で来訪された3人の方との楽しい時間でした。
雑談の中で、貞昌院のホームページを開設してしばらくした時に取材を受けた「横浜18区の本」の話題が出ました。
本棚を探してみると・・・・ありました。
書名:横浜的電脳「横浜でパソデジ」よこはま18区のほんシリーズ5弾
発行 横浜ブックレット刊行委員会
出版社:有隣堂
協力:横浜市
発行年月日:1998.01.06
なつかしいですね。
何故ホームページを開設したのか、そのきっかけなどについて今から10年以上前に取材を受けたものです。
巻頭のことばを引用してみます。
横浜は,開港以来様々な文化や,情報の交差点として多くの人々を受け入れてきました。横浜には,もののはじめ物語がたくさんあります。
例えば食べ物から理髪業,テニス,野球といったスポーツに至るまで。
新しいものに取組む姿勢は,今でも横浜の元気の源となっています。
21世紀は,本格的な高度情報化社会が到来します。インターネットだけではなく,病院と患者さんをデジタル通信網で結ぶ在宅看護への応用,教育ツールとしての活用,防災ネットワークの構築といった多岐にわたる応用が期待されています。
パソコンも随分手ごろな価格まで安くなってきました。
これをキッカケに,地域情報を発信したり,入手したりしながら,世界とインターネットで交流を深めて,新しい元気な横浜を一緒につくっていきましょう。
(横浜ブックレット刊行委員会委員長・高秀秀信)
それから11年、横浜は開港150周年を迎え、さまざまな記念行事が行われ取り組まれています。
インターネットなど情報網の進展も、当時は考えられない速度で進んでいます。
この本に紹介されている方々を追跡取材して、同じように纏めてみると面白いかもしれませんね。
「よこはま18区のほん」第5巻「横浜でパソデジ(横浜的電脳)」は,横浜でデジタルメディアを使って情報発信したい方々のために,ショップ,スクール,プロバイダー情報を集めました。
パソコン上達の早道は,自分にあったパソコン活用法を早く見つけることです。
最近爆発的に普及しているインターネットは,自分で手軽に情報発信・収集に便利な道具です。
まずは18区から発信される情報を眺めながら,パソコンと親しくなってはいかがでしょう。
(横浜ブックレット刊行委員会)
情報発信=メディア=布教 という構図は、その媒体こそ異なれ、伝えたいという思いはなんら変わるものではないのです。
それにしても、当時はダイヤルアップ環境でインターネット会議を行っていたのです、良い思い出です。
・・・なつかしい。
会議録を読み返してみてもちゃんと会議になっていたところが凄い!
今日4月8日はお釈迦さまの誕生日。釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)です。
お釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ)がこの日に生まれたという伝承に基づきます。
⇒なぜ今日がお釈迦様の誕生日なのかは こちらをご参照ください。
釈尊降誕会には、この他に佛生会(ぶっしょうえ)、浴佛会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭り(はなまつり)など、様々な呼び名があります。
お釈迦さまが誕生された時、大自然が祝福し、天から龍が飛来して甘露の香湯を潅いだという故事に基づき、様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。
今日の記事は、この甘茶にテーマを絞って書いてみます。
甘茶とは、本州~九州にかけての山地に自生するユキノシタ科の落葉低木「アマチャ」から作られたお茶です。
初秋に枝葉を刈り取り、数日間天日にて乾かします。
さらに水を噴霧し発酵させた後、揉みながら乾燥するとこのようになります。
貞昌院でも先日の花まつり法要の際に甘茶を皆さんにお飲みいただきました。
実に素朴な甘みがいたします。その奥にお茶らしい微かな苦味もあります。
砂糖などは一切使用していないのに何故こんなに甘いのか不思議ですね。
その秘密は甘茶に含まれる甘味成分の d-フィロズルチン です。
ちなみに微かな苦味成分は、発酵過程で d-フィロズルチン として加水分解しきれなかったフィロズルチン 8-グルコシドが少し残っていることとタンニンによるものです。
この d-フィロズルチン は、実に砂糖の数百倍~千倍もの甘さがあると言われていますが、消化吸収されることが殆どないため、カロリーオフの健康食品なのです。
「フィロズルチン」という名前の中に「ズルチン」という言葉が含まれています。
少し年配の方は人工甘味料のズルチンを想起するのではないでしょうか。
ズルチン は、戦後になってサッカリン同様、大量に使用された人工甘味料です。中毒事故や肝臓機能障害、発癌性が認められたために使用禁止となりました。
しかし、甘茶の d-フィロズルチン は天然の甘味成分であり、人工的に合成される ズルチン とは全く異なるものです。
化学式を比較してみましょう。
d-フィロズルチン (d-phyllodulcin)
ズルチン (dulcin)
今日一日、本堂の前にお釈迦様の誕生を祝う花御堂をお飾りしています。
境内は数日前から散り始めたソメイヨシノの花吹雪につつまれ、まさに誕生の日を大自然全体で祝福しているようであります。
この写真はなんだか分かりますか?
これは以前西伊豆の海で採取してきた海水をトレーの上で少しづつ垂らしながら結晶化させたものです。
きらきら輝いて美しいですね。
ピラミッド形のものや四角い灰皿のような形もあります。
海水の 3.4% は塩分。
塩分の内訳は、
塩化ナトリウム 77.9%
塩化マグネシウム 9.6%
硫酸マグネシウム 6.1%
硫酸カルシウム 4%
塩化カリウム 2.1%
ということで、様々な塩が様々な条件によりこのような模様を造りだしているのでしょう。
写真に見える主な結晶は塩化ナトリウムの結晶であり、立方晶と呼ばれる結晶の中では対称性が最も高いものです。これを塩化ナトリウム型構造(NaCl-type structure)といいます。

単位結晶は立方晶ですが、必ずしもそのまま相似の形で成長するわけではなく、条件により様々な形を取ります。
まるでどこかの都市のようですね。
きちんと立方体に成長した結晶も美しいですけれど、このように混沌としている結晶状態も美しいものがあります。
立方体の細かい結晶が連なった様子は、まるで密集住居群のようにも見えます。
例えば香港にあった九龍城砦。
そういえば九龍城砦は付近で算出された塩を守るために宋代に建造された砦だそうです。
塩という不思議な共通点がありますね。
蛇足ですが、当時の九龍城砦には約3haの中に5万人の人口があったそうです。
畳1枚分の面積に5人が暮らしていた計算です。
凄いですね。
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霜と霜柱
教科書の記述を変えさせた高校生
『英語で知る日本のマナー』
Learning About Japanese Etiquette in English が発行されました。
著者/訳者名 岩下宣子 監修 / ディビッド・A・セイン 英文
出版社名 主婦の友社 (ISBN:978-4-07-266229-8)
サイズ B5 判 132 ページ
発行年月 2009年3月26日
価格 1,200円(税込)
経緯はこちら ⇒ 寺院参拝のマナー
日本の文化をネイティブに紹介しましょう四季のハッキリした 日本ならではの風土から生まれた 年中行事。
日々の四季感を大事にした しきたりを 外国の方々に伝えたいものです。また 日本には お互いを思いやる気持ちから生まれた いろいろなマナーがあります。
マナーといっても 決して堅苦しいものではありません。
相手のことを常に気にかける 日本の習慣を 英語で紹介してみませんか。
これ1冊で日本人も外国人もハッピーになれます!
Contents
Part1 日本のお付き合いのマナー 帯祝い/お宮参り/お食い初め/初節句と節句の祝い方/七五三/長寿の祝い/厄年と厄落とし など
Part2 食事のマナー箸づかい/会席料理の食べ方/そば/すし/天ぷら/うなぎ/和食のタブー など
Part3 年中行事 歳時記
Part4 結婚式・お葬式のマナー
という構成となっています。
写真をふんだんに使用した美しい本です。
このうち、寺院の参拝のマナー、歳時記の除夜の鐘などで協力をさせていただきました。
寺院の参拝のマナー項のサブタイトルは
「仏様にごあいさつの気持ちで、寺院に向かいましょう / Visit the temple out of a desire to greet Buddha」
どうぞ、お寺を参拝するときには、単なる観光として建物や庭を眺めるだけではなく、そこにいらっしゃる本尊様にごあいさつをする気持ちを持ってくださいますようお願いいたします。
お墓参りの際も、お墓に直行するのではなく、お墓を守ってくださる本尊様にごあいさつをしてからお参りされることをおすすめいたします。
そんな気持ちを込めてみました。
編集担当のK沢様、本当にお疲れ様でした。
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金融機関、交通機関などなど、コンピュータの障害によるニュースは後をたちません。
そこで、その対策として、冗長性を持たせるということを行っています。
冗長性(じょうちょうせい:redundancy)冗長性の定義は, 日本工業規格 JIS Z 8115 信頼性用語で「規定の機能を遂行するための要素または手段を余分に付加し, その一部が故障しても全体としては故障とならない性質」と与えられている. 代表的な冗長性としては, 複数のアイテムによってバックアップを実行する待機冗長や, アイテムを多重化してシステム機能を段階的に低下させる優美縮退冗長, 複数の同一アイテムから得られる結果を比較評価する多数決冗長などがある.
(日本オペレーションズ・リサーチ学会)
例えば全く同じシステム(バックアップ)を複数稼動させておき、障害が生じた場合に切り替えられるようにしたり、システムを分散したりするわけですね。
先日のブログ記事で書いたRAIDによるミラーリングもその一つです。
さて、本題に入ります。
数日前CD-Rにデータを焼いたところ書き込みは完了したものの、その読み出しにおいて冒頭の巡回冗長性エラーが出てしまいました。
何度読み出しをやってみても読めず、無理にファイルを開こうとするとフリーズします。
ディスクを取り出して表面を良くみると・・・・・
キレイだな~・・・・・いやいや、ひどい不良品ですね~
このような部分が何箇所もあります。
色素の液漏れのようなものも起こしています。
せっかく不良品ディスクを手にしたので、どれだけデータが復元できるかを試してみました。
通常の方法だと読み出しが出来ないので、neroを使って無事なデータと、読み出しできないデータも冗長性を利用して復元できるだけ復元してみました。
所要時間8時間ほど。
このディスクに焼きこんでいたデータは
9フォルダ 185ファイル 合計306MB
でした。
結果、どうしても読み出せなかったデータは
3フォルダ 42ファイル。
損傷率はファイル数ベースで23%
それ以外の他のデータは何の問題も無く読めています。
23%の損傷したデータ(写真)も、このような感じですので、別の方法で復元が出来るかもしれません。
土居まさる司会の『象印クイズ ヒントでピント』を思いだしました。
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CD-Rの冗長性は素晴らしいですね。あれだけ損傷のあるディスクからでも思った以上に復元できました。感心します。
・・・と言っている場合ではないですね。
最近はメディアの単価も下がっています。
大事なデータをバックアップする際にはそのメディアの信頼性をよく吟味し、目で確かめられるものはきちんと確かめる必要がありますね。
それと、何年も前に記録したデータも読めるかどうか時々チェックする必要もありそうです。
■関連ブログ記事
知的文化遺産を後世に引き継ぐために
若田光一さんら7人の宇宙飛行士を乗せたスペースシャトル「ディスカバリー」の打上げが無事成功し、順調に飛行を続けています。
まずはおめでとうございます。
さて、スペースシャトル打上げの際には、宇宙飛行士に最大3G~4Gの加速度がかかると言われています。
この加速度に打ち勝つ為に長期間にわたる訓練が為される訳ですね。
スペースシャトルに匹敵するほどの加速度を体験できる場所といえば、ジェットコースターが思い浮かびます。
日本で一番の加速度を誇るジェットコースターはどこかを調べてみました。
⇒参考サイト:ジェットコースター徹底比較
それによると、実に5Gを超えるものが2つもありました。
ヴィーナス(スペースワールド)が 5.26G、新滑空水上コースター・カワセミ(東武動物公園)が 5Gとなっています。
スペースシャトルよりも加速度が厳しいにも関らず、訓練もしていない普通の人が乗っても安