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Categoryコラム
夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは遠ざかるにつれ次第に星の瞬きと区別がつかなくなります
沖縄旅行の帰路、羽田行きの便が悪天候のためかなり遅れました。
そのため、空港で2時間ほどの余裕が出来たため、滑走路を見渡すことの出来る瀬長島に行ってみました。
この島は那覇空港の南にある離島で、多くの旅客機がこの上空をかすめて通過していくことで有名です。
特に晴れた日には夕日と飛行機が行き交う景色を見ることができます。
滑走路への誘導灯をこの角度から見ることができるのは、瀬長島ならではかも知れません。
この誘導灯の直ぐ脇数十メートルの位置に野球場があります。
ホームランを打ったら飛行機に当たる・・・なんてこともありえそう。
冒頭のことばは、以前受験勉強をしながら、また仕事帰りが遅くなったときなどよく聴いていた日本航空提供の番組のナレーションです。
一日の疲れを癒してくれる番組でした。
夜間飛行のお供をいたしましたパイロットは、私 城達也でしたまた明日午前零時にお会いしましょう・・・
今は残念ながら城さんの生の声はもう聞くことが出来ません。
今年の春から初夏にかけて、天気・気温がめまぐるしく変化しました。
桜の季節に日照時間が少なく、気温が低めに推移したためにソメイヨシノの花を長い期間楽しめたりしましたが、生き物たちはちょっと戸惑ったのではないでしょうか。
そんな今年の春から初夏を貞昌院ライブカメラで振り返ってみます。
毎日夕方(3月は17時、4月以降は18時)に撮影された写真を1日あたり2秒でつなぎ合わせました。
同じ時刻でも様々な表情を見せていることがわかりますね。
石畳の脇、石灯籠の周囲に彼岸花が植えられています。
周囲の緑が色濃くなるに従って彼岸花が枯れていく様子にもご注目ください。
それぞれの生物がそれぞれのサイクルで日送りをしています。
貞昌院のライブカメラは10年間運用してきたものから、今年春に2代目のカメラに引き継ぎました。
初代のカメラで撮影した2006年から08年にかけての3年間の記録ムービーは、こちらにございます。
レンズがやや広角ですね。
ここでは「怠け者の日」があるんです
「怠け者の日」には、みんなただ「怠ける」のが決まりです
皆、頑張って「何もしないでいる」ことに全力を注ぎます
多くの人は「何かをする」ということが習慣化してしまって
それが「癖」になってしまっているんです
人々はやる事が無いと死んでしまう、と感じるほどです
みんないつも「行動中」です
いつも走り回っています
「止まる」機会がありません
2003年、フランス・プラムビレッジで行われたThay5日間のリトリート
「イスラエル人/パレスチナ人〜神の内に休む」
ティク・ナット・ハン師の法話より一部抜粋 (中島直人訳)
今日は月齢11。
オレンジ色の月がゆっくりと昇っていきました
最近、電柱と電線がやたらに目に入るようになりました。
かつでは、電力線と電話線だけだったのですが、そこにケーブルテレビ、光ファイバー、光テレビ、PHS、USENなどなど・・・・・
テレビ関連のケーブルは低い位置に太いケーブルがありますので特に目立ちます。
ざっと近所を廻って写真を撮ってきました。
改めて眺めると、酷い景観ですねぇ
欧米の街並みと日本の街並みを比較した時に、一番の違いは何かといえば、電柱と空を横切る電線の有る無しではないでしょうか。
欧米の主要都市では無電柱化が達成されているのに対して、日本における無電柱化率は大きく立ち遅れています。
グラフにしてみると一目瞭然です。
以前、都市計画の仕事に関っていたときには、無電柱化をいかに進めるかという議論をもとにマスタープランを策定したりしていました。
しかし、現状はその計画に逆行し、電線の数は多くなる一方です。
皮肉なことに、ケーブルテレビやインターネットテレビは、各家庭でのアンテナ設置を行なわないために、景観がスッキリとする、というのがメリットの一つとして挙げられています。
しかし、このように道路上にケーブルが増える要因となってしまうのであれば本末転倒です。
しかし、世界にはまだまだ上がありました。
ベトナムの電柱・電線がカオスすぎる件
ここまでくると、潔ささえ感じます。
今日の坐禅会から『修証義』を読みはじめました。
総序(第一章)の出だしは「生を明らめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり…」です。
「生」とはどういうことか、「死」とはどういうことか、その真実をはっきり見極めるのが仏教者としての最も根本的問題であるのです。
このブログでは、何回かこのテーマについて考えてきました。
「死」についての考え方は、大まかに分けると次の三つの考え方があるようです。
(1)「死んだらそれでおしまい」という考え方。人が死んだらそれでお終い。御霊や魂といったものも残らないという世界観です。
(2)私たちのいのちは、大自然から生まれ、大宇宙という海ではねた一滴の水のようなもので、一瞬現れてすぐに大きな海に還っていくという考え方。
(3)身体は無くなっても、御霊(みたま)としてどこかに存在し続ける、という考え方。私たちは前世があり、今の人生があり、死後は、死後の世界に存在し続けて、いつか別の命として生まれ変るというものです。
どれが正解かは、自分自身がいざその場になってみないとわからないものでしょう。
生と死をどのように考えるのか、死とどのように向き合うのか、それは人間独自の行為かといえば、そうともいえないようです。
ニホンザルやチンパンジーでも「弔い」の行為をしているようだということが発表されました。
チンパンジーに弔い文化?西アフリカのギニアで、野生チンパンジーの母親が、死んだ赤ん坊を抱え続けミイラ化させる事例が3例確認されたとする研究結果を、京都大霊長類研究所(愛知県犬山市)などの国際チームがまとめ、27日付の米科学誌カレントバイオロジーに発表した。今回のような行動が群れに一貫して観察されたのは初めて。松沢哲郎所長は「死者を弔う気持ちも進化の産物。弔いの起源解明につながるかもしれない」と話している。
(共同通信 2010年4月27日)
私たちは自分以外の人の死をどう捕らえているのでしょうか。
特に身近な人を失った時の悲しみは筆舌しがたいものがあります。
私たちは一人では生きていくことが出来ない。他の人と何らかの関係性を持って生きています。
死によって、その関係性が断ち切られます。
「弔い」というのは、その関係性の変化を整理する行為といえるかもしれません。
「弔い」というのは「死者が死後の世界で安楽ならんこと」を願うばかりではなく、むしろ残された人のためのシステムなのでしょう。
冒頭の死の考え方のうち(1)「死んだらそれでおしまい」という考え方では、遺された者にとってあまりにも辛いものです。
死者が「死後の世界で安楽に住し、私たちを見守ってくれている」と考えることにより、遺されたものの心は和らぐことでしょう。
宗教や葬儀儀式は、そのようなことから起こったはずですし、「生と死をどのように明らめるか」にその大きな役割があるといえます。
お釈迦さまは、死後の世界について無記答とされました。
死後の世界をあれこれ邪推したり、霊の祟りで脅したりするのは、真の宗教とはいえないし、宗教者の態度ではありません。私たちはしっかりこの人生を生きればいいのです。
そしてしっかりと死ねばいい。そうあきらめるのが仏教の死生観です。
ただし、ここでいう「あきらめ」は「断念」ではなく、「明らめること」です。「生死」は思うがままになるものではないことをしっかりと見極めることが「明らめ」です。
生死のすがたは、そのまま仏の御いのちのすがたなのです。
このことを踏まえてチンパンジーの事例を見ると興味深いことがいくつか見えてきます。
"Chimpanzee mothers at Bossou, Guinea carry the mummified remains of their dead infants"
by Biro, D., Humle, T., Koops, K., Sousa, C., Hayashi, M., and Matsuzawa, T.西アフリカのギニアにあるボッソウ村周辺では、30年以上にわたって野生チンパンジーの調査が継続されている。村に近接した山にすむボッソウのチンパンジーの群れは、世界遺産のニンバ山からサバンナで隔てられ、20人前後という少数のメンバーで構成されてきた。本論文は、ボッソウの小さな群れで観察された、子どもの死に対するチンパンジーの母親の行動について、3つの事例を報告している。
1992年、2歳半の子ども(ジョクロ)が呼吸器系の病気で死亡した。数週間で死体は完全にミイラ化し、母親のジレは27日以上も子どもの死体を持ち運んだ。
2003年末の乾季には、ボッソウで呼吸器系の伝染病が流行した。5人のチンパンジーが死亡して、群れのメンバーは19人から14人に激減した。死亡したチンパンジーの中には、1歳のジマトと、2歳半のベベという2人の子どもが含まれていた。母親のジレとブアブアは、それぞれ68日と19日にわたって死んだ子どもの体を運びつづけた。3例とも母親は、つねに子どもの体を持ち運び、子どもの毛づくろいをし、体にたかるハエを追い払った。ハエを追うのに道具を使った例も2回観察された。このような母親の行動は、地面の上に放置した場合では数日内におこるであろう死体の腐乱を防ぎ、ミイラ化を促進した可能性がある。
群れの他のメンバーは年齢や性別に関係なく全員が、子どもの死体に触ったり、手足を持ち上げたり、においをかいだりという行動をみせた。日数がたつと、母親から離れた場所まで、子どもや若いチンパンジーが遊びの中で死体を持ち運ぶようにもなった(下記動画)。動画内の1例をのぞいて、死体への忌避的な行動は観察されなかった。特に死亡後数日は強い腐敗臭がただよい、見かけも生きているときとはまったく違ってしまうにもかかわらず、群れの他のメンバーは攻撃的な行動もせず、非常に寛容だった。
<中略>母親のジレやブアブアは、どこまで子どもが死んだことを「理解」していたのだろう。特に死亡直後では、死体がまだ生きた子どもであるかのように毛づくろいをする行動がみられた。だが、体がもう動かないということも母親は十分にわかっていたようだ。子どもの手足をつかんで引きずるように運んだり、肩と首の間に子どもの手足をはさんで背中にのせて運んだりという、子どもが生きているときには観察されなかった行動がみられた。ボッソウで子どもが死亡した3事例すべてで、母親が子どもの死体を運びつづけたということは、この行動がボッソウの群れの中では稀なものではなく、観察学習などで受け継がれている可能性もある。
(論文より一部抜粋。下線はkameno付記)
チンパンジーの母親が、子どもが生きているか、死んでいるのか、それを理解できていないということは無いようです。
人間に最も近いとされるチンパンジーが死についてどのように理解しているのか(本当のところは当のチンパンジーのみぞ知るといったところでしょうが)を解明することは、私たちの生死観、弔いの成り立ちを考察する上で重要な基礎資料となることでしょう。
最近は、都市部を中心に「葬儀を行なわずに死後直接火葬をしておしまい」とする直葬が増えているようです。さらには、遺骨を引き取ることなく産業廃棄物として処理されてしまう事例も少なくないそうです。
けれども「弔い」の儀式、葬儀だけはきちんと営んだほうはよい、いや、営むべきであるとつくづく思うのです。
昨日の朝日新聞一面トップ記事に次のようなものがありました
博物館-閉館の波 財政難 戦後初の減少
戦後増え続けてきた日本の博物館の数は自治体が設置を争った結果実に4千以上を数え、満足に展示すらできない館も出てきています。
このような日本の文化政策の貧困さ、そしてこの領域で起きている変化・きしみを追った記事です。
例えば熊本県天草市の市立「新和歴史民俗史料館」は、入り口はシャッターが下りたまま。
昨年度の入館者はなんとゼロだったそうです。
館内にはカビ臭さが漂い、市民から寄託された古文書や民俗史料など約3千点が無造作に置かれている状態です。
青森では、博物館の閉館で収蔵品が行き場を失っています。
旧清掃工場の管理棟の倉庫に「地蔵」「馬のくら」「絵馬」「柱時計」「石みたいなやつ」などと書かれた段ポールが放置されているのです。
今年度予算で廃校となった旧小学校を改築して「史料館」とするための設計費は計上できるかもしれない、けれども、管理運営の面から目処が立たないのです。
地方財政の悪化も博物館運営に影響を及ぼしています。
滋賀県では「絹本著色六道絵」などの国宝18点、重要文化財197点を収蔵・保管する琵琶湖文化館ですら廃止が決まりました。
地域に眠る「草の根」の文化財も7695点収容されており、国宝も含め収蔵品の行く先は決まっていないとのことです。
さらに追い討ちをかけたのが10年以上かけて行われた平成の大合併です。
合併した市町村のそれぞれが歴史系の博物館や史料館を持っていたるため、同様の博物館を複数抱えることとなります。
隣接地域であるがゆえに展示内容が似ており、統合や閉館の対象となりやすいのです。
同様のことは、横浜市でも起こっています。
先のブログ記事で、中学校の歴史史料が棄てられてしまった事例をご紹介いたしました。
地区ごとに保存展示されてきた史料は、横浜市に集約され、そこに1点ありさえすれば良い。市としては2点以上は収蔵しなくて良い、という考えがあるのであれば、地区毎の史料は蔑ろにされてしまうということになります。
これとは逆の好事例として新潟県上越市の「上越市総合博物館」が紹介されています。
上越市は05年に、旧上越市と13町村が合併して生まれた市です。
結果、4つの歴史民俗史料館が市総合博物館の所管となりました。
特に農具などのは似たようなものが大量に収蔵されています。「唐箕(とうみ)」だけで22台。民具だけで総数1万点以上。
そこで同博物館では07年から8年計画でこれらを再整理、データベース化を行ないました。
上越市総合博物館で07年に開催された企画展「頚城のくらし・米づくりの道具たち」
市内各地区の唐箕がずらりと並んだ。(朝日新聞2010/4/18より引用)
その成果の一つとして、「唐箕」を使われた地区ごとの共通性や細かな作りの違いなどから地区ごとの様々な生活文化を浮き彫りにできるようになり、企画展まで行なわれるようになりました。
「民俗史料について『どこにでもあるものだ』という人がいるが、捨てれば、昔の暮らしを語る史料は失われてしまう」
(同博物館・主任学芸員のことば)
まさにそのとおりだと思います。
元々、「史料を集め,建物を用意して展示すればそれでいい」という安易考えで造られた博物館であれば、その継続は難しくなります。
必要なことは、設置の際にどこまで館の社会的機能を吟味できるかということです。
一番の問題点は「資料館の学芸員育成を強化しなかったことによる資料館の形骸化」でしょう。
史料を集めただけでは資料館として機能しません。
学校設置の資料館であれば、授業の中で積極的に使っていったり地元住民と協働で行わなければ史料を生かすことはできません。
「立派なハコなんかなくても,熱心で優秀な学芸員が一人いるだけで博物館は大きく変わる」
(文化庁美術学芸課長のことば)
このことばが全てを結論付けているといえるでしょう。
熱心で優秀な学芸員、教員、担当者が、「一時的」ではなく「継続的」に配置される、そのような施策を取る必要がありそうです。
■関連ブログ記事
最終校正校了でご紹介した2つの本が発行されました。
どちらの本も、「街の歴史の再発見と次代への継承」を実践して、学校や寺社、市民が持っている写真を収集し、デジタルアーカイブ化して共有財産とすることの価値や、それを元に地域の人たちのつながりを広げる取組みの一貫となっています。
デジタルアーカイブの持つ価値とそれを活用した取組みについては こちらもご参照ください。
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『こうなんの歴史アルバム』
港南区誕生に至る歴史秘話 (明治・大正・昭和・平成)
変形A4版 96ペ-ジ 定価¥1000(予約価格 ¥900)
3月末発行予定
編集・発行 港南歴史協議会
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『未来につなぐ子どもの遊びヒアリング集』
~ここで遊んだ,笑った,おこられた~
A4版 36ペ-ジ 無償配布
3月末発行予定
編集・発行
港南の絵本をつくろう会/横浜市港南区区政推進課
この2冊の本が、一昨日、昨日と丁度同じ時期にそれぞれメディアで取り上げられました。
港南区の歴史たどる写真集発刊、郷土史愛好家らが1枚ずつデジタル化/横浜
(神奈川新聞・カナロコ 2010/4/16)

昔遊びのヒアリング集が完成・区民16人が取材に協力
(タウンニュース港南区版 2010/4/15)

また、来月はそれぞれの本を元にした「座談会」「お披露目会」が開催されます。
活字、写真をもとに、直接その場面に直面した方々と、世代、時代を越えた交流を行なえるような会合となると思います。
どちらも人数に限りがありますし、すぐに定員枠いっぱいになってしまうことが予想されます。
ご希望の方はお早めにお申込みください。
■「こうなんの昔を語る」座談会
5月29日午後2時より港南図書館にて
※どなたでも参加いただけます
○ 定員:50名( 往復はがきによる申し込み抽選制 :4月30日〆切)
宛先:港南図書館(〒234-0056 港南区野庭町125)
■「未来につなぐ子どもの遊びお披露目会と紙芝居会」
5月23日午後1時30分より 金井幼稚園ホールにて
※昔の遊びをお話を頂いた方、取材メンバー、関連団体、幼稚園児童、保護者を対象とします
○問合せ先・港南の絵本をつくろう会
(横浜市港南区港南台4-17-22港南台タウンカフェ内)
TEL 045-832-3855 FAX 045-832-3864
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む
原文: 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
(大伯皇女 巻2-165)
これは大伯皇女が、亡き弟、大津皇子に思いを馳せて詠んだ歌です。
明日からは、あの二上山を弟と思って眺ることにしよう・・・・大伯皇女の思いがひしひしと伝わってきます。
古来から、お彼岸の真西に沈む夕日の向こうはに西方浄土があるという信仰が生じたことも自然のことであったのでしょう。
舞台となった二上山に沈む本日の夕日をカシミールで作成してみました。
お彼岸の中日には、大和高田市から見ると、ちょうど二上山雄岳、雌岳の間に落日します。
この美しい光景は、万葉の時代から現代まで変わることなく「うつそみ」(此の世)と彼岸の世界を結ぶ光景として捉えられてきました。
五木寛之さんは、二上山を「生の世界と死の世界をわける結界」と表現しました。
「二上山のかなたに沈む夕日をながめれば、きっと理屈でない浄土がわかるだろう」『親鸞』(五木寛之著)
信仰は理屈ではありません。
彼岸(ひがん)は、、現世=比岸(しがん)に対し、向こう岸という意味です。
苦悩と煩悩から離れ、寂静の世界である彼岸は、西方浄土(西方のはるか彼方)にあると考えられました。
このことから、太陽が真西に沈む春分と秋分の日には、現世と極楽浄土が最も近くなるとされたと考えられます。
お彼岸はご先祖様のいらっしゃる世界と交流ができる期間とされ、先祖供養する習わしとして定着しました。
曹洞宗では極楽浄土という考えは用いませんが、お彼岸にお墓参りをする習慣は、この思想に基づいているといえます。
今日はお彼岸の中日。
お墓参りをされるかたも多いと思います。
日本に伝わるお彼岸の伝統を感じながら、ご先祖様、亡き方に思いを馳せながらお参りいただければと存じます。
春分の日の今日、教区2か寺の彼岸会法要に随喜させていただきました。
その帰路、舞岡公園でダイヤモンド富士を眺めることができました。(ジャストタイミング!)
昼間は吹き荒れた強風のため黄砂で空が霞んでおりましたが、夕方には嘘のように晴れ上がり、富士山のシルエットがクッキリと写しだされました。
![]()
2010/3/21 17:41 横浜薬科大図書館棟(旧ドリームランド・エンパイアホテル)が見えます
死亡:8万3793人 、負傷者:4万918人、被災者:100万8005人、被災家屋:26万8358という膨大な被害をもたらしたアメリカ軍B-29による無差別空襲、東京大空襲の日を迎えます。
東京大空襲は9日の夜から10日にかけて継続的に行なわれました。

3月10日(水)の11時、13時、15時からそれぞれ20分づつ、戦災資料センター2階会議室で八木健一・ゆみ子夫妻によるハープとシンセサイザーによる演奏があります。
今年もまたあの日が巡ってきました。
私の父は東京下町が一夜にして焦土と化した昭和20年3月9日の夜、家族四人と東京深川区で東京大空襲を罹災し、四人の肉親を失いました。
父は生前空襲については、黙して何も語りませんでしたが、毎年3月10日には決って東京大空襲戦災資料センターを訪れていました。
今から思うと、肉親の命日にこの地を訪れるのが父にとっての墓参りだったのでしょう。
・・・・(中略)・・・
かねてより準備しておりましたCDもやっと完成しましたが、鎮魂と平和を願って3月10日に北砂の戦災資料センター2階の会議室で演奏させていただくことになりました。当日は、その場に集われた皆さんが、少しでも安らかな気持ちになれるように、心を込めて演奏したいと思っています。
(八木健一・ゆみ子)
犠牲となった多くの方々に対し心より哀悼の意を表します。
■追記
讀賣新聞で演奏会の様子が報道されました。
東京大空襲、肉親失った父への思いハープに東京大空襲から65年となる10日、約10万人に上るとされる犠牲者の追悼行事が都内各地で開かれ、江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」では、4人の肉親を失った父の思いを継ごうと、ハープ奏者の八木健一さん(53)(神奈川県藤沢市)が、鎮魂と平和への願いを込めたオリジナル曲を演奏した。
八木さんの父、康二さんは江東区内で大空襲に遭い、逃げる途中で、はぐれた母と弟2人は行方不明になり、5歳の弟も康二さんの背中で息絶えた。康二さんは、この時のことを多くを語らないまま2006年3月に死去したが、遺品からは大空襲の様子を記した便せんが見つかった。
八木さんは、「修羅地獄」「恐怖のどん底」などと書かれた言葉に父の無念さを感じ、妻とともに大空襲をテーマにした「寒い夜に」「祈り・光へ(鎮魂)」の2曲を作曲。この日は、「被災者が少なくなる中、空襲の悲惨さを音楽で次世代に伝えたい」という思いで演奏した。
2人の姉の追悼に訪れた和歌山市の家崎満大さん(82)は「一番上の姉の遺体が見つからず、ずっと心につかえていた。演奏を聴いて少し気が楽になりました」と涙を流していた。
(2010年3月10日 読売新聞)
■関連ブログ記事
観音様胎内での演奏会
東京大空襲の日に
大施餓鬼法要・演奏会報告
檀家のOさんより永谷川氾濫の写真をいただきました。
場所は中永谷交差点。
撮影日時は1982(昭和57)年9月12日、昼前。
台風18号のもたらした集中豪雨により、丸山方面から流れ込んだ雨水が馬洗橋付近の護岸を崩し、永谷川が堰止められた形となり溢れた水が県道を覆いました。
上永谷駅の開業は昭和51年、これに前後して丸山の山々が造成され降雨はそのまま流出するようになり、丸山台の各所に遊水地が造られたものの、このような出水は毎年のように起こっていた記憶があります。
この後、環状2号線が整備され、永谷川は道路上下線の真中に拡張移設されたため、このような洪水ほとんど起こらなくなりました。
永谷川は戦前からも度々氾濫を起こしていました。
川沿いにお住まいの駄菓子屋さんから永谷川にまつわる聞き取りをした際に、下記のようなお話をいただきました。
私が子どものころ(昭和10年代)、永野小学校にはプールが無かったので、永谷川で泳いだ。
柳橋に堰があったため、貞昌院から柳橋に掛けて泳げるほどの幅と深さがあって、魚もかなりいた。
今の永野幼稚園のあたりには水車もあった。
下流の堰は、一年に一度、川底の泥を流すため開けたので、その時は特に魚を捕るチャンス。
川にはハヤ、フナ、カニ、ヤツメウナギ、ドジョウなどがいて、とにかくたくさん捕れた。
みんな網なんか持って居なかったので、ざるを持っていって夢中で捕った。
川の周囲には蓮池もあったりして、蛍もたくさんいた。昔は家にサッシもクーラーもないので夜は開けっ放し。家の中に蛍がよく舞い込んできた。
カブトムシとかクワガタは、何処にでもいるので、わざわざ捕りにいった覚えは無い。木を見ればいっぱい居たから。
その永谷川は大雨が降るたびに溢れたので、そのたびに畳を上げて水害に備えた。
このころから、昭和50年代にかけて永谷川は毎年のように溢れていたのです。
以前、ブログ記事で昭和初期上永谷の絵地図(『天神さまと上永谷』・発行・永谷天満宮氏子会・平成元年3月17日発行に掲載)を御紹介したことがあります。
現在は白鷺や翡翠も飛来する穏やかな川になりました。

これらは港南区内のある中学校の歴史史料室に保存展示されていた(過去形)地域文化財の写真です。
(港南歴史協議会により撮影されたものです)
パイスケ、竹駕籠、石臼、壷、枡などの民具や、ジェラ-ド瓦の鋳型、その他ここには写っていませんが筵編機、縄撚り機なども展示されていました。
しかし、校舎改修工事のため、資料館が無くなることとなりました。
本来ならば市で予算化して近くの別の場所へ移転するべきでしょうが、財政難のためそれも叶わないという市側の回答により、それではその史料をどのようにするのかを歴史協議会で検討していました。
今月15日には歴史協議会の皆さんが史料室へ行き、展示物を選別し、何処に保存するべきかを具体的に決める作業を進めていました。
もしも受け入れ先が見つからなかった場合、貞昌院でも一時的にでも保管することも具体的に考えていたところです。
・・・・ところが、そんな矢先、何時の間にかその史料が粗大ゴミとして処理されてしまっていたことが判りました。
冒頭の写真の展示物はゴミとなってしまい、もう有りません。
横浜市、区役所と学校の連携が図られていれば、そして学校側の郷土文化財への理解と対応がもう少しあれば、このような扱いにはならなかったはずで、その点が残念です。
さらに残念なことは、地域文化財を粗大ゴミのコンテナに詰める作業を、学校が生徒に行なわせたらしいといういこと。
これでは郷土愛を育む地域の歴史教育の観点から大きくマイナスとなりますし、文化財の大切さを教えるということからも逆行してしまいます。
地域文化財への理解と大切さを伝えるために、さらなる啓蒙活動が必要になりそうです。
追記
ジェラ-ド瓦の鋳型だけは、間一髪事前に別の場所に移すことができたため無事だったようです。
それがせめてもの救いでした。

■さらに追記
タウンニュース港南区版(2010/3/18)に掲載されました
学習環境整備の犠牲に 歴史資料を廃棄 笹下中は苦渋の決断
笹下中学校(小新(こしん)幸康校長)の郷土資料室に保管されていた古民具の一部が2月19日、来年度から普通教室に転用することを受けて廃棄された。これらは地域から寄贈されたものだが、教室数が限られるなかで学習環境の整備を優先した学校の決断だった。一部の歴史研究団体は懸念を表明するが、歴史資料の管理は学校に一任されている現状も浮き彫りとなった。
同中ではこれまで、通常の学級では学習困難な生徒を保健室で受け入れてきた。しかし、本来の使用目的とは異なることや、生徒の安定した生活の確保という観点から、専用の教室が必要と判断。郷土資料室を「特別支援教育」の教室として転用することを決めた。
これに先立って同中は、農機具など約80点の歴史資料の元所有者で、連絡先の分かる人に了解を得た。さらに近隣の町内会長にも相談し、処理については学校が判断することが決まった。その上で、同様の資料室を持つ区内の小学校に呼びかけ、歴史資料の一部が3校に引き取られた。しかし、引き取り手の見つからなかったものは、教室移転の日程上、学校がリミットに定めた2月19日に廃棄された。この際、資料室から運び出す作業を学校は生徒に手伝わせたという。同様の資料室があるのは横浜市内でも一部の市立小中学校に限られる。その歴史資料は学校周辺地域から提供されたものが多く、郷土史を知る上で貴重な財産である一方、保存に注意を要する。しかし、市が管理に関するガイドライン等を定めることはなく、学校に任されているのが現状だ。
小新校長は「地域のご好意があって完成した資料室。残したい気持ちは当然あった」と話す。しかし次年度以降は生徒数増加が見込まれ、「更に3つの教室を新設しなければならない状況」と、郷土資料室の継続は困難であった現実を明かす。同中の郷土資料室に展示されていた石臼、枡、筵(むしろ)織り機など古民具や農機具は約80点。これは、かつて農村地帯だった笹下地域の宅地開発が進んでいたことから昭和50年ごろ、農村文化を後世に伝えようと当時社会科の教諭だった馬場久雄さんが中心となり地域から収集したものだという。
現在は、区の郷土史を調べて地域に発信する活動を行う港南歴史協議会で会長を務める馬場さんは、「生徒の学ぶ環境を整えることは大切だが、郷土文化を守る点では大きなマイナス」と残念がる。また、他の会員は生徒が廃棄作業に携わったことについて、「文化財を大切にするという点で配慮に欠けている」と指摘する。
馬場さんは、「区に歴史資料を一括で管理する施設があれば別の結果になったかもしれない」とし、「地道な活動を通じて多くの人に郷土史への理解を深めてもらい、保存に対する意識を高めたい」と話していた。
鶴見大学附属中学高等学校に祀られている観音様があります。
今日の記事はこの「モロカイ観音」にまつわるお話です。
■モロカイ島カラウパパについて
モロカイ観音の「モロカイ」とは、ハワイ八島の1島のことで、オアフ島の東にあります。
18世紀に後半にキャプテン・クックがハワイ群島を発見し、サンドウィッチ群島と名づけるまでは、近世的文明に接することのないのんびりした島だったことでしょう。
以来、西欧人、そして東洋人たちがこの島に移住しました。
文明と共に様々なものをもたらし、不幸な事に、その中にハンセン病(当時はらい病と表現していた)が含まれており、瞬く間に蔓延してしまいます。
政府は、モロカイ島北部にあるカラウパパ地区が下の地図にみられるように断崖絶壁に囲まれた陸の孤島となっていることに眼をつけ、1865年に「ハンセン病蔓延予防法」を制定し患者の隔離政策を取ります。
当時、ハンセン病は感染したら最後、決して治ることのない恐ろしい病気であると考えられていたのです。1866年、最初の船で12人が沖に降ろされたのを最初に、約100年後にようやくハワイ州法が廃止されるまでの間に8000人もの人々がこの地に送られました。
一度この施設に入ったものは、再び社会に戻ることは決して許されることなく、ただただ死を待つのみの日送りでした。
医療施設もありましたが決して充分ではなく、また満足な物資の供給もされませんでした。
当時の患者は人間としての希望を失い、社会を呪い、法律を呪い、あらゆる道徳や宗教を否定したといいます。
聖職者の中には、彼らを救うことを試みカラウパパに赴いたものも少なからずありました。
しかし、聖職者たちはそっぽを向かれたのみならず、あらゆる手段で侮辱され罵倒され、撃退されてしまいます。
信仰が根付くことはありませんでした。
■ダミアン神父の生涯
そのような中、ベルギー出身のダミアン神父(1840-1889)は、カラウパパの不幸を知ると、真っ先にその地への赴任を希望します。
何人もの聖職者が退散してしまう状況を目の当たりにしてきた長老たちの中には、彼の志願を冷ややかに却けたり、絶対に無理だからと説得させようとする者もおりましたが、情熱がそれに勝ったのでしょう。
1873年、彼は1つの十字架と1冊の聖書のみを身につけ、単身カラウパパの地に渡りました。
カラウパパの人々から筆舌を絶する冷遇を受けたのは言うまでもないでしょう。
しかし、ダミアン神父はただ黙々と祈り、ただ黙々と奉仕の仕事をする日を送りました。
病人を尋ね、皮膚の膿を吸い出したり、薬を塗ったり、包帯の交換をしたり・・・・それに加えて生活のための水汲み、薪割り、家屋の修理、畑の手伝いなど一つひとつの仕事を淡々とこなしていきました。死者が出れば棺桶をつくり、埋葬をしました。
そのような月日が十数年経過したとき、ダミアン神父自身もハンセン病を発症してしまったことに気づきます。
この発症は、ある意味不幸なことであったかもしれませんが、カラウパパの施設に暮らす人たちとの心の垣根を払拭するきっかけにもなりました。
ダミアン神父はこれまで以上に真摯に聖職者としての道を突き進みました。
1889年、ついにダミアン神父は49歳の生涯を閉じます。遺体は彼が初めてカラウパパに赴いた際に野宿していた木の下に葬られました。
その間、ダミアン神父の行いはハワイのみならず全世界に知れ渡ることとなり、施設の改良や救援物資はこれまで以上に届くようになりました。
何よりも、隔離されていたハンセン病患者たちが人間らしさや、信仰を取り戻すきっかけとなった下地がダミアン神父により築かれたということは言うまでもありません。
■モロカイ観音の機縁
1929(昭和4)年、鶴見大学附属中学高等学校(当時は鶴見高等女学校)の2代校長・三沢智雄師が、ダミアン神父の伝記を読み感激し、ぜひとも墓参をしたいという思いでモロカイ島を訪れました。
当時モロカイ島には曹洞宗の海外寺院として弘誓寺がありました。
弘誓寺の住職、大内素俊老師は日本人入植者への布教の合間に月何回か、断崖の道なき道を通ってカラウパパへ通っておりました。
上の地形図のとおり、断崖絶壁を下ってカラウパパに通うことは並大抵のことではなかったことが判ります。当然、空港など当時はありません。
恐ろしい伝染病とされていた隔離施設でありましたから、そのような物理的にも精神的にも距離のある場所へ定期的に通われていた大内老師の菩薩行には頭の下がる思いがします。
また、ダミアン神父の下地があったからこそ、仏教者も受け入れられたということも見逃してはなりません。
三沢校長は大内老師を通して病院長に療養施設を案内いただき、ダミアン神父の墓参も無事成し遂げることができました。
この施設には当時50名の日本人もおり、しばしの交流の場を持つことができました。
再び踏むことができない祖国の地の情報はどれだけ彼らに希望を与えたことでしょう。
別れの際に、患者たちから新築したばかりの日本人クラブの建物に安置する観音像を是非斡旋して欲しいと切望されます。
「私にふさわしいお手伝いだから、喜んでお引き受けします」と三沢校長は約束し、同胞たちに別れを告げました。
■観音像カウアイ島へ渡る
三沢校長帰国後、カラウパパに観音像を贈るという話に多くの人々が賛同し、大乗女子青年会(卒業生たちが組織している仏教団体)が中心となり、「絶海の孤島で観音さまの光を求める同胞たちのために」と募金を呼びかけました。
観音像の仏師として、吉祥寺の岩本老師そして大円寺の服部老師を通して高村光雲の弟子山本瑞雲先生が紹介されました。
山本瑞雲先生はいきさつを聞くと大変喜び、また大乗女子青年会の運動に感激し、「この彼岸には観音経を写したり、朝夕何巻読んだか知れない。その功徳だろうか、このような尊い仕事を持ってきてくれて感激に堪えない。お金の心配をしているようだが、そんな心配はいりませんよ。制作費も材料費も要らない・・・・」と、直ぐ制作にとりかかる約束をされました。
まもなく観音像が完成し、中根初代校長導師により開眼供養が厳修されました。
観音像は浅間丸によりハワイに運ばれ、モロカイ島へ渡ったのでした。
施設に暮らす日系人たちはどれだけ喜んだことでしょう。どれだけ精神的支柱となり救いをもたらしたことでしょう。
■ダミアン神父祖国へ
ダミアン神父の遺体は前述のように当初カラウパパ・カラワイの木の下に埋葬されておりましたが、1930 年代になり、神父を「ベルギーの英雄」として祖国へという世論がベルギーで高まり、1936 年に棺が掘り出されアメリカ海軍からベルギー海軍へと引き継がれ故郷へ戻りました。
ベルギー国旗に覆われた柩がホノルル港を出る時にはアメリカ海軍は礼砲をもって送り、ベルギーに着いた時は、国王レオポルド13世が親しく出迎え、国葬をもって遇せられたそうです。
現在、ダミアン神父は故郷のルーヴェンに葬られています。
(本当はカラウパパの地で静かに眠っていたかったんじゃないかと少し思ったりします)
■モロカイ観音は日本へ
モロカイ弘誓寺からハンセン病施設への訪問は第3代西澤宏山老師、第4代森田宏悦老師の代になっても続けられており、弘誓寺を通して鶴見から渡ったモロカイ観音が変わりなく施設の中で信仰の対象となっている様子が日本に伝わっていきました。
この後、太平洋戦争の時代を迎えてしまいますが、観音像は絶海の孤島にあったこともあり、戦中戦後を通して施設の友となり、変らぬ微笑を湛え続けたことは奇跡とも言えるかもしれません。
・・・時代は下り、ハワイ州法が廃止され役割を終えたモロカイ観音は、1997(平成9)年、鶴見大学附属中学高等学校に戻され安置されることとなりました。
モロカイに渡ってから大戦を経て実に60年近くが経過しています。
カラウパパの地において多くの日系人ハンセン病患者のこころの支えとなったモロカイ観音は、日本に帰ってきてからも様々なことを私たちに教えてくださっています。
(追記)
日本のハンセン病施設は、このハワイ型の隔離政策の方式を導入しました。
そのために、数多くのハンセン病患者は強制的に施設に収容され、施設外に出ることが許されず一生を終えるという非人道的なことが行なわれました。
歴史的に差別・偏見の対象となった病気であり、かつての日本のハンセン病政策においても大きな問題が残されています。
SOTO禅インターナショナル会報38号、39号、40号に関連記事 ハワイ発「モロカイ島カラウパパ半島訪問記(1)(2)(3)が掲載されています。
補足ハンセン病とは、1873年にノルウェーのハンセンが発見したらい菌によって、主に皮膚や抹消神経が侵される感染症の一つである。この菌の毒力はごく弱く、感染しても発病することはきわめてまれであり、1943年のプロミンに始まる化学療法の効果によって、確実に治癒するようになった。現在では、いくつかの薬剤を組み合わせた多剤併用療法(Multidrug therapy,略してMDT)が広く行われている。
化学療法がなかったころは、この病気は、らいあるいはらい病といわれ、不治の病と考えられていた一方、顔面や手足などの後遺症がときには目立つことから、恐ろしい伝染病のように受けとめられてきた。そのために、わが国はらい予防法によって、すべての患者を終生療養所に隔離するという厳しい対策をとった。現存する療養所には、国立13ヶ所、私立2カ所の計15ヶ所があり、入所者は5,500名(1995年末現在)ほどである。そのほとんどは、すでに軽快治癒しているが、老齢(1995年末の平均年齢は71歳)である上に、後遺症による重い身体障害を合併するとか、あるいは長期間社会から隔離されていたなどして、復帰の可能性は絶無といってよい。
世界のハンセン病は、発展途上国においてなお数百万人ともいわれるが、わが国に限っては年間に10名以下しか発生していない。このように、わが国からハンセン病患者が激減したのは、患者の隔離が効を奏したというよりも、社会の生活環境や個人の栄養状態などが著しく向上した結果である。ゆえに、隔離を決めた「らい予防法」は、まったく無用な法律として1996年4月に廃止された。
これからのハンセン病は、一般の医療機関において治癒されることになり、ふつうの病気として扱われる。それでも、古くからのハンセン病に対する誤った考え(偏見)が、社会からまったく消えたわけではない。正しい知識を早急に広める必要がある。
(『全療協ニュース』1996年より引用)
貞昌院のウェブサイトでは、ライブカメラ画像を2000年8月より配信しております。
もう10年にもなります。
システムの概略は、自宅サーバーに接続したusbカメラから送信されてくる画像を定期的に蓄積する事により、リアルタイムの画像と、過去の画像を自由に閲覧する事ができるようにしているというものです。
それが、ここ数日多少気まぐれな挙動を見せるようになりました。
まるで、某イラストレーターのような画風です。
画像処理でポスタリゼーションをかけたような感じですが、単なる画像信号の劣化でしょう。
このカメラは、いわゆるトイカメラと呼ばれるものを簡単な雨よけをつけているとはいえ、野ざらしで(無謀!)設置しています。
10年間健気に画像を送ってくださったカメラが最近生み出す気まぐれ画像は、かえって人間くさささえ感じます。
何かのメッセージを含んでいるのかもしれませんね。
ということで、ライブカメラ画像は時々このようになりますが、暖かく見守ってあげてくださいませ。
追記
一度取り外して、分解掃除をし、USB端子とともにピカピカに磨き上げてみました。
結果、何事も無かったかのように復活。
さすが メイド・イン・ジャパン!
運用10年超えも、何だかイケそうな気がする~♪
今はこのような質素で頑丈なカメラって無いんですよね~
■関連ブログ記事
阪神大震災発生から15年目を迎えました。
犠牲となられた6434人の方に心より哀悼の意を捧げます。
震災の記憶を失うことなく、その原点を確認し、今後の震災対策を充分に行なうことが大切でしょう。
日本のみならず、世界各地でも毎年のように大震災が発生しています。
何時何処で発生しても不思議ではありません。
先日大地震に見舞われた中米・ハイチではようやく各国の救援活動が本格化し始めました。
日本からの医療チームもまもなく現地入りするそうです。
しかし首都直下を襲った地震により建物、交通インフラに大きな被害が出たため、救援活動は難航しています。
治安悪化も大きな問題です。
犠牲となられた方には弔意を表します。被災された方々には一日も早い復興を願い、救援活動が効果的に進みますことを祈念いたします。
日本を振り返ると、防災関連の予算が大幅に削減されつつあるということが懸念されます。
その一例として公立学校の耐震工事予算では、中国・四川大地震の際に小中学校で大きな被害が出たことから、文部科学省は2008年に各自治体に学校の耐震診断結果の公表を義務化し、耐震への補助金の割合を引き上げていました。学校施設の耐震化率は2009年4月現在で67%。これから工事が必要な学校施設は実に約2万5000棟にも上ります。
しかし、昨年、政権交代が行なわれ、2010年度に着工予定であった公立小中学校5000棟の耐震化工事関連予算が大幅に削減されてしまいました。
とても残念なことです。
公立小中学校など2800棟、耐震化工事先送り 来年度 高校無償化で予算削減大地震で倒壊の恐れがあるとして、全国の自治体が来年度中に着工予定だった公立小中学校など約5000棟の耐震化工事について、文部科学省の関連予算が約63%削減されたことがわかった。
2800棟に相当する規模という。学校の耐震化は国が最大3分の2を補助してきたが、鳩山政権が掲げた「高校授業料の実質無償化」で約3933億円の予算が必要となり、しわ寄せを受ける形になった。
(2009年12月28日 読売新聞)
小中学校の耐震化工事は、子どもたちの安全を守ると同時に、地域の防災拠点の確保としても重要な意味があります。
是非、現政権にはこのような予算の割振りの根本的な考えを見直していただきたいものです。
各市町村には学校や公園などに一時避難場所、広域避難場所、避難所が定められています。
一時避難場所は一時的に集合する場所、広域避難場所は地域住民の避難場所。避難所は、家を失ったり、二次災害の恐れのある人々が一時的に避難・宿泊する施設です。
ところが、殿避難場所は地域住民全員分の容量があるわけでなく、阪神大震災では、応急の避難所となった学校などに収容できたのは、被災者の僅か12%程度であったといいます。
残りの9割弱は電気、水道、ガス、電話のインフラがストップした自宅内や車、公園、グラウンドで生活をしなければなりませんでした。
問題となるのは大災害時の避難場所の収容能力です。
どの市町村も概ね十数%程度しかないのです。
従って、各自宅での対策が最低限必要となりますし、そして公立小中学校の建物は避難所として重要な役割を果たします。
同様に、公共の避難所以外にも寺社のような場所が果たすべき役割も大きいともいえます。
阪神淡路大震災から12年の記事中で、阪神・淡路大震災ボランティア緊急救援活動の軌跡として、いかに寺院、僧侶が緊急救援活動にかかわったかをまとめています。
このように神社・仏閣は歴史的・文化財的な価値が高いだけでなく、被災時には地域の拠点として避難所の役割も期待されます。
それゆえ、社寺建築の地震対策が急がれます。
公立学校の耐震対策が国や市町村の重要な事業であるならば、寺社の耐震対策は寺院、神社の重要な事業であります。
しかしながら、寺社の建築物には耐震に対する配慮が必要とはいえ、なかなか簡単には行きません。
既存建築物に免震工法を後から付加するにしても、現在の建築物を一度持ち上げるなど大掛かりとなり、費用の面でも莫大な資金が必要となります。
これまでの事例から、倒壊した寺社のうち、瓦葺、古い木造構造の建物が多いということが判りました。
寺社は屋根重量が構造に対して過剰に大きいという木造伝統工法の顕著な例であるため、揺れによる被害をまともに受けやすいのです。
耐震対策の際の構造計算も困難です。
木造住宅の耐震検討に適用される「壁量規定」、すなわち筋交、耐震用合板などを建物の規定割合以上に設置するということが必要となるわけですが、寺院、特に本堂では規定量の壁を設けることが難しいことがあります。
そこで、近年は構造計算自体を、構造それぞれの変形能力、地震エネルギーの吸収能力を評価し、最大変形がどの程度なのかを評価する「限界耐力計算」による評価が行なわれるようになってきました。
その中で、限られた予算の中で効果的な耐震工事はどうあるべきかを建築物ごとに評価し、対処療法的に行なっていくことが現実的で最も効果的な対策であるかと思います。
地震災害に強い構造物があって初めて地域の防災拠点となりうるということであり、併せて定期的に防災訓練を行い、日常から災害時の対策を整える ということが大切なことといえましょう。
阪神・淡路大震災ボランティア緊急救援活動の軌跡よろずかわら版縮刷版 (SVA(曹洞宗国際ボランティア会=当時)神戸事務所)
阪神・淡路大震災フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阪神・淡路大震災に関するデータベース
新聞、テレビなどでは今年の総括として「十大ニュース」などがまとめられています。
それぞれの分野、視点から今年に起こった様々なできごと10個ピックアップして並べられているのを見るに付け、今年も様々なことがあったことを実感いたします。
そこで、折角毎日ブログ記事を書いていますので、この一年のブログ記事から、十大ニュース風にピックアップしてみました。
| できごと | 関連ブログ記事 | ||
| 1 | 正力松太郎賞受賞(ゆめ観音実行委員会) | 記事1 記事2 | 10年間のゆめ観音活動が認められての受賞です |
| 2 | 貞昌院の植樹行動が横浜市長表彰を受賞 | 記事 | 皇太子殿下ご臨席の元での授賞式でした |
| 3 | 関東ICT推進NPO連絡協議会記念フォーラム | 記事1 記事2 | デジタルアーカイブの大切さを改めて認識したフォーラムでした |
| 4 | モンゴルへ植林支援(SZI) | 記事1 記事2 | 近くて遠い国モンゴル。学びの多い旅行でした |
| 5 | シルクロードの響きコンサート | 記事1 記事2 | ステージを作り上げるという貴重な経験をさせていただきました |
| 6 | ダイヤモンド富士の写真が新聞掲載 | 記事 | 幻想的な日の入りの光景は忘れられません |
| 7 | 貞昌院にゲル構築・平和の火採火合宿 | 記事1 記事2 | 平和を願い平和の火のご縁で多くの仲間が集まりました |
| 8 | 歴史カフェ・サイエンスカフェ | 記事1 記事2他 | 今年も多くの学びとつながりが広がりました |
| 9 | 国際坐禅会・映画「禅」上映会・foodex Japan | 記事1 記事2 | [ZEN]は世界共通のキーワードとなっています |
| 10 | ゲストハウス、浅草にオープン | 記事 | 外国の方が日本で暮らしやすい場を |
個人的にもお寺にも様々なことがあった一年でした。
多くの方々と共に行なった事業もあります。
ここに挙げきれなかったものも含め一つ一つが大切な思い出であり、学びでもありました。
これをバネに来年に繋げていきたいと思います。
今年一年間お世話になりました皆さまに心より感謝申し上げます。
来年も宜しくお願い致します。
合掌
旧来から伝えられる「○○十訓」の中に「処世十訓」というものがあります。
原典はよくわかりませんが、明治時代以降に流布したものではないでしょうか。
調べてみると、様々なパターンがあることが判ります。
よく見られるものはだいたい次のようなものです。
処世十訓
・強く正しく にこやかに
(強く正しく 健やかに)
・ 上見て進め 下見て暮らせ
・ 真剣の前に不能なし
・ 論で負けても行で勝て
・ 長所と交われば悪友なし
・ 話上手より聞き上手
・ 己に克つて人には譲れ
・ 急ぐな休むな怠るな
(安心するな心配するな)
・ 向上の一路に終点なし
・ 仲よく働け 笑って暮せ
この「処世十訓」は、先代(貞昌院29世)徳翁寛量大和尚が書に好んで用いたものでもあります。
永野小学校の校長を永く勤めておりましたので、訓示として児童たちにも示していたのではないかと推測します。
また、境内の客殿玄関前にはこの「処世十訓」を刻んだ石碑が置かれています。
徳翁寛量大和尚による「処世十訓」は次の通りです。
「處世十訓」
一、強く、正しく、美しく
ニ、上見て進め、下見て暮らせ
三、真剣の前に不能なし
四、話上手より聞き上手
五、論で負けても行で勝て
六、健康こそ最高の幸福
七、己に克て、人には譲れ
八、急ぐな休むな怠るな
九、向上の一路に終点なし
十、仲よく働け、笑って暮らせ
徳峯寛量大和尚が遷化されたのが昭和58年12月27日。
本日忍光忌法要が営まれます。
先代住職を偲ぶものとして、80歳の時に揮毫された「處世十訓」を、地元の捺染工場にお願いして布地にプリントしていただきました。
港南区には、昭和初期より大岡川沿いに地場産業として捺染が栄えました。
一時期は川に布を晒す光景があちこちに見られたようです。
現在まで残っている捺染工場は数少なくなりましたが、技術を伝承する貴重な工場として何時までも存続して欲しいものです。
11月22日の朝日新聞に南米ペルー慈恩寺の記事が掲載されていました。
まず最初に慈恩寺のアウトラインを。
慈恩寺は、ペルーの首都であり最大の都市、リマから南へ約150キロも離れた海岸沿いに位置します。当時の日本からは、ほとんどこの地に入植したのです。
1903年、曹洞宗僧侶 上野泰庵師が管長辞令で渡航。1907年、カニエテ郡サンタバルバラに南漸寺を建立、翌年、両大本山貫首によって慈恩寺と改称されました。
慈恩寺は、1925年、同郡内サン・ルイス町へ移転。1974年の地震で倒壊し、1977年に現在地へ移転という歴史を辿ります。
しばらく無住状態が続いていましたが、最近国際布教師として大城慈仙師が着任されました。
⇒SOTO禅インターナショナル海外寺院ガイドを参照
朝日新聞の見出しは、~位牌3千置き去り
/「南米最古」ペルーの慈恩寺 日系移民、出稼ぎ・改宗の末~ という眼を引くものとなっています。
記事の中には曹洞宗の「曹」の字も出てきませんし、何よりも「位牌置き去り」という印象付けばかりをしている内容となっています。
けれども、本当に「置き去り」なのでしょうか。
慈恩寺の納骨堂・位牌堂は、永代供養墓のような位置づけだとすれば、家族・親族は供養していただくことを願って慈恩寺に預け、可能な限り参拝もされているのではないでしょうか。
慈恩寺について書かれた南アメリカ発の新聞記事を並べて比較してみます。
同じ事象を扱っているはずなのに新聞によってこうも違うものなのかと改めて考えさせられます。
フィルターを通して書かれた記事を鵜呑みにしてしまうと正しい認識を妨げてしまいます。
ここではどちらの記事が正しいかという判断はいたしませんが、
多方面からの情報をあつめ、真の姿を読み取っていくことか大切だと感じます。
| 位牌3千置き去り 「南米最古」ペルーの慈恩寺 日系移民、出稼ぎ・改宗の末
ペルーに、南米最古とされる仏教寺院『慈恩寺』がある。 |
『移民の聖地』泰平山慈恩寺 創建101周年南米最古の仏教寺 ペルー、絶えない法要会や参拝者 南米第二の日系人口を有するペルーにおいて、「移民の聖地」と呼ばれる場所がある。首都リマから南へ下ることおよそ140キロ、ナスカの地上絵へ向かう途中にあるカニエテ郡の『泰平山慈恩寺』がそれだ。同寺にはペルー日本移民らの位牌約2千500柱が祀ってあるほか、ペルー全土の日本人墓地から集められた土が合祀されている。ブラジル移民よりも歴史が古く、今年創立101年目を迎えた南米最古の仏教寺に足を運んでみた。 -------------------------- 移民2千500柱を祀る / 管理に尽力のグスクマ氏(カニエテ日系教会) -------------------------- 急速に近代化が進む800万都市リマとは打って変わり、カニエテ郡はトウモロコシ畑が広がるのどかな農村地帯だ。この地に1899年からはじまるペルー移民たちの多くが配耕された。カサブランカ耕地には慰霊塔が建つ日本人墓地もある。 中心部のサンビセンテ地区では、キャディラックやダットサンなどの古い自動車がボロロロと音を捲くし立てながら今なお現役で走り、ロバやヤギを連れたインディオが路肩を歩いていた。 慈恩寺は同区のパンアメリカン・ハイウェイ沿いにあった。この地は農村といえど砂漠地帯なので一般の建物は箱型をしているが、同寺にはしっかりと屋根が付いていた。木造ではなくコンクリートの寺だが門構えは風格もある。 17年にもわたり同寺を管理しているカニエテ日系協会のグスクマ・ミゲルさん(60、ニ世)の案内で本堂に通されると、そこには三体の仏像が置かれ、周囲に無数の位牌が所狭しと並べられていた。地下には納骨堂も設けてあった。 堂内に掛けられている慈恩寺創立百周年の記念プレートに寺史が記されていた。それによると同寺は1907年、曹洞宗の僧・上野泰庵がカニエテ郡サンタバルバラ耕地に建立したとある。その後、二度の転移を経て 77年に現在地に至った。 グスクマ氏の説明によると「寺籍は曹洞宗でしたが、現在は無住なので浄土真宗本派本願寺などからも僧侶がやってきます」という。祀られている位牌も各宗派のものが混合しており限定されていなかった。 同寺はペルー日系人協会、日系企業、慈恩寺有志の会などが経費を負担している。彼岸、盆には法要が営まれ、リマ市から多くの遺族が訪れるという。「その時季にはリマ市から日本人学校の生徒たちが訪れ、先祖に焼香して手を掌わせます。これがペルー日系社会の慣わしなんですよ」と誇らしげに話していた。 二世以降はカトリックが多いため、家庭内の世代交代が進むと、それまで家の仏壇にあった一世の位牌を同寺に納めに来る日系人が後を絶たない。また、日本へと出稼ぎに行った家庭の位牌もたくさん納められている。 「日本から訪れる親族が位牌を持ち帰るケースもありますが、年間に三十から五十の位牌がここに持ち込まれるので、位牌は増えていく一方です。もう納めきれませんよ」と苦笑いするグスクマ氏。来年には寺の横に位牌安置所を新設するのだという。 ここには約二千五百柱が祀られているが、以前は位牌が虫に食われ、文字も風化するなど長い間、誰のものかわからない状態が続いていた。 それら位牌を 97年から 01年まで一つずつ調査・整理し、リストにまとめたのがペルー新報元日本語編集長の太田宏人氏だった。 「太田さんのように外部からの支援者がいるので、無住でも心強い。この寺がいかに大切なものなのか、日系社会の人たちはみな理解してくれてます」とグスクマ氏。慈恩寺は世代宗教を問わず、日系人がいる限り『移民の聖地』として存在し続けることだろう。 (サンパウロ新聞 2008/9/5) |
今日の記事はゆめ観音実行副委員長としての立場で書いてみます。
まずはブログの文章を引用させていただきます。
★ 歴史の改竄を許すな / 地の声歴史の改竄を許すな
「神奈川県鎌倉市の大船観音寺(横山敏明住職)で五日、第十一回ゆめ観音アジアフェスティバルが開催された。大船観音寺とSOTO禅インターナショナル(SZI、細川正善会長)などでつくる、ゆめ観音実行委員会の主催でアジアの平和と国際親善を祈るイベントとして毎年企画されている。‥観音像前のステージで行われた開会式では、SZIの細川会長が、世界平和を祈って昭和四年に建立された同観音像の歴史に触れながら『仏の教えの慈悲の原点に立ち返り、平和共存の実現に努めてまいりたい』との平和宣言をした。‥」(9.8『中外日報』)
同観音は、観音思想の普及により「国民思想を中道の妙理に導き平和の礎を築かんと」※、浜地八郎や頭山満ら有志が護国観音像建立会を組織し、昭和四年に着工されたものである。ここで言う「平和」とは、大アジア主義者頭山満の参画と護国観音の名が示すように、あくまでも日本を中心とした「平和」であることに留意する必要がある。同観音は未完成のまま中断されていたが、戦後高階瓏仙が師である日置黙仙の遺志を継ぎ完成させた。
着工の前年昭和三年には、三・一五共産党大弾圧事件があった。混沌とした世相のなかで、国家が思想弾圧をおこなった。この観音建立も反共的色彩の濃いものであった。「中共の革命を真似た間違った革命の激流を、観音の大慈心によって食い止めねばならぬ」と前掲書で久野来応は述べている。
昭和二十九年には高階瓏仙らが発起人となって財団法人「大船観音協会」が発足。この頃十五年戦争の犠牲者二百有余万を「英霊」として祀っている。
即ち、大船観音は侵略戦争を美化するものであって決して「世界平和」を祈るものではないのである。真実を知り、侵略者の「英霊」を拝まされていたことに気付いたアジアの人達の心中を想像するだに恐ろしい。そのことを大船観音はどう説明しているのか。
もしも「英霊」問題を隠したまま、「アジアの平和と国際親善を祈るイベント」を行っているとしたら、侵略戦争で犠牲となった1700万人ものアジアの人達を二度殺すことになるのではないか。SZIの細川会長の、かかる歴史改竄と本質隠蔽は極めて重大であると言わねばならない。※久野来応『大船観音と高階禅師』(『高階瓏仙禅師伝』p.360)
曹洞宗「人権・平和・環境」(旧「曹洞宗に現場の声を届けよう」)No.1049 2009/09/10(Thu) 17:51:32より記事を引用 (下線はkameno付記)
言論の自由が保障される時代ですからどのような主張をされるのは勝手ですが、実際に大船観音に参拝したこともなく、ましてやゆめ観音に参加したこともない者がこのよう記事を書き公開しているということはとても残念です。
このブログ記事の中で「地の声」氏の論点を纏めると次のようになるしょう。
(1)大船観音は日本を中心とした平和の礎を築くために建立された
(2)大船観音は反共的色彩の濃いものである
(3)大船観音は靖国神社から分祀した英霊を祀っている
(4)大船観音は侵略戦争を美化するものであり、世界平和を祈るものではない
(5)英霊問題を隠していることは侵略戦争で犠牲となった1700万人ものアジアの人を二度殺すことになる
(6)従ってSZI会長の歴史改竄と本質隠蔽は極めて重大である
まずは大船観音の歴史的背景をかいつまんでまとめてみます。
| 昭和2年 | この国を憂え、この国を護ろうとする金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦圭吾氏、浜地天松氏、花田半助氏らが集い、「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」と |
| 昭和4年 | 大船観音起工。 |
| 世界恐慌、大戦により工事は中断。 頭山満氏らも没し、花田氏らが絶対としてきた天皇主義が敗戦によって崩壊したこと等から、観音像建立への覇気は薄れ、 観音像は未完成のままの状態で23年間放置された。 |
|
| 昭和28年 | 朝鮮戦争による特需で、日本は一気に経済力を復興させ、高度成長の時代を迎え、観音像再建の動きが強まる。 |
| 昭和29年 | 財団法人「大船観音協会」が安藤正純氏、高階瓏仙禅師、五島慶太氏らが発起人となって発足。 画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏らに意見を求め、東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に、同大学教授で彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとに修仏工事が進められることとなる。 |
| 昭和32年 | 修仏工事起工 |
| 昭和35年 | 落慶 |
| 昭和45年 | 神奈川県原爆被災者の会において被爆25年の記念事業として原爆犠牲者慰霊碑建立。 |
| 昭和54年 | 「大船観音特別維持会 」により財団法人「大船観音協会」解散、宗教法人への移行を決定。 |
| 昭和56年 | 曹洞宗包括寺院「大船観音寺」として神奈川県より寺院としての認証を受ける。 |
「地の声」氏の主張されるとおり、大船観音建立当初は「護国大観音建立会」「世相浄化」という目途も含まれていたことも確かなはずです。
けれども、大船観音は完成に至らず、戦後しばらく工事半ばで放置されてしまいました。
工事中断を憂慮し、高階瓏仙可睡斉主(=当時)は次のような完成促進総願文を出しています。
昭和14年、日本各地に所謂日本軍を讃える「英霊」が奉祀されていく世の風潮の中で、日本人も中国人も平等に供養していくということを主眼として大船観音完成を願う高階禅師の願いが明記されています。
今般忠霊顕彰会の発起に依り皇軍の英霊は各地に奉祀されるることとなれり。然れども未だ支那軍戦死者の霊をも平等に供養する表式無し。依って本会は日支親善の情誼及び宗教的超越観地より怨親平等の大慈悲心に基づき皇軍幾萬の英霊と倶に同じく興亜戦線の犠牲たる支那軍の戦霊をも併せ祀りて平等利益の法楽を薦め離苦得楽の冥福を回向して<中略>目下大船駅頭に聳ゆる未完成なる大観音の完成を達成して興亜戦霊総供養の一大記念佛と為さんと欲す。
『大船観音完成促進総願文』(昭和14年10月 完成促進総願主 秋葉総本殿遠州可睡斉主 高階瓏仙)
「大船観世音菩薩の尊像を一日も速やかに完成し、名実ともに法煙たなびく霊場として、十方世界を慈照する大観音の運遠崇高無比な聖姿を仰ぎ、法悦と随喜の光がおのずから心の闇を照らし、国民道義を清浄無垢な真の姿に復元し、日本の興隆と世界の平和に不動の礎を築く一助と致し、また、さきの大戦に殉ぜられた二百有余万の英霊をこの尊像の胎内にお迎えして悠遠の生命が、この霊座に鎮座ましまし、法楽の供養をささげ奉ることを祈念いたし、大船観音尊像の完成を発願いたしました」
『大船観音再建募金趣意書』(発起人・鳩山内閣法務大臣牧野良三氏ほか)
これは勧募趣意書の文言です。
大船観音は修仏により、すべてが一新されることととなりました。
戦後「大船観音協会」設立により「護国大観音建立会」「世相浄化」という目的は消滅したこととなります。
以来、観音像は昭和54年まで財団法人「大船観音協会」の名によって運営されます。
大船観音は昭和35年に落慶しますが、その際に胎内にお迎えしたのは、靖国神社に祀られている「英霊」ではありません。
しいて言えば、境内に「鎌倉市戦没者の英霊を鎌倉観音胎内に祀る」(昭和35年 鎌倉市遺族会建立)とありますから、遺族会が戦没者を慰霊するために位牌と戦没者名簿を納めたということが大船観音再建趣意書の「英霊」にあたるといえるでしょう。
この場合の英霊は後述いたしますが、戦没者として供養されるものという意味合いであることは明白です。
実際、大船観音建立の年である昭和35年、大船観音協会時代の年中行事を見てみると
|
となっています。
現在の大船観音行事と殆ど変わっていません。
この中で戦没者追悼法要については現在も鎌倉市遺族会施主により鎌倉市行事として行なわれています。
昭和45年には原爆投下25年事業として神奈川県原爆被災者の会により原爆犠牲者慰霊碑建立され、毎年9月末に原爆死没者の関係者が集い、慰霊法要が行われています。
暫くの間は財団法人として運営されていましたが、観音像を参詣する信者らから「信仰の場への移行」という要望がさらに切なるものとなりました。
大船観音協会理事長に曹洞宗大本山總持寺貫首岩本禅師就任を機に財団法人「大船観音協会」はその解散と宗教法人への移行を決定します。
これが2つ目の重要なトピックスです。
つまり、曹洞宗としての大船観音の歴史は昭和56年から始まっています。
さて、「地の声」氏の主張される歴史改竄と本質隠蔽とは何をさしているのでしょうか。
大船観音の戦前の建立の経緯は歴史的事実として境内や大船観音胎内の説明板にも大きく書かれておりますし、どの参詣者の目にも触れるものであります。
鎌倉市戦没者を鎌倉観音胎内に祀るということも大きな石碑として境内にありますので特に隠蔽するものではありません。
また、これだけは明確化しておきますが、前述のとおり少なくとも大船観音が完成した昭和35年から現在まで大船観音には靖国神社の「英霊」は祀られておりません(それ以前も祀られていないはずです)。
表記方法はともかく「支那軍戦死者の霊をも平等に供養する」という高階瓏仙禅師の発願も、昭和14年の時代背景を考えれば特筆すべき考えです。
歴史的背景を踏まえた上で、昭和29年に「生まれ変わった」大船観音には、軍人も民間人も日本人もアジアの人たちも、そんな分け隔て無く慰霊し、平和を願う大船観音であること、
平時でも2~3割ものアジアからの篤い参詣があるということの意味を考えていただきたいものです。
そもそも、古来から神道の霊魂観に基づき、人が亡くなった後も霊魂は不滅であり、祀られて鎮まった御霊は祖霊となるという信仰がありました。
故人の生前の功績を称え、威徳を偲び、祖霊祭によりご先祖様を祀るという祖霊信仰では「英霊」という概念は存在しなかったはずです。
けれども、戦前の天皇を中心とする政治体制下では怨霊に対する御霊信仰が新造されてしまいます。
英霊とは顕彰される者であり、戦前戦中及び戦後まもなくは全国の寺院においても「天皇のために死んだ」という事実が顕彰されてきたことは確かでしょう。
しかしながら、戦後の天皇制度は改定され現人神を否定されることとなります。
この時点で英霊は死は鎮魂されるべきものとして他の戦没者と共に供養されるものとなったのではないかと考えます。
以上のことを踏まえ、大船観音ゆめ観音アジアフェスティバルでの平和宣言をご紹介します。
2000年に開催された第2回ゆめ観音の時に作らせていただき、毎年受継がれている宣言文です。
アジアの方々と共に、この宣言文を共有しています。
--------------------------------------------------------------------------------
平和を願う心・・・・・・ 19世紀から20世紀に入ってから私達は機械文明を手に入れ、生活が飛躍的に豊かになりました。 大船の丘から街を見下ろす、この白衣観音像は1929年、世界の恒久平和を祈願して建立されたものです。しかし、悲しいことに、その願いも空しく、日本は第二次世界大戦に突入してしまいます。戦争により、観音像も痛々しい姿になってしまいました。 アジア各国へ与えた数々の過ちを繰り返してはいけない。敗戦を経て今度こそ、観音菩薩の慈悲によって平和を祈願し、世界から戦争を無くすことを誓い、大船観音は現在の姿に再建されました。 このように、大船の白衣観音像は、日本のみならず全世界の平和を、また人々の平安を祈りながら、この地に鎮座なされてから40年経ちます。建立に携わった人々の熱い想いは、その後も多くの人々に受け継がれ、観音の境内には、「原爆の火」や「戦歿者慰霊碑」等、平和への祈りが込められたモニュメントが多く建立されました。 平和は、政治的、経済的、軍事上の契約だけによって保障されるものではありません。 平和は、私たちの行動、態度、日常の行為を通してのみ達成できます。平和の文化はすべての人が分かち合う、普遍的な文化であり、私たちに共通する人間性に不可欠なものであることを認識し、私たちはそれを行動に移していくことを誓います。 ゆめ観音実行委員会 |
ジャーナリスト藤田庄一氏は今年2009年のゆめ観音に参加され、次のような記事を書かれています。
「アジア各国へ与えた数々の過ちを繰り返してはいけない。敗戦を経て今度こそ、観音菩薩の慈悲によって平和を祈願し、世界から戦争を無くすことを誓い、大船観音は現在の姿に再建されたのです」
大船観音の淵源は1929(昭和4)年。「護国観音」として「世相浄化の一助」として造立が始まった。
しかし、日本は戦争に突入。
観音は造立途中のまま無残な姿を晒し続けた。
現在の姿が落慶したのは1960(昭和35)年。
平和と戦没兵士慰霊の観音としてであった。
1970(昭和45)年には原爆慰霊碑が序幕された。
ゆめ観音アジアフェスティバルの底流の精神は、歴史の反省と平和への希求だった。
「仏教タイムス」2009年10月8日号より
むしろ、昭和29年に再建され、昭和54年に曹洞宗包括寺院となった大船観音寺を、曹洞宗のみならず、寺院の持つ歴史的事実を客観的に捉え、曹洞宗の掲げる「平和」のスローガンを推進する事例として進めていきたいと考えています。
ゆめ観音アジアフェスティバルは、大船観音寺だからこそ、大船観音寺でなければ開催できない催しなのです。
追記
この記事を「地の声」氏は早速読んで記事にしてくださったようです。
読んでくださったことに感謝いたします。
論理的な論議ができる余地があるとさらに良かったのですが・・・
とはいえ、このような視点からのものの見方ができるのかということを教えていただいたこと、改めて大船観音の成立経緯を改めて検証するきっかけとなり、高階禅師の民族を超え平等に供養する発願に触れることができたことに感謝いたします。
『般若心経』は、わずか300字足らずの短いお経ですが、その中に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、国内外に広く伝わっています。
曹洞宗でも日課経典として重んじられております。
最も親しみやすいお経の一つではないでしょうか。
その読経法は宗派、国、地方によって様々です。
まずは曹洞宗はどのようにお読みするかを下記のページでご紹介しておりますのでご参照ください。
⇒http://www.teishoin.net/sound/sound.html
読経のリードをするのが維那(いの)という配役の僧侶です。
曹洞宗の場合は、例えば永平寺や總持寺などの大本山では百数十人もの僧侶が読経する場合でもキーを合わせることは行ないません。
それぞれの僧侶がそれぞれのキーで読経しますから、それぞれがカオス的に広がって独特の雰囲気を醸し出します。
では、他の国・地域ではどのように読経しているのかをYoutubeからピックアップしてみました。
アーチストによるアレンジもリストに加えてあります。
同じ経文でも実に様々ですね。
唸誦 - 般若波羅蜜多心經
般若波羅蜜多心經 齊豫
般若波羅密多心咒 - 梵音
心经-王菲 (Heart Sutra)
반야심경
반야심경
Prajna-paramita Hrdaya Sutram
般若波羅蜜多心經
Buddhist Chant - Heart Sutra (Sanskrit) by Imee Ooi
お経のカラオケDVD。般若心経ドットコム
http://www.youtube.com/watch?v=fpIZtVnLO7Q
ゴスペル風「般若心経」つのだ☆ひろ
Heart Sutra Chanting
Buddhist Chant - Heart Sutra (Japanese) Hannya Shingyo
厚生労働省国立精神・神経センターによると、毎年全世界で約100万人が自殺により死亡しているとされます。
日本においては、1997年までおおむね2万人程度だった自殺者が、1998年には3万2863人と急増しています。
この年の急増の背景にはいわゆる金融危機があり、経済的理由が大きな要因となったとされています。
以降これまで自殺者数が年間3万人を下回ったことがありません。
ここで、注目すべき提言があります。
WHO「自殺予防に関する特別専門家会議」における Lars Mehlum氏(WHO精神保健薬物乱用部)の
(1)自殺の原因は個人や社会に内在する多くの複雑な原因によって引き起こされる
(2)自殺は予防できる
(3)自殺手段の入手が自殺の最大の危険因子で、自殺を決定づけるものである
(1)については、個々を取り巻く一つひとつの要因について精査し、それらを取り除いていかなければなりません。根本的な問題である反面、時間がかかることだと思います。
しかし、(2)、(3)については今すぐ具体的に取り組むことができるものです。
まずは(3)について考えてみます。
■コピペが人を殺す……硫化水素の発生法を知った自殺者が続出筆者の記憶では、今年に入ってまもなくのことだ。「練炭自殺に代わる、新しい自殺方法が開発されました」との書き出しのテキストが、2ちゃんねるのあちこちのスレッドにコピペされるようになった。(中略)ありふれた日用品を「狭い密閉区間でただ混ぜるだけ!」と、フレンドリーなアスキーアート混じりで指示しているテキストだ。自殺する気がなければ、見て見ぬふりができる内容かもしれない。
でも、人生に絶望して、「いつか死のう」「そろそろ死のう」などの考えが頭にこびりついている人が見れば、実行してみたくなってもおかしくはない。「MSN産経ニュース」によれば、今年に入ってからこの方法で命を落とした人は9人にも上るという。コピペが人を殺している。猛毒の気体だから、家族が巻き添えになるケースもあるようだ。このテキストをトップにしたスレッドが、「誤爆」といいつつ、為替取引の話題を扱う「市況実況2」にも立っていた。市況2は、大損したらしい人が「死のう」と書き込むケースがあとを絶たない掲示板だ。
(インプレス インターネットウオッチ)
ここ数年多く見られる報道に、自殺そのものではなく、その方法を詳細に伝えるマスメディアが続出しました。
単に危険性を訴えるだけならともかく、興味本位に取り上げることも多く目に余る状況でした。
また、それに伴い、インターネット上に「練炭」「硫化水素」など多くのワードで丁寧に自殺の方法について多数の情報が流されていました。
少なくとも昨年辺りまでは「硫化水素 自殺」で検索をかけることにより容易にその自殺手段が入手することが可能でした。
その後、プロバイダなどによる情報規制があったのでしょう。
不適切とされる情報は次々と削除されていき、また検索エンジン側もそのような情報にアプローチできないような対策が講じられたようです。
しかし、このような情報統制や検索エンジンの操作は本来好ましいものではありません。
ネット規制は、情報発信の自由を奪う可能性をも持つという諸刃の剣となるからです。
そこで考え出された一法が、SEO(Search Engine Optimization)の仕組みを利用した、いわゆる「木を森に隠す」というものです。
これは、例えば検索エンジンから、硫化水素の作り方を検索しにくくするために
・表題を「硫化水素の作り方 」とする。
・そのページには硫化水素の作り方を書かず、自殺志願者に対するメッセージを書くなどする。
・関連サイトにそれぞれリンクを張ったり、トラックバックを打ったりする。
このようにする運動が広まった結果、現在、検索エンジンで「硫化水素の作り方」を検索する と次のようになります。
思いがけず、というより思惑通り私のブログ記事が一位にランクされるようになりました。
そういえば、検索ワードとして、このワードで辿りつく方がいかに多かったことか。
SEOは、検索エンジンの検索結果で、いかにより上位に現れるようにするかという対策・技術のことをいいますが、検索者にアプローチさせたくない情報が上位にこないようにする「逆SEO」対策も時には必要になると考えています。
次に(2)について。
僧侶の一人として何ができるかということを考えるに、まずは「話を聞くこと」なのだろうと思います。
「仏教情報センター」のテレフォン相談の基本的理念もそういうところにあるのだと思います。
悩んでいる方は、抱えている悩みをぶつける場所を探しているのかもしれません。
身近にそのような方がいらっしゃる方はまだ救われるほうでしょう。
多くの方は悩みをどこに向けたらよいのか判らないとしたら・・・・
そんな時、仏教情報センターのテレフォン相談は、あなたの悩みを全て取り除くことは出来ないかもしれません。
しかし、電話をかけてあなたの今の気持ちを話してみませんか?
お名前を言う必要はありません。
相談員も名前を名乗りません。
プライバシーは守られますので安心して電話してください。
テレフォン相談では、研修を受けた僧侶が一人ひとりとていねいに話をするように心がけています。
電話がつながるまでに時間がかかる場合もありますが、どうぞあきらめないでください。
私たちは少しでも良き話し相手になろうと考えています。
仏教情報センターでは、昭和58年の仏教テレフォン相談開設以来、仏事・信仰・人生に関わる悩みや疑問の電話が毎日寄せられています。
どうぞお気軽におかけ下さい。各宗派の僧侶がお応えしています。
電話でなくても、面接相談、手紙相談も随時受け付けております。
・・・・・・・・
先の「硫化水素の作り方」の記事でのコメントの中で、本当に悩んでいる人は電話などすらもかけることが出来ないというものがありました。
まさにその通りだと思います。
上から目線はもってのほかですね。共に悩みを共有できるようにならなければ。
そして、電話やメールを待っているだけでなく、悩みを抱えている方にアプローチするためにはどのようにするべきか。
さらに、個人や社会に内在する多くの複雑な原因とどう向き合うか。
真剣に考えなければならないことはたくさんあります。
悩みは増えるばかりで、なかなか減っていかないものですね。
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横浜開港150周年事業として、横浜の歴史を記録した写真を集め、活用を図る事業が一段落し、写真募集の受付を終了しました。
事業の節目にあたり、見えてきたもの、今後についての意見交換会が開催されました。
開催日:2009年9月29日
場所:ZAIM 交流サロン(横浜市中区)
期間中に提要のあった写真は実に5435枚に上ったことが報告されました。
これらの写真は、横浜市在住の方はもちろん、横浜に住んでいたことのある方、観光などで横浜を訪れた方からの写真提供を受け、上記サイトにアップロードされているものです。
横浜の歴史や文化、経済や産業振興、地域の発展、市民の生活文化など、横浜を語る「写真」を通して、魅力ある郷土の共有財産づくりに大いに貢献することとなった事業だと思います。
運営委員の皆様には心から敬意を表します。
シンポジウム終了後、ZAIM 4階にあるラボで開港当初の横浜港を精密に再現したジオラマを見せていただきました。
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このように立体的に再現されたものを目の当たりにすると、地図では得られない迫力を感じます。
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記念シンポジウム@ BankArt
みんなでつくる横濱写真アルバム
2年半ほど使ってきたPHS端末が大分傷んできました。
端子を塞ぐキャップはとっくに何処かに行ってしまい、本体もあちこち傷だらけです。
この間水没2回・・・しかし電源を抜いて水道水で洗浄し、一日乾かしてから電源を入れるという「荒技」により奇跡的に復活を繰り返してくれました。
愛着のある電話機です。
ところが、肝心の事業主体の経営状況の雲行きがどうやら怪しくなってきました。
事業再生ADR手続利用のお知らせ当社は、今後の事業再生と事業継続に向けた強固な収益基盤の確立および財務体質の抜本的な改善を図るため、今般、「産業活力再生特別措置法所定の特定認証紛争解決手続」(以下「事業再生ADR」といいます。)による事業再生をめざし、本日、事業再生実務家協会への事業再生ADRの手続を正式申請し、受理されました。
厳しい競争環境の中で、現行のPHS事業に加えて、高速モバイルデータ通信「WILLCOM CORE XGP」を展開していくに当たり、財務体質の抜本的な改善を機動的に推進していくことが不可欠だという判断から、事業再生ADRの正式申請をするに至りました。
現時点における事業再生計画案で金融機関各位に要請させていただく金融支援の内容は、一定期間、債権者さまに対し、借入金等債務の元本残高維持をお願いし、その後については、債権者さまに対する債務の弁済スケジュールの変更をお願いする予定としております。(債務の免除や、株式化(デット・エクイティ・スワップ)を要請することは現時点で想定しておりません。)
このたび事業再生を目指すにあたり、事業再生ADRを利用いたしますのは、これにより当社サービスの継続を確保することが出来るからです。したがいまして、当社サービスをご利用いただいておりますお客さま、また販売店さまやメーカーさまなどお取引先の皆さまに、当社の事業再生ADR利用申請による影響はございません。
当社は、事業再生ADRの利用により、不退転の決意を持って、抜本的な事業再生を図り、「WILLCOM CORE XGP」を含めて今後の事業を発展させていく所存でございます。
当社サービスご利用のお客さま、また関係者の皆さまにおかれましては、今後ともご支援、ご協力賜りますようお願い申し上げます。
プレスリリース (2009年9月24日)より
ウィルコムは1994年に「DDIポケット」として誕生しました。
持ち味の料金の安さとデータ通信の優位性も、最近は料金、データ通信の両面での優位性が相対的に失われてきたため、シェアを伸ばせない状況が続いておりました。
現在加入者数が450万人、2009年3月期の連結経常利益は66億円を計上していたそうですが、通信網整備負担が重くのしかかり、さらにWillcom COREなどの高速データ通信サービス(これは期待していたところなのですが)の設備投資にさらに1400億円の調達が必要となり、今回の事業再生ADR手続きによる経営再建となりました。
残念といえば残念ですが、これも時代の流れなのでしょうね。
PHSの優位性を明確にして、ユーザー本位の経営で事業を立て直していただくことを期待します。
PHSの利点といえば、安さ、高速通信という以前に、「マイクロセル」ということが挙げられます。
電話基地局が小規模で済むために電磁波による影響を最小限にとどめることができるということも強調すべきでしょう。
携帯電話基地局から発射される電波の野辺山45m電波望遠鏡に対する影響の評価
外来患者の呼び出しにPHS活用
災害対策に全国のPHS基地局を活用
などなど、PHSでしか行なうことができないこと、特徴を活かした利用方法もたくさん考えられます。
これだけのインフラを無くしてしまうことは社会的にも大きな損失だと考えます。
是非是非頑張っていただきたいものです。
冒頭の報道を受けて、オークションサイトでは、Willcomの端末が格安で多く出品されていました。
やはりユーザーは不安になるのでしょうね。
丁度よい機会ですので早速、手ごろな値段のものを落札。
SIMを入れ替えるだけで機種変更が可能なので楽ですね。
今後しばらくPHSの動向を見守りつつ、付き合っていきたいと思います。
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がんばれPHS!!-2
がんばれPHS!!
火は、
時には恨みを込められたものとなり、
人の命を奪うものとなり、
平和の象徴となり、
生きる力を与えるものとなり・・・
灯明の炎には、闇を除き、闇を明るく照らす除暗遍明という力があります。
仏様の智慧として私たち全ての迷いを除き、悟りに導くことにも喩えられます。
私たちは灯明より迷いなき真実の智慧を得ることの大切さを教えられます。
大船観音白衣観音像の前での灯火による千手観音。
このダンサーは妊娠8ヶ月。
満月の夜に観音様の前で表現された素敵ないのちのパフォーマンスでした。
今年のゆめ観音にももたくさんの火が灯りました。
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今年7月、国立劇場に大本山總持寺の大祖堂が再現され、「石原裕次郎二十三回忌祭典」が曹洞宗の僧侶120名による法要として大々的に営まれました。
そのキャッチコピーは
天国からのラストメッセージ「ありがとう」
でした。
そういえば、マスコミ報道では仏教による葬儀にも関らず「天国」という言葉が当たり前のように飛び交い、喪主の挨拶や参列者のお別れの言葉でも「天国から見守って・・・・」などの表現によく触れます。
私はこれまでこの表現に「引っかかり」を感じていました。
どのように説いていけば間違いに気がついてくれるのだろうか、と。
この状況を、関西学院教授でもあり、浄土真宗本願寺派の僧侶でもある大村英昭師は、次のように分析されています。
いまに我が国で使われる「天国」という用語には、もはやキリスト教的意味合いはまったく無いばかりか、仏教やキリスト教といった区別立てをも超えて、それこそ”宗教的無党派層”の心象風景に大変よくマッチした言葉になっているように思われます。
(コラム「死んだらみんな天国に行く日本って一体なんなの?」「我他彼此ニ仏中間」より一部引用)
まったくその通りだと思います。
目くじらを立てて、仏教では「天国」とは言わないのだよ、と指摘することは野暮なのかもしれません。
”宗教的無党派層”の立場に立って、やんわりと修正していくような心構えで居ればよいでしょうし、死後の世界観を仏教がどのように説いてきたかをきちんと伝えることができれば、自然に修正されていくことでしょう。
ところで、蛇足ですが、曹洞宗の通夜の法要でよく読まれる『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』で、「てんごく」という語が何度か出てきます。
お葬式に参列されて、もしかしたら耳にされた方もいらっしゃるかもしれません。
汝等(なんだち)比丘、諂曲(てんごく)の心は道と相違す。是の故に宜しく応に其の心を質直(しつじき)にすべし。当に知るべし、諂曲(てんごく)は但だ欺誑(ごおう)を為すことを。入道の人、則ち是の処無し。是の故に汝等、宜しく応に端心にして質直を以て本と為すべし。
ここで言う「てんごく」とは、諂曲=諂い(へつらい)、曲がった心のことです。
「天国」とは、まったく異なるものであるということは、経文を原文で見れば一目瞭然なのですが、耳で聞いただけではなかなか判らないはずです。
むしろ「てんごく」などという別の意味でなじみのあるワードばかりが心に残ってしまいがちです。
「瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろ)かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり・・・・」
「諂曲」の「てんごく」は、阿修羅の世界に渦巻く概念ということを念頭においておけばよいでしょう。
『仏遺教経』では、結びの部分で次のように説かれています。
汝等(なんだち)、若し苦等の四諦に於いて疑がうところ有る者は、疾(はや)く之を問うべし。疑を懐いて決を求めざる得ること無かれ。
・・・・疑問やわからないことがある者は、すみやかに、これをを問え。疑問を残して答えを求めないことの無いように。
もしも仏教の教えなどで、また、経文の中の言葉でも、判らないことがあったら、どんな些細なことでも身近に居る菩提寺の和尚さんにお尋ねになるとよろしいと存じます。
このトピックスで取り上げた「天国」についてでも、死んだ後はどうなるのか、でも。
故人は今、どこに居るのですか?でも。
先ほど読まれた通夜のお経の中で「てんごく」という言葉が出てきましたけれど、「てんごく」って何ですか?などなどでも良いでしょう。
きっと、そのような些細な疑問から仏教に関する様々な知識も併せて得られることでしょう。
そして仏教行事における「天国」という表現も徐々に修正されていくでしょう。
蛇足でした。
永野小学校は、明治10年に創立した野庭学校と、明治12年に創立した永谷学校が合併して、明治25年現在地に開校した伝統ある小学校です。
その創立のきっかけとなったのが、勝海舟の家臣であり明治初期の教育者でもある平野玉城氏でした。
氏が永野の地に訪れることとなったいきさつについてはこちらをご参照ください。
⇒http://teishoin.sakura.ne.jp/nagano/11.html
当時の村人たちは、平野氏のすぐれた人格、深遠な学識に目を見張り、当地に滞在するよう懇願しました。
平野氏もそれを快諾し、夫婦でこの地に留まることとなり、寺子屋の先生として四書五経などを講じました。
明治10年には、村民たちに推されて棲心庵学舎に第三級訓導として正式に教職に就かれると、さらに評判が評判を呼び、入学者が殺到します。
そこで、村人たちの寄進により現在の水田付近(港南区下永谷)に永谷学校が新築されました。
明治12年のことでした。
平野玉城氏が自らの手により作られた『修身』の教科書が国会図書館に保存されていました。
永谷学校でもこの教科書が使われていたと思われます。
「修身」は、現在の道徳に相当するものでありますが、大東亜戦争(太平洋戦争)以前は主に大日本帝国の臣民(国民)の育成を目的におこなわれたものであり、皇民化教育の一翼を担ったとされます。
皇民化教育にあたる箇所は問題としても、それ以外の部分は、現代においても学ぶべき事項は多いと思います。
当時は、学制の中で道徳教育が「修身科」として、小学で「修身」、中学で「修身学」が行われていました。
その中で、低学年での修身は、主に「修身口授」として先生の談義や口述によるものが行われるのが普通であり、教科書はほとんどが欧米の倫理書等の翻訳本であったため、児童には容易に理解できるものではなかったようです。

(当時広く使われていた『和漢修身訓』の例。明治15年・亀谷省軒著。国会図書館より)
たしかに児童には難しいですね。
そこで、平野玉城氏は、児童にも内容を判りやすくするために、日ごろの心構えなどを中心に平易な言葉に置き換えて教科書の副読書としてまとめたのでしょう。

(『和漢修身訓俗解』 明治17年・平野玉城編)
『和漢修身訓俗解』 巻1を、テキストに直してみました。
(原文ではわかりにくい箇所があるため、一部現代文に変えてあります)
例言
1.此書は小学教科書の一なる和漢修身訓を俗語に解し、原書の傍に置て参考に供え児童をして記誦に便ならしめんとするの本旨なれば、一々其全文を挙げず
1.本県の教則に遵て第六巻に止るものとす。而して巻一第三章より前後少しく俗解の体を更るものは詞答筆答の別あるを以てなり
1.解辤は主として俚言俗語を用いるにより往々妥当の義訓を失するもの多からん、幸に後日の訂正を俟つ
明治17年8月
編者誌
和漢修身訓俗解巻一
平野玉城編
巻一
第一章
○父母の恩は云々
チチハハノ、オカゲハ、ヤマヨリモ、タカク
○父母の恵ミ
チチハハノ、メグミハ、ウミヨリモ、フカイ
○深き恵みに
フカキメグミニ、コタへルニハ
○厚き心を
アツキココロヲ、ツクシナサイ
○父母の教は
チチハハノ、ヲシエハ、ソムイテハ、ナリマセン
○父母の誠ハ
チチハハノ、意見は、ソノトオリニ、ナサイ
○父母己を愛
チチハハガ、ジブンヲ、カワイガラバ、ウレシガリテ、ワスレルコトナク
○父母己を悪まば
チチハハガ、ジブンヲ、ニクムトキハ、アトヲキヲツケテ、ウラミテハ、ナリマセン
○父母の憂ふる
チチハハノ、シンパイナサルコトハ、トモニ、シンパイシイ
○父母の楽む
チチハハノ、タノシミナサルコトハ、トモニ、タノシミナサイ
○よく親に事る
ヨク、オヤニツカヘル、コレヲ、コウコウトイヒ
○よく兄二事る
ヨクアニ二ツカヘル、コレヲ、テイトイフ
○孝を尽せば
オヤニ、コウコウスルノハ、ニンゲンノミチ
○悌を致さば
アニニ、テイスルハ、セケンノオシエ
○孝悌ハ身を
ヨク、オヤアニニツカヘルハ、シュッセスルノ、モトデアリマス
○愛敬は孝を
イツクシムト、ウヤマフトハ、コウコウヲスルノ、モトデアリマス
○愛とは人を
アイトハ、ヒトヲカワイガリテ、ウトウトシクセヌコト
○敬とは人を
ケイトハ、ヒトヲ、ウヤマヒテ、ソマツニシナイコト
○父母愛せる
チチハハノ、カワイガルモノハ、ジブンモカワイガリ
○父母の敬する
チチハハノ、ウヤマフコトハ、ジブンモウヤマフ
○己より年長せる
ジブンヨリ、トシウヘノヒトハ、ミナウヤマフ
○己より年少き
ジブンヨリ、トシシタノモノハ、ノコラズカワイガル
○能く弟妹を
ヨク、オトウト、イモウトヲ、カワイガルノヲ、イウトイフ
○善く親族に
ヨク、シンルイニ、ツキアフノヲ、ムツマシミトイフ
○利をあらそへば
モウケヲ、ハリアヘバ、キョウダイモ、トホドホシクナリ
○利を貪らば
モウケヲ、ヨクバレバ、ミウチノヒトガ、カマヒマセン
○親戚背かば
ミウチデ、カマハヌトキハ、ソノイエ、ヨワリ
○兄妹和せざれば
キョウダイ、ナカヨクセネバ、オヤが、シンパイシマス第二章
○朝は父母に
アサハ、チチハハニ、サキニタッテ、オキ
○夜は父母に
ヨルハ、チチハハヨリ、アトカラネマス
○夙に父母の
アサハヤク、チチハハノ、ゴキゲンヲタヅネ
○常に父母の
フダン、チチハハノソバヅカヒニ、ナリナサイ
○父母召せとき
チチハハノ、ヨバルルトキハ、イソイデユキマス
○父母疾むとき
チチハハノ、ヤマヒアルトキハ、オソバニ、ツイテオリマス
○父母に事へ
チチハハニ、ツカヘテハ、カオイロヲ、ヤワラカニシ
○父母に対
チチハハニ、ムカヒテハ、コトバヲ、シヅカニシマス
○坐せるには
スワルニハ、タダシクナサイ
○行くには疾走
アルクニハ、、ハシリテハ、ナリマセン
○面は洗うべし
カオハ、アライナサイ、アカジミテハ、ミグルシクアリマス
○髪は櫛るべし
カミハ、ナデツケナサイ、ミダレテオルト、ミニククアリマス
○孝子は危きに
コウコウのコハ、アブナイトコロニ、ノボリマセン
○孝子は深きに
コウコウノコハ、フカキトコロニ、チカヨリマセン
○長幼の体ハ
オトナ、コドモノ、レイギハ、ナクシテハ、ナリマセン
○尊卑の分は
タットキ、イヤシキノ、ワカチハ、ミダシテハ、ナリマセン
○食せるときハ
ショクジヲ、スルトキハ、ハナシヲ、シマセン
○故なくして
ワケモ、ナキニ、トリケモノヲ、コロシマセン
○戯れに魚虫を
ナグサミニ、ウオヤ、ムシヲ、ソコナイマセン
○園裡に新花を
ニワノウチノ゙、アタラシキ、ハナヲ、オリテハ、ナリマセン
○籠中の飛禽を
カゴノナカニ、トブトリヲ、カフコトハ、ヨシニナサイ
○壁には字を
カベニハ、モジヲ、カキマセン
○席には墨を
シキモノハ、スミニテ、ヨゴシマセン
○炉辺に火を
イロリノ、ソバデ、ヒヲモテアソブコトハ、ヨシニナサイ
○途上に石を
ミチバタデ、イシヲ、ナゲルナ
○礼儀は習ふを
レイギニ、ナレタルヲ、ケダカキ、ヒトトシ
○礼儀に疎きを
レイギニ、ウトキモノヲ、イヤシイ、ヒトトシマス第三章
○養生は孝道の
カラダヲ、ダイジニスルハ、オヤニ、コウコウスルミチノ、ハジメナリ
○運動は健康の
カラダヲ、ウゴカスハ、ジョウブニスルノ、モトナリ
○過食は脾胃を
タベスギハ、ヒノゾウト、イノフヲ、ソコナヒ
○不潔ハ疾病を
キレイニセヌト、ヤマイヲ、オコス
○身体は数沐浴
カラダハ、タビタビ、チョウヅヲツカヒ、ユアミスベク
○住所は努めて
スマイハ、セイイッパイ、ハキキヨメスベシ
○酒は旨けれども
サケハ、ウマケレドモ、コドモニ、サワリアリ
○薬は苦けれども
クスリハ、ニガイケレドモ、ヤマヒニ、キキメアリ第四章
○言少ければ
コトバ、スクナケレバ、アチヤウホウ、スクナク
○言多ければ
コトバ、オオケレバ、ナンギ、オオシ
○問ふとあらば
トハレル、コトアラバ、ヘンジヲ、スベク
○問ふことなくば
トハレル、コトナクバ、ダマリテ、オルベシ
○人を笑へば
ヒトヲ、ワラヘバ、ヒトニ、ニクマレ
○人を諂へば
ヒトニ、ヘツラヘバ、ヒトニ、ワラハル
○人を罵れば
ヒトヲ、ワルクイヘバ、ソノヒト、ハラヲタテ
○人を譏れば
ヒトヲ、トガメテ、ワルクイヘバ、ソノヒト、ウラム
○人の悪事は
ヒトノ、アシキコトヲ、ハナスナ
○人の善行は
ヒトノ、ヨキオコナヒハ、ワルクイフナ第五章
○学ぶときは
ガクモンスルトキハ、トクアル、ヒトトナリ
○学ばざれば
ガクモン、セヌトキハ、トクナキ、ヒトトナル
○学ハ勉強を
ガクモンハ、セイヲダスニ、ヨリテススミ
○事は遊情に
コトハ、ナマケルニ、ヨリテ、シソコナフ
○学問は人の才智
ガクモンハ、ヒトノ、ハタラキ、チエヲ、フヤシ
○学問は人の名誉
ガクモンハ、ヒトノ、ヨキヒョウバンヲ、オコス
○学ばざれば瓦石と
ガクモンセネバ、カワラヤ、イシト、オナジコト
○教なければ
ヲシヘノ、ナキトキハ、トリケモノニ、ニテオル第六章
○良友は親む
ヨキ、トモダチハ、ナカヨクセヨ
○悪友は、遠ざく
アシキ、トモダチハ、チカヅケヌ、ヤウニセヨ
○禍は悪友より
フシアワセハ、アシキトモヨリ、デキ
○福は良友より
シアワセハ、ヨキトモダチヨリ、デキル
○信義は厚く
ギリスジハ、ダイジニ、マモレ
○契約は軽しく
ヤクソクゴトハ、デガルク、スルナ
○約を為しては
ヤクソクヲ、シテハ、カヘテハ、ナラヌ
○恩を受けては
メグミヲ、ウケテハ、ワスレテハ、ナラヌ
○人に施しては
ヒトニ、モノヲ、ヤリテハ、オシイト、オモウナ
○人を恵みては
ヒトヲ、メグミテハ、オンニ、カケルナ
○飢える者には
ヒモジキモノニハ、メシヲ、ヤリ
○渇たる者
カワキタル、モノニハ、ミズヲ、ヤル
○人の財は
ヒトノ、タカラハ、ウラヤマシク、オモフナ
○己の財は
ジブンノ、タカラハ、ムダニ、ツカフナ
○情りて侈れば
ナマケテ、ミエヲハレバ、ソノイエ、ビンボウニナリ
○勤めて倹約すれば
セイヲ、ダシテ、ケンヤクスレバ、ソノヒト、モノモチトナル

『和漢修身訓俗解』 巻1
ワカン シュウシンクン ゾッカイ
平野玉城編
出版 : 矢部町(神奈川県):聞天堂、明17年8月
形態 : 12丁;11×16cm
装丁 : 和装
7月から8月にかけて、毎日のように施食会法要のために廻りました。
施食会法要にはそれこそ近隣寺院より数十人の随喜があり、また参列者も読経されるため、堂内が読経の声で満たされます。
それに呼応する形で、境内のセミの声がひときわ大きく、まるで声量を競うが如く鳴き出します。
気づくことは、寺院ごとに鳴くセミの種類が微妙に異なることです。
例えば、貞昌院ではアブラゼミ、ミンミンゼミに加えて、クマゼミが多少混ざっています。
藤沢に近い寺院では、むしろクマゼミの方が主流だったり、大船駅に近い寺院では昼間からヒグラシが主役だったり。
植生の状態や街の中心にあるのかそうでないのかなど、様々な条件がそのようにさせているのでしょう。
また、クマゼミが多くなっていることもヒートアイランド現象の進行を私たちに伝えてくれています。
ところが、今日の新聞記事で興味深いものを見つけました。
アブラゼミしか鳴かない場所があるのです。
その理由とは・・・・
セミの音に残る「戦禍」 隅田公園、なぜか一種類のみ
64年前の東京大空襲で焼け野原となった東京都墨田区の隅田公園には、セミのなかではアブラゼミ1種類しか繁殖していないことが、東京大総合研究博物館の須田孫七・協力研究員(78)の5年にわたる調査で分かった。須田さんは、空襲でいったん地域のセミが全滅し、復興後も川と急速な宅地化により、アブラゼミ以外のセミが公園にたどり着けていない可能性があるとみている。隅田公園は、隅田川をはさんで墨田区側(約8万平方メートル)と、台東区側(約10万6千平方メートル)に分かれている。須田さんは5年前の8月、台東区側では、アブラゼミとミンミンゼミの音が半分ずつ聞こえ4種が確認できたのに、墨田区側ではほとんどがアブラゼミだと気づいた。墨田区側では、死骸(しがい)の羽もアブラゼミだけだったという。
須田さんは、東京学芸大を卒業後、中学校教諭などを務めながら東京都内の昆虫を調べ、専門書の執筆や観察会などを手がけている。現在は「東京の昆虫相の変遷史」をテーマに研究中だ。
隅田公園周辺は1945年3月10日の東京大空襲で、大きな被害を受けた。須田さんは当時、地元の友人の安否を確かめようと、空襲から3日後、徒歩で現地を訪れ、壊滅的な状況を目の当たりにしたという。
調査では、空襲関連の文献にも目を通し、改めて当時の被害や範囲も確認した。
須田さんは、(1)大空襲で地域の昆虫のほとんどが全滅。セミの幼虫も焼き尽くされた(2)復興後、他の昆虫の多くは植樹や河川敷を利用して木々にとりつくなど生態系を戻したが、木とその根元の地中をすみかとするセミは、雌雄ともに飛行距離が比較的長いアブラゼミが、焼け残った場所からたどり着くにとどまった――とみている。
台東区側では、西にある上野公園や東京大キャンパスなどから街路樹などを伝ってセミが繁殖範囲を広げたが、墨田区側は、隅田川と周囲の急速な宅地化で公園が隔離され、虫が移動できる道ができなかった可能性があるという。須田さんは「ミンミンゼミの雄が来ることもあるが、メスは行動範囲が狭く、命がつなげないのではないか」と話している。
圧倒的なアブラゼミの鳴き声に交じってミンミンゼミの声も時々、聞こえるが、わずか数匹。「戦争は生き物にとって壊滅的な環境変化。影響や復元に目を向けた研究も必要ではないか」と指摘する。
◇
■空襲との関係、詳しい調査必要昆虫に詳しい群馬県立ぐんま昆虫の森園長の矢島稔さんの話 ミンミンゼミはもともと東京の平地にはほとんどいなかったが、今はとても増えている。戦争から60年以上たって、限られた場所だけが聖地のように昔の姿を残しているのは非常に不思議な感じがする。もっと広い範囲でセミの分布を詳しく調べないと、空襲との関係は何ともいえないのではないか。
〈東京大空襲〉 45年3月10日、米軍のB29重爆撃機による焼夷(しょうい)弾攻撃で、東京・下町の墨田、江東、台東各区を中心に約40平方キロが焦土と化した。一夜で約10万人の命が失われたとされる。
(朝日新聞2009年8月13日夕刊)
なるほど、アブラゼミが戦禍の記憶を刻んでいるのですね。
その真偽を判断するためにはまだまだ検証するべきことも多いでしょうけれども、とても興味深い事実です。
セミは羽があるために行動範囲が広いと思っていましたが、アブラゼミ以外のセミが隅田川を越えることが困難なほど行動範囲が極めて限られるということも意外でした。
となれば、冒頭に書いたように、寺院ごとでセミの分布状況が異なるということも納得できます。
セミは様々なことを私たちに教えてくれるのですね。
■関連ブログ記事
8月には戦争に関連した番組が多く放映されていますが、今晩テレビをつけると見覚えのある光景が広がりました。
その場所はロサンゼルス・ボイルハイツにあるエバグリーン日系人墓地。
番組はエバグリーン日系人墓地のシーンから始まります。
すっかり見入ってしまいました。
『渡辺謙アメリカを行く 星条旗の下に生きたヒバクシャたち』(NHK総合)
冒頭のエバグリーン墓地には、一面芝生が植えられており、そこに整然と平板の墓石が整然と並んでいます。
そこに刻まれた出身地には広島県の文字が目立ちます。
明治から大正にかけて米国に渡った日本人移民には広島県出身者が多く、太平洋戦争が始まる前に家族と共に日本に一時帰国したものの中には米国により投下された原爆に被爆したものも少なからず居りました。
うち、戦後日系二世となる子どもたちのかなりの割合が戦後、生まれ故郷の米国に戻りました。
現在米国に居住する被爆者の数は1000人にものぼります。
なぜ、被爆しながら原爆を投下した国に帰ることを選択したのか、その理由を内面から探る番組でした。
番組の中で印象に残った詩がありました。
アメリカで生まれた22才の女性が、被爆者である祖母と広島を訪れた体験を元に書いた詩 "An Empty Urn" です。
原文は英語、それを番組中渡辺謙氏が日本語訳詩を朗読されていましたので、それを文字におこしてみました。
『空の骨壷』私は 日本語の文字で覆われた壁を見上げている
私は 泣いている
その何一つ読めないけれど
でも これらがみな 小学校の年齢で亡くなった原爆犠牲者の名前だと知って彼らは 想像を越えた痛みの中で死に至り
短すぎた命の最後の瞬間に 本当の地獄を目撃した彼らは 1945年8月6日 日本の広島で亡くなった
私の祖母の妹もその中の一人
私はどんな時でも 公の場所で泣くのを恥ずかしいと思ってきた
しかし ここでは余りにもたくさんの涙が流され 私の涙が気づかれることは無い私は最初に日本を旅したとき6歳だった
母 叔母 姉妹と私は広島の平和記念資料館に入った
なぜか祖母は外で待っていた幾つか部屋を過ぎると、まるで悪夢の世界に突き落とされたようになった
究極の痛みと苦しみの写真
人々の体には洋服の模様が焼きこまれ、その肌は蝋燭が流れたように融け、骨から滴っていた私たちは 泣いた
そして 私は思った
なぜ おばあちゃんは一緒に外で待たせなかったんだろう
なぜ わざと私にこのような苦痛を与え 意地悪をするのだろうとそれから数週間、私は悪夢にうなされ真夜中に眼を覚ました
私はその経験が人生において大きな変化をもたらしたと感じている怒りを許しみに
敵意を思いやりに
憎悪を愛へと
変えるように心がけている
いま 祖母は泣いている
私 姉 母も泣いている
公園中にいる何百人もの人が泣いているのだ
なくした兄弟 息子 母 父のことを思って泣いているのかもしれない
友人 近所の人 先生 同窓生のことを思って泣いているのかも知れないしかし もしかしたら 私のように
それは すべての人のために 泣いているのかも知れない
もう11年も前になりますが、1998年に研修旅行として訪問した際、エバグリーン日系人墓地の戦没者慰霊塔において皆で慰霊法要を営みました。
日本人の海外移民は、明治元(1868)年にハワイへの移民153名が、非合法ながら渡航したのが最初とされます。
その後、政府公認として、1885年のハワイ移民を皮切りに第二次世界大戦後暫くの間まで日本政府も積極的に関わって行われました。
しかし、米国への移民は多くの場合、開墾に二の足を踏む様な劣悪な場所が多く、まだ多くの面で差別を受ける事も多く筆舌にしがたい苦労を強いられることとなります。
⇒The History of Japanese Immigrants 日系移民の歴史
⇒米国日系移民史
さらに、
1906年 連邦政府、帰化法を改正。司法省、全裁判所に対し日本人の帰化申請を拒否するよう訓令を発布。
1907年 2月に施行された大統領令により、ハワイ、メキシコ、カナダからアメリカ本土への日系人の移住禁止。
1908年 日米両政府間で前年から7度に亘り行われた書簡交換により、紳士協定に基づく日本人の移民制限開始。
1908年 カリフォルニア州で、Japanese Association of America(在米日本人会)設立。
1911年 アリゾナ州で国籍を持たない外国人(=1世)の土地の所有および一定年数以上の借地が禁じられる。
1913年 カリフォルニア州で、上記アリゾナ州と同様の法律(対外国人土地法1913)施行。1世の土地の購入および一定年数以上の借地が禁じられる。同時期、アリゾナ州では期限を問わず1世による一切の借地が禁じられる。その後他州に拡大。
1920年 2月、日本政府が「写真花嫁」に対する旅券発行を禁止。
1921年 連邦議会、The Quota Immigration Act(移民割当法)施行。
1923年 ワシントン州で、対外国人土地法修正法により、アメリカ国籍を持つ未成年の日系人の土地所有も禁止され、未成年2世を抜け道的に土地所有者にする手段も絶たれる。
1924年 埴原正直駐米大使の書簡により連邦議会が排日に傾き、5月の合衆国移民法1924 (排日移民法)成立により、正式には7月1日以降、実質的には6月24日、移民船「シベリア丸」でサンフランシスコ港に到着した移民を最後に日本人の移民が全面的に禁止される。
1941年 真珠湾攻撃による日米開戦。日系人社会の主だった人々が逮捕される。 (真っ先に逮捕されたのは僧侶)
1942年 2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066号の発令。「保護」の名目で西海岸地域に住む日系人全員、およびハワイの日系人のうち主だった人々計約11万人が収容所に送られる(日系人の強制収容)。
というように日系人にとって受難の時代を迎えます。
⇒(全米日系人博物館:japanese american national museumにおいて日系人強制収用の体験を伺う)
戦時中、日本に帰国したものも、強制収用されてたものもどちらも計り知れない苦悩があったのです。
米国により行われたこのような日系人の強制収容に至る歴史は、米国の歴史においてタブー視されるようで、表立って論議されることはあまりありませんが、このような史実はきちんと語り継いでいく必要があります。
原爆の日、終戦の日に限ってこのような番組が放送されがちなのですが、平素においても定期的に放送していただきたいものです。
広島原爆投下の日から
64年目の原爆の日を迎えました。
一瞬のうちに人生を奪われてしまった多くの方々に
そして後遺症により亡くなられた多くの方々に
心より哀悼の意を表します。
合掌
小学校で行われる「平和学習」は、沖縄戦、広島長崎に投下された原子爆弾、大空襲などの日を中心に全国各地で行われています。
例えばこれは仙台で行われている平和学習のテレビ報道です。
しかし、その「平和学習」を行っている学校がどんどん減っているようです。
その原因は、戦争体験がどんどん遠い存在になっていることと、なんとなく平和学習がタブーとなりつつあるという雰囲気があるということもあるように思えます。
そこに多大なる政治的思想などが入り込む余地があるという懸念でしょうか。
しかし、平和問題を考えていく場は貴重なことです。
世界各地では常に争いが行われています。
平和を考えていくことに抵抗を感じたり、ちょっと胡散臭いと感じたら、全体に蓋をして無かったものとしてしまうということは大きな問題です。
ゆめ観音アジアフェスティバルにおける原爆の残り火(平和の火)を広げたキャンドルナイト、平和を祈願する萬灯供養、そして星野村に灯されている平和の火をその火が生まれるきっかけとなったアメリカの核実験場トリニティーサイトへ届ける禅僧の行脚。
大船観音の境内に灯されている平和の火や、禅僧たちが行った行脚は、多くの人のこころに平和のメッセージを訴えかけます。
バラク・オバマ米大統領はプラハにおける演説で「核兵器のない世界」実現に向けて「世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、米国は行動を起こす責任がある」と宣言しました。
「世界で唯一核兵器が使用されたことのある被爆国として」日本から発するメッセージには米国に勝るとも劣らない重みがあることを心しておく必要があるでしょう。
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最近、テレビ番組で特に嫌悪感を感じるのは「○○伝説・○○の全メニューを食べつくす!!」などの無意味な大食い番組です。
番組構成スタッフの企画力の無さにはホトホト呆れます。
日本がそれだけ飽食にドップリと漬かってしまっているということでしょう。
世界の国々では飢餓に苦しんでいる方々が数え切れないほど居ます。
日本の番組を眼にしたらどのように感じるでしょうね。
まあ、番組批判はここまでにしておいて・・・・
この飽食の時代だからこそ、最近は修行道場で受継がれてきた「食」の精神に注目が集まっています。
昨年は永平寺第三代の徹通義介(てっつうぎかい)禅師の七百回大遠忌の年に当たり、駒澤大学大講堂で「いただきます ごちそうさま」~禅の教えに学ぶ「食育」~のシンポジウムが開催され、多くの方にお越しいただきました。
また、今年春には幕張メッセで開催されたFOODEX JAPANの特設ステージで修行道場における食事作法と典座料理の紹介をさせていただき、その関心の高さを実感してきました。
CMでは「ごま」に焦点を当てたサントリー食品のCMがありいましたね。
ここ数日、大塚製薬で「大豆」をテーマにしたSOYJOYのCMが流れるようになりました。
ロケ地は大雄山最乗寺です。
大豆はアフリカでは栄養不足が深刻な中、高価な肉の代わりに庶民のタンパク源となり
オーストラリアでは食の欧米化で健康を損なった先住民アボリジニを救い
中国貴陽では標高が高く、稲作が難しかった町を世界有数の長寿の町に変えたのが大豆であったとCMでは訴えかけます。
大豆のその小さな一粒には、いのちのチカラがつまっている。
それをどう生かすことができるのかが問われます。
Na)
その小さな一粒に秘められたチカラをずっと信じてきた国がある。"湯葉、高野豆腐、雁もどき、油揚げ、雉焼き、
たぬき汁、けんちん汁、醤油、"かつて、肉を食べられない禅僧たちがつくりあげた、
大豆を使った数々のレシピ。"200を越えると言われる。"
その多くは、今もなお、そのままのカタチで受け継がれている。
"優良なタンパク質を、
「大豆」からいただく食文化。"Na) 優良なタンパク質を大豆からいただく、
その賢明な食文化は、いまも、世界一の長寿の国を支えている。"世界一の長寿の国を支えている。"
地球上の健康の問題に、「大豆」が答えていく。
Soylution
"Soylution"大豆を新しいカタチで、世界へ。
例えば、SOYJOY。
大塚製薬。"大豆を新しいカタチで、世界へ。"
CMのコンセプト日本人にとって身近な食材である大豆。しかし、意外と知られていないことは多い。
大豆はこれまで人類にどんな影響をもたらしてきたのだろう。
優良な植物性のタンパク質はもちろん、大豆のもつさまざまな成分が注目されている昨今。
世界中で、ますます大豆を食べる人は増えています。そんな今だからこそ、もっと深く、大豆の素晴らしさを知ってほしいと考えました。
日本で、世界で、実際にあった大豆にまつわるエピソードを映像とともに紹介。
キーワードは「Soylution」。大豆が人類の健康や栄養の問題を「Solution=解決」している。
その事実を知っていただくことで、現代に生きる人に、大豆の必要性を再認識してもらえたらと思います。
(大塚製薬のサイトより)
日本文化の中にも大豆は奈良時代あたりから浸透しはじめ、貴重な淡白源として様々な食品が生み出されてきました。
モヤシ・枝豆・大豆油・黄粉・醬油・味噌・納豆・豆腐・油揚げ・湯葉・・・
それぞれがさらに様々な種類に分化されており、これだけ様々な食べ方がされている国は他に無いでしょう。
禅の修行道場では「肉」を食材として使うことが出来ないため、それに代わる蛋白源として大豆が重宝されています。
「雁擬き(がんもどき)」などは、まさに雁の代わりとして生み出された大豆食品ですね。
その工夫されて生み出されてきたレシピの種類は数えきれません。
その多くは、今もなお、そのままのカタチで受け継がれている。
伝統の重みを感じさせる言葉です。
SOTO禅インターナショナル主催両大本山講演会において、講師の青山俊董老師は次のように述べられました。
「古」という字は「十」と「口」からできている。十代口伝で相続されたことは間違いないことだとされる。
天地悠久の真理を「古道の発見」とする人もいる。
その古道に目覚めた人が「古聖」であり、その教えが「古教」である。
その道を慕うのが「慕古」である。]
禅僧たちが大切に育んできた世界に誇ることができる「食にむかうこころ」といえましょう。
港南歴史協議会のメンバーで古写真を持参し、2箇所訪問しました。
1箇所目は高度経済成長期に創立した小学校。
総合学習の一環として、自分の住んでいる街の歴史を調べようというものでした。
まずは150年前に開港した横浜港当時の自分の街のイメージはどんなものかを想像してみます。
既に発展していた ⇒ 約60%
発展途上にあった ⇒ 約20%
全く発展していなかった ⇒約20%
それぞれのグループに別れ、当時のイメージを絵にして、理由を述べていきます。
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港南区のエリアが、横浜市で無かったこと、開港当時から昭和初期までは殆ど変化が無く一面田んぼと山ばかりであったことがなかなかイメージできないこことが良くわかりました。
その後、歴史協議会にバトンタッチ、当時の地図や写真で時系列的に追ってみます。
先生方も、転勤が多く地域の歴史にあまり詳しくない
核家族化が進み、街の昔の様子や地域の伝統を伝える場が少なくなった
などなど、様々な理由もあり、余計に子どもたちにとって遠い昔の地域の様子が伝えられていない現実も目の当たりにしました。
けれども、最近は小学校での学習で地域の歴史を実際に散策し、聞き取りを行い、調べ、自分たちで纏めるということが盛んに行われています。
今回の訪問が、その学習を助ける一つの仲立ちになってくれればと思います。
その後、今度は対象がガラリと変わり、地域ケアプラザのデイサービスにお越しの年配の方々に昔の街の写真を見ていただきました。
実際にその写真に映し出されている場所の近くにお住まいの方もいらっしゃり、写真に対する反応は小学生と対照的なものでした。
写真を映し出しているスクリーンの近くまで歩み寄り、指差して説明をされる方もいらっしゃったり・・・・
時間と空間を共有していた写真ですから、周りの人たちとの話により、その記憶はさらに鮮明に蘇ってくるのでしょう。
そして、同じ世代の方だけではなく、様々な年代の方が(小学生たちと年配の方々が)一緒に古写真を見る機会も大切であることも実感しました。
古い写真や文化財などをデジタルアーカイブ化する作業は急いで行う必要があります。
そして、それらの大切さを訴え、「オリジナル」の保存も同時進行で進めていかなければなりません。
それらがどんどん失われていっており、さらにそれらを伝承する人も減る一方です。
こういう道具一つにしても、それがどういう名前でどのように使用されていた(いる)のか、それを知る人がいなくなってしまえば貴重な文化資料もただのガラクタとなってしまいます。
そのために古写真や文化財の保存は大切なことなのです。
これからも小学校、ケアプラザなど、様々な場所で古写真を中心とした展示を行っていく予定です。
デジタルアーカイブが地域を繋ぎ街を守り立てる一助となることを期待しています。
平成22年春に開催予定の第61回全国植樹祭は神奈川県で開催されます。
シンボルキャラクターは「かなりんちゃん」。
今年春に行われた みどりの愛護のつどいの場 でも愛嬌を振りまいておりました。
もう一つ、植樹祭を盛り上げるキャラクターがいます。
それは会場地の一つである南足柄市で生み出されたキャラクター「足柄四人衆」です。
【足柄四人衆】
北足柄地区代表 足柄山の総大将 キンタローさん
南足柄地区代表 小天狗 ドウリョーさん
岡本地区代表 勤勉少年 キンジローさん
福沢地区代表 天才少年 ユキチさん
この中のドウリョーは、大雄山最乗寺(曹洞宗)の道了さんということです。

小天狗ドウリョーさんの住まいは、いわずと知れた大雄山の奥深い山中です。大雄山の杉林は、天然記念物として、昭和28年に神奈川県指定文化財になっています。今日まで一生懸命、杉林を守ってきました。ひとたび、大雄山の杉林に入り込むと、そこはもう天狗の世界です。 (南足柄市のサイトより)

木を植えるドウリョーさん、なんとも微笑ましいではありませんか。
どこかの都市の遷都記念キャラクターなど比較にならないほどセンスがあります。
宗門のグリーンプランマスコットに推したいほどです。
※このキャラクターは最乗寺で作成されたものではなく市役所で作成されたものです。念のため
キャラクターといえば、先日雑談の中で、曹洞宗のキャラクターはどういうものがよいかという話題になり、「ダルマ」さん(菩提達磨大和尚)が適切ではないかという話になりました。
これほど全国的に認知度の高いキャラクターはありません。活かさない手はありませんね。

曹洞宗では、今のところ定められた「他のものと区別できるシンボルマーク」「デザイン化した文字列」などがありません。
もしも達磨大師をシンボルキャラクターにするのであれば、個人的な要望としては是非、加古里子さんにデザインをお願いしたいものです。
だるまちゃんシリーズ、全て持っています。
時代を感じさせない豊かな感性には本当に感心させられます。
後半は勝手な意見となりましたが、宗務庁に広報部が出来たことを機に、CIについての具体的検討がなされることを望みます。
■関連リンク
CIポータル
「ぼくたちにとって一切れであっても朝の粥に入っている肉は大変な楽しみであり、その大小は1日中頭の中をしめる喜びや悲しみでもあった」「誰も気がつかぬうちに夜ひっそり死んでる者がよく出るが、すぐ分かった。どんな場合でも、それまで体中にびっしりとまつわりついていた虱が一斉に逃げ出す白い列が見えて確認された」
『黒パン俘虜記』(胡桃沢耕史)
シベリア抑留といえばロシア国内のみだと思いがちですが、モンゴルの地にも数多くの日本人が抑留されていました。
一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパ、ロシアなどにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
抑留中の過酷さは話として耳にしたり体験記を読んだりしますが、実際どれほど辛かったのか、正直自分自身どれほど理解できているのかわかりません。
モンゴルツアーにおいて、どうしても訪問したい場所として、ウランバートル郊外にあるダンバダルジャー日本人墓地跡がありました。
それがこのたび実現しました。
諸士よ 祖國日本は 見事に復興しました
モンゴルに 安らかに 眠ってください
厳冬の地モンゴルで、ノモンハン事件や戦後抑留され強制労働に従事され亡くなった800人を超える遺骨(うち、姓名が判明したのは614名)がこの地に埋葬されていました。
ダンバダルジャー以外にもモンゴル各地に日本人墓地がありましたが、遺骨の多くは日本に戻され、ここに慰霊碑が建立されたのです。
霊堂内で慰霊法要を営ませていただきました。
![]()
モニュメントの天頂部に空けられた円形の穴を通った太陽の光が、一日2回壁面に日の丸を作り出すそうです。
隣接するダルハダルジャー寺院境内にも日本人霊堂があります。
ここには数十人もの僧侶の修行光景も見受けられました。
かつて日本人収容者の元軍医による診療所の建物(写真右)も境内に残されています。
「砂漠をトラックで運ばれ、この首都に到着したときは,川の両側の平地には、白いきのこのようなフェルトの天幕と、朱塗りの柱のラマ教の寺院と、3階建ての政府の建物が3棟あるきりだった」「大統領閣下は、革命達成25周年を記念して、この川の両岸の天幕の集落を自分がときおり参勤する大祖国のあのすばらしい首都と同じように、中央に分列行進ができる広場を作り、回りに官庁、大学、劇場などのある都市にしたいと考えた」「首都とは名ばかりで、川の両岸にフェルトの移動天幕が並ぶ集落にすぎなかったこの平地が都市らしい外観を見せだしたのは、その年(昭和20年)の11月から翌年の5月にかけて行われた猛烈な労働の結果である」「帝国側の督励と、収容所側の協力で、すべての予定作業は前日で終わった。新しいビルディングが10も建ち、道路や広場は美しく整備され、中央の銅像は今にも馬が動きそうに見事だった」
『黒パン俘虜記』(胡桃沢耕史)
ウランバートル滞在中、日本人抑留者が建設した国立劇場や、スフバトール広場の周囲を何度も通りました。
首都ウランバートルの基盤となる道路や建物の多くは、過酷な労働により建設されたものだと考えると、複雑な心境です。
植林で訪れたロシア国境の町では「鉄道唱歌」が民謡として伝わっているそうです。
また、ウランバートルを見渡すことが出来るザイサントルゴイの丘には、大日本帝国国旗を踏み折っているソ連軍兵士の巨大なモザイク画が掲げてありました。
戦争の影があちこちで見受けられた旅でもありました。
日本の土を再び踏むことなく、この地で亡くなられら方々の思いはどのようなものだったのでしょうか。
■関連リンク
ノモンハンの戦い
戦史 満ソ国境紛争/ノモンハン事件
昨晩テレビを何気なくつけていたら
桑田佳祐の歌声が飛び込んできました。
充電期間を取るためにサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にしていたのでは?と思っていましたが・・・・

ソラミミ「アビィロード」 ⇒ 「アベーロード」
それにしても、元々日本語の歌詞なのか英語の歌詞なのか、そんなことはどうでもいい歌い方をする桑田さんならではの空耳ソングのオンパレード。この一枚に耳を傾けてみると
実は現代社会への
あるメッセージが込められていたのです
Come Together ⇒ 公明党BROTHER
Something ⇒ さみしい・・・
Maxwell's Silver Hammer ⇒ 舛添居ず知らぬ間データ
Oh! Darling ⇒ 親だ~れ !?
Octpus's Garden ⇒ 僕当選さす票田
I Want you (She's So Heavy) ⇒ iPhone中
Here Comes The Sun ⇒ 爪噛むおじさん
Because ⇒ 民主党
You Never Give Me Your Money ⇒ 油田は危機を招き
Sun King ⇒ 国際危惧 !!
Mean Mr. Mustard ⇒ 民意無視して増した・・・!!
She Came In Through The Bathroom Window ⇒ 「死刑」にするも「罰する」も非道!?
Golden Slumbers ⇒ 公然知らんばい(bye)!!
Carry That Weight ⇒ 借金(かり)が増え!!
The End ⇒ 次年度
世相をズバズバ斬りまくり。
よくもまあこれだけの政治風刺を盛り込んだと思います。
こんなことが出来るのは桑田佳祐か忌野清志郎くらいかもしれません。
日本を支える先生方、これからも頑張ってください m(__)m
■リンク (もしかすると直ぐリンク切れになってしまうかも)
http://www.youtube.com/watch?v=bAH2DKEmfJY
http://www.youtube.com/watch?v=-V6sajF_HmY
http://www.youtube.com/watch?v=V9fDJR096OY
伝統仏教超宗派で運営されている仏教情報センターの活動の一つに仏教ホスピスの会・いのちの集いがあります。
本日、東京都荒川区 町屋で開催されます。
私も担当となっておりますので、出かけてきました。
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第181回『いのちを見つめる集い』
4月23日(木曜日)午後1時30分~4時30分 語り合い 午後2時30分~4時30分
会場 泊船軒(はくせんけん) 東京都荒川区荒川7-17-2 (案内地図)
会費 500円(当センターの会員の方は無料)
『いのちを見つめる ~海外医療の現場から~』
(財)国際仏教興隆協会 医療部長 大工原彌太郎 (だいくばら・やたろう) 師
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昭和19年生まれ。チベット医学を専攻。
昭和46年インドのダージリンで診療開始。翌年にブッダガヤに移ってのち印度山日本寺境内に私設の無料診療所を開所して以来臨床畑を歩むかたわら、招聘に応じてたびたびイギリス、スペインでの講座講義と臨床。
昭和50年に国連ユニセフ・フィールド・エキスパートとしての専属契約によりネパール、ブータン、タイ、カンボジア、ヴェトナム、チベット等での教育・福祉・健康・医療面での諸プロジェクトに従事した経験から、異なる民族の歴史と文化に育まれた様々な「いのち」観に付き合ってきた、その一端を。
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会場となった泊船軒。臨済宗妙心寺派の寺院です。
法堂天井の龍が見事です。
【講演内容kamenoメモより】
イギリス・スコットランド地方では粉炭が産出し、その採掘に携わるものにガス壊疽が流行した。患部切除に伴う痛みの緩和のためにモルヒネを使用。しかし、モルヒネ中毒も蔓延した。
最期のイニシエーションを受けずに死んでいったものは教会で受け入れてくれない。家族も離れてしまう。僧侶の果たす役割は、モルヒネに変わる精神的なケアを行うことなのだろう。
ベトナムでの体験
戦争の最前線に兵士は家族と共に出でいく。直ぐ背後に家族が居るということがベトナム兵の強さの源だったのではないだろうか。
ベトナムでは死を迎えようとする者に対し、僧侶が何人も集まり、数日間に亘ってお経を入れ替わり立ち代り唱えていく。死に対する恐怖はそこにはない。死を迎えようとする者に対し、それを安らかに送ることが僧侶の役割。その者が死を迎えると僧侶は居なくなる。死後には僧侶の役割は無くなるのである。
インド・ブッダガヤにて
僧侶の多くは托鉢をしながらサンガを渡り歩き遊行する。インドにおいてはブッダガヤで死を迎えることが最高の幸せである。
ある僧侶がブッダガヤの僧院において重篤な病に陥った。この地で死を迎えることを望み、治療を拒否した。街頭の木陰の下にベッドを置き、野ざらしでこの僧侶は過ごした。警察官は僧侶の意思を尊重し、毎日見回りに来るものの、その行為に対しては口を出さず静かに見守っていた。街の人たち、特に子どもたちは毎日のようにやってきては生きていることを確認し、僧に率直な疑問をぶつけていた。僧は静かに、真摯にその問いに答えていた。はじめは単に興味本位でみていた子どもたちも、次第に尊敬の念を抱くようになった。
結局飲まず食わずであった僧侶は、二週間ほどで亡くなったが、この僧侶は死を迎える過程を身をもって子どもたちに提示していたのではないだろうか。
ブッダガヤの診療所にて
老人が村の人に抱えられながら診療所にやって来た。いくら診療してみてもどこも悪いところが無い。村人はそんなことは無いだろうと、その診断結果を受け入れない。しいて言えば、寿命ではないか。といったその言葉に、老人は「なんだ、寿命だったのか」と納得し、喜んで帰っていった。
インドでは寿命とは決してタブーではなく、逆に素直に受け入れ喜ぶ。そして余命が幾らも無いことが分かると余生の計画を立てて巡礼に旅立つものもいる。
日本では寿命の話はある意味タブーではあるけれども、インドでは悲しみでも何でも無い、自然の摂理として捉えられているのである。
生まれ方は誰しもほぼ同じである。けれども死の迎え方は人により大きく異なるものである。
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第二部は、本堂畳の上に参加者が車座となり意見交換が行われました。
『 仏教ホスピスの会 』は広く仏教の精神を、『 聞・思・修(もん・し・しゅ)』し、出会いを喜び、ふれ合いを楽しみ、支え合いの手を差し伸べ合い、病む者、健やかな者の区別なく、共に”生・老・病・死”を語り見つめ直すことを目的にしています。
「 いのちを見つめる集い 」は、寺の本堂を会場に、毎月いろいろな分野の方を講師にお招きして1時間ほどお話をしていただいております。休憩(ティータイム)のあと約2時間、参加者・講師・僧侶による語り合いの場を提供しております。
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公共的施設における受動喫煙防止条例 の続報記事です。
「公共的施設における受動喫煙防止条例」の条例案が先月末、神奈川県議会において賛成多数で可決、成立しました。
施行は来年(平成22年)4月1日より。罰則規定を設けた全国初の条例となります。
大まかに言うと、寺院境内、火葬場、葬祭場、納骨堂、学校や病院、官公庁、公共交通機関など公共性の高い施設の室内においては原則禁煙となります。
違反者には過料(施設管理者2万円、個人2千円)が科せられます。
条例の全文はこちら
⇒神奈川県公報 (平成21年3月31日/PDF)
条例を簡潔にまとめると
■第1種施設は原則禁煙 ■第2種施設は分煙・喫煙を選択できる ■第2種の次の施設は分煙化への移行に3年の猶予 ■該当しない場所 ■罰則 |
規制対象施設一覧 (第1種施設)
(1)幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校、専修学校、各種学校その他これらに類するもの
(2)ア 病院、診療所又は助産所 イ 薬局 ウ あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師又は柔道整復師の施術所
(3)劇場、映画館又は演芸場
(4)観覧場
(5)ア 集会場又は公会堂 イ 火葬場又は納骨堂 ウ 神社、寺院、教会その他これらに類するもの
(6)展示場
(7)体育館、水泳場、ボーリング場その他の運動施設
(8)公衆浴場
(9)百貨店、マーケットその他の物品販売業を営む店舗
(10)銀行その他の金融機関
(11)郵便事業、電気通信事業、水道事業、電気事業、ガス事業又は熱供給事業の営業所
(12)ア 公共交通機関を利用する旅客の乗降、待合いその他の用に供する施設イ 旅客の運送の用に供する電車、自動車その他の車両又は船舶(運行する路線又は就航する航路の起点及び終点が県内にあるものに限る。)
(13)図書館、博物館、美術館その他これらに類するもの
(14)動物園、植物園、遊園地その他これらに類するもの
(15)老人ホーム、保育所、福祉ホーム、老人福祉センター、児童厚生施設、身体障害者福祉センターその他これらに類するもの
(16)官公庁施設
(17)前各項又は別表第2の各項に掲げる公共的施設が所在する建築物又は工作物(出入口、廊下、階段、エレベーター、便所その他の一般公共の用に供される区域に限る。)
として、利用者に選択の余地が無い(もしくはほとんど無い)、代替性が低い施設、健康維持や健康増進を目的に利用される施設、多数の者が集合して利用する施設及び他法令(条例を含む。)等により喫煙が規制されている「第1種施設」として分類されています。
条例(案)では
(6) 集会場 公民館、児童館、結婚式場、葬祭場、火葬場、納骨堂、境内建物、その他これらに類する施設
(5)ア 集会場又は公会堂 イ 火葬場又は納骨堂 ウ 神社、寺院、教会その他これらに類するもの
となっております。
境内建物という表現では分かりづらかったため、より具体的な表現としたのでしょう。
したがって、お寺の本堂、客間、境内建物(庫裏を除く)については、禁煙が義務付けられることになります。
喫煙の中止等の求め(14条)どのように求めるか、今のうちに練っておこうと思います。
施設管理者は、その管理する喫煙禁止区域において現に喫煙を行っている者を発見したときは、その者に対し、直ちに喫煙を中止し、又は当該喫煙禁止区域から退出するよう求めなければならない。
【4月21日追記】
丁度タイムリーな記事がありましたのでご紹介します。
健康の「とげ」抜く禁煙寺 ~医師の住職が取り組み、街に浸透~
「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる東京・巣鴨の地蔵通り商店街で、禁煙の動きが広がっている。 仕掛け人は、医師でもある「とげぬき地蔵尊・高岩寺」の来馬明規住職(46)だ。たばこと、仏教と、医学はどうつながるのか。高岩寺の入り口には「境内全域禁煙」と書いた縦3メートル横80センチほどの垂れ幕が下がっている。境内には同じ垂れ幕が11枚、至る所に禁煙を呼びかけるシールもはられる。
来馬住職が父の跡を継いだ05年末、禁煙区域は本堂のみで、広場には灰皿が置かれていた。 しかし、「延命地蔵を本尊とする寺で、たばこを禁じて長生きを願うのは究極の菩薩行だ」と、住職は07年1月、境内を全面禁煙にした。
当初は「住職の個人的な趣味じゃないか」という批判もあったが、寺に勤務する僧侶や従業員のうち喫煙者だった10人の禁煙を全員成功させ、現在は縁日の露天商にも禁煙 を徹底してもらっている。
こうした寺の方針は次第に商店街にも浸透。店内禁煙の店や、軒先から灰皿を撤去する店が徐々に増えている。 巣鴨地蔵通り商店街振興組合の木崎茂雄理事長(65)は「お客様からは『灰皿がなくて困る』という声も聞くが、高岩寺あっての地蔵通り。 喫煙者にも救いの手を差し伸べつつ、時間をかけてお寺のやり方についていかないと」。
来馬住職は内科・循環器の医師。現在も都内の診療所などで診療を続けている。臨床医としての経験から、「たばこが脳卒中や心臓病につながるのは明らか」という。
仏教には元来、具体的に喫煙を禁じた教えはないが、来馬住職は「最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任することなかれ」という曹洞宗の経典『修証義(しゅしょうぎ)』の一節を挙げる。
かけがえのない命を粗末にしてはならないという意味だ。 素直に受け取れば、たばこを吸うなということになるはずという。
「年間800万人とも言われる参拝者の0.1%でもたばこをやめてくれれば、8千人になる。禁煙外来でも大した業績です」と力を込める。
(朝日新聞2009年4月21日夕刊)
条例で規制される以前に、僧侶が率先して禁煙行動を推進している好事例です。
こうでなくっちゃ、ね。
関東・東海・関西から九州へ直通する唯一のブルートレイン「富士・はやぶさ」。
ついに今日、最終列車出発の日を迎えました。
思えば子どものころから現在の東戸塚の近辺まで自転車でよく見に行ったものす。
これに乗っていつか終点まで行ってみたい・・・・・・といつも思っていたものでした。
![]()
撮影は1977年です。
写真を撮影した場所は現在の横須賀線東戸塚駅から東京よりに100mほど行った所にあった踏切。
当時このあたりは野っ原と山ばかりで何もありませんでした。
今朝(3月13日)、かつて撮影した近辺に行ってみました。
この姿を見られるのも今日、明日限りです。
この列車が東京に到着し、折り返し今日の夕方に最終列車として大分・熊本へラストランの旅に出発します。
きっと東京駅は大変な人でごった返すことでしょう。
「富士」最終列車チケット 10秒で完売春のダイヤ改正で廃止される寝台特急はやぶさ(東京―熊本)と富士(東京―大分)の最終列車(三月十三日)のチケット販売が十三日午前十時から全国のみどりの窓口で始まり、わずか約十秒で完売した。
青い客車の寝台特急“ブルートレイン”は近年、乗客減で廃止が相次ぎ、両特急の廃止で東京駅発着のブルトレは姿を消す。
ラストランは三月十三日午後に熊本、大分をそれぞれ出発する上りと、同日夜東京発の下りで、定員計六百四十人。前日までの列車も満席に近い状態が続いているという。あるJR関係者は「これだけの人気が続けば廃止されなかったのでは」と苦笑い。
(2009年02月13日 大分合同新聞社)
最終列車のチケットは僅か10秒で完売となったそうです。
まさにプラチナチケットですね。
「富士・はやぶさ」・・・・そして東海道線を駆け抜けていったたくさんのブルートレインたち
本当にお疲れ様でした。
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今日は穏やかな一日となっています。
けれども64年前の3月9日夜から10日にかけての東京は、現在の平和な世の中からは想像も絶するほどの惨状に見舞われました。
東京大空襲がアメリカ軍により行われたのです。
それ以前にももちろん空襲は各地に行われていました。けれども、この日ほど大規模でかつ市民を攻撃対象に行なわれた無差別の低高度夜間爆撃はありませんでした。
3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているとして、町工場が立ち並ぶ下町の市街地とそこに生活する市民そのものを攻撃対象に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。
1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオにて放送中の軍歌を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、9日から10日に日付が変わった直後(午前0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。午前0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)でも爆撃が開始されている。これにより、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断ち、逃げ惑う市民には超低空のB-29から大量の榴弾や機銃掃射が浴びせられた。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速25m以上、台風並みの暴風が吹き荒れた。
火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、超巨大な火災旋風が至る所で発生し、橋や建物に炎が火龍の如く流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。
水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ追い詰められた犠牲者が多いのに対し、逆に内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した生存者が多い。死亡:8万3793人
負傷者:4万918人
被災者:100万8005人
被災家屋:26万8358戸東京大空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昨日(3月9日)門前仲町のホールにて、東京大空襲から64年「鎮魂と平和を願うコンサート」が開催されましたので参加してきました。

ご案内いただいたハープ奏者・八木健一さんとシンセサイザー奏者・八木ゆみ子さんご夫妻とは、仏教情報センターや、ゆめ観音アジアフェスティバルなどの繋がりです。
八木健一さんのお父さんは、20歳の時に、母と3人の弟とともに東京深川で暮らしておりましたが、昭和20年3月10日、大空襲に遭い家族を失ってしまいます。
健一さんがお父さんにそのときのことを訊ねても黙り込んで何も話してはくれませんでした。
あまりにも悲しい記憶は、無意識にそれを消し去りたいという思いからでしょうか。結局最後まで誰にも語ることは無かったそうです。
この日のコンサートは、前半は、東京大空襲を体験された橋本代志子さんの語りを中心に大空襲の状況を曲で表現、後半はテノール歌手嘉納兼徳さんの歌を中心に鎮魂、慰霊から未来への希望という構成で進んでいきました。
3月9日深夜、当時24歳、亀沢町に住んでいた橋本さんは、空襲が始まると幼い子ども、両親、そして三人の妹とともにまずは家の前の防空壕に避難。
「みんな、逃げるんだ。ここはもういかん」
という父親の声に、防空壕から外に出ると頭上には電柱を掠めるほど低空を編隊を為して飛行するB29が乱舞し大火災が迫ってきてきました。
家族7人は南下して竪川を目指し歩いていましたが、パニック状態の人の流れの中に妹たちが次々とはぐれいき、次第に小さくなっていく「お姉ちゃん、お姉ちゃん」という声が最後の声となってしまいました・・・
橋本さんの語りは、実に迫力があります。
電信柱を掠めるほど低空を編隊を為して飛行するB29、逃げ場を失って大通りに溢れる市民、黒焦げの死体の山。
目の前に光景が浮かぶようです。
「橋本さん、あのつらい体験をよく話しているわね」って言われる。でも、あの夜、沢山亡くなった人の代わりに、それこそ命のある限り、私はずっと話し続けていこうかと決心しているんです。
橋本さんの語りの記録がこちらに掲載されています。
⇒東京大空襲を語る(3)橋本代志子さんの話(JanJan News)
第二部で登場された沖縄出身のテノール歌手嘉納兼徳さんもお父さんが海軍に所属しており、沖縄戦に出撃されました。
戦争中も平和な今も変わらないのは沖縄の青い海、そして兀兀とどっしりとした山々。
そして太陽や月や大地を吹き抜ける風、青い空。
海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情けに 手を招く
常夏の国 我した島沖縄(うちなー)「芭蕉布」
----------------------------ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる
風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
夏の ひざしの中でざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない「さとうきび畑」
(コンサートのプログラムより。歌詞一部引用)
客席の最前列には、犠牲となった家族の遺影が飾られ、体験を語る橋本さんの机の上にはプレゼントされた沈丁花の花が置かれていました。
「昔、丁字油という髪油があった。母はよく髪をとかすときにそれをつけていた。その香りが沈丁花の匂いに似ているのだ。だからあの匂いを嗅ぐと母を思い出す。好きな匂いだ。江東区の庁舎の前に母子像が建っている。(私たちの請願から)10年間かかってやっとそれが建ったときも、沈丁花を捧げてお礼を言った。なにかのときにはこの花を飾る。まだ生活が苦しくて、仏様に供える花が買えなかった頃には、庭に咲いているその花を供えたりもした」
母の髪の丁字油の香を思はする 沈丁花咲く三月十日
このようなコンサートを企画されました八木さんご夫妻、そして東京大空襲戦災資料センターの方々に心から敬意を表し、犠牲となられた多くの方々に心から哀悼の意を捧げます。
■追記
上記記事は3月9日の演奏会の記事です。
今日(10日)には八木さんのお父さんの母校、区立東陽小学校での演奏会がありました。
■関連リンク
東京大空襲・戦災資料センター
昨年12月、休戦協定の終結を機にイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃が始まってから一ヶ月以上が経過しました。
現在、パレスチナ自治区では、「封鎖」により150万人のガザ市民が苦境に立たされています。
人の移動や物資の搬入、搬出の制限と米・EU・ロシア・日本などからのガザ地区への直接支援が中止されました。
その影響でガザ地区の食料、医療品、生活必需品が不足。80%の人々が人道支援で生活、私企業の55%が営業休止、工場の95%以上が操業停止、毎日起こる8-16時間の停電、燃料、水の不足といった現状も現地からの細々とした情報網によりかすかに伝えられています。
中東の歴史については下記へ
⇒パレスチナ問題(ウィキペディア)
⇒イスラエル (ウィキペディア)
⇒パレスチナ (ウィキペディア)
1948年以降の大まかな年表をまとめておきます。
ピンクがパレスチナ(自治区)、水色がイスラエルの領域です。
左の尖っているあたりにあるピンクの領域がガザ地区。
ちなみに、ガザ地区は、地中海に面しエジプトとイスラエルと境界を接する東京23区の約6割の広さの土地で2006年6月以降イスラエルによる長期間の完全封鎖が続いています。人口は約150万人。14歳以下の子どもの割合が約45%、平均年齢は17歳。約7割が難民で、8つの難民キャンプを抱えています。
<これ以前については上記リンクをご参照ください>
1948年 イスラエル建国(第一次中東戦争)=パレスチナにとって『ナクバ(破局の日)』
1967年 第三次中東戦争 →直接的占領
1987年 第一次インティファーダ(抵抗運動・戦車に石を投げるなど)
1991年 湾岸戦争
1993年 オスロ合意→暫定自治協定=街に常駐するイスラエル軍はいなくなるも占領状態は継続。
2000年 第二次インティファーダ =輸出・出稼ぎ制限
2001年 9・11事件、アフガン戦争 =空爆、指導者の暗幕
2002年 西岸・ジェニン難民キャンプの破壊
2003年 イラク戦争 継続する隔離政策、家の破壊
2004年 アラファト議長 逝去
2005年 ガザ地区から入植地撤退 なおも隔離政策・封鎖は続く
2006年 パレスチナの選挙で「ハマス」が圧勝 =国際社会化からの支援停止
2007年 レバノン侵攻
2008年 ガザ・エジプト国境フェンスを爆破
イスラエル軍 空爆・地上侵攻、
同3月 対イスラエル強行派ハマス
同6月 ハマス政権とイスラエルの休戦協定、「封鎖」はなおも続く
同12月 休戦協定の終結※「イスラエル・ハマスの言い分」
イスラエル軍 空爆・地上戦(12月末~1月19日~現在)年表の基礎資料は特活パレスチナ子どものキャンペーンによります
イスラエル側の主張はイスラム過激派ハマスがロケット弾攻撃を始めたことへの報復ということですが、争いにより被害を受けるのは一般市民や弱者であり、そのような事実さえも全容が伝えられることがありません。
勝者は敗者の被害をかき消していきます。
争いによってどれほどの一般市民に犠牲者が出たのかが不明であるということは、攻撃を行った側が、その場所を実効支配してしまうからです。
もしもナチスが戦争に勝利していたら、ユダヤ人虐殺という歴史も暗闇に葬られていたのかもしれません。
中東の地に繰り広げられてきた数々の破壊と追放の歴史の全容や、イスラエルがパレスチナ人のあらゆる交通・物流を制限し、居住区に押し込めているということがあまり報道されないということも、その裏には中東戦争における勝者であるイスラエルがパレスチナの歴史を闇に葬っていった(いる)ということが第一にあるようです。
一例として、昨年末から始まったイスラエル軍による空爆及び地上攻撃により、援助関係者、ジャーナリストもガザへ入ることが不可能となっています。
私たちは、そのような情報に耳を傾け、この困難な問題を公平に判断し、国際世論に訴えかけていく必要があるでしょう。
一般市民に襲い掛かる悲劇を速やかに終わらせるためには、まずは「封鎖解除」が前提条件となるでしょう。
「封鎖」が解除されなければ、パレスチナ自治区の生活は一向に改善されません。
どちらが正しい、間違っているということではなく、まずは中東で何が起こっているかということに「関心」を向けること、それが私たちの出来る第一歩なのだと思います。
追記
イスラエル総 選挙 募る危機感、右傾化加速10日投票のイスラエル総選挙は、右派勢力が国会の過半数を獲得した。リブニ外相率いる中道政党カディマはかろうじて第1党にとどまる見通しだが、連立政権の枠組みがどうであれ右派の影響力増大は確実で、中東和平への道はさらに険しくなった。パレスチナ自治区ガザからの攻撃やイランの核開発などによる危機意識の高まりが背景にある右派の躍進。外交の最優先課題に中東和平を掲げるオバマ米政権にとっても厳しい結果となった。
(毎日新聞2009年2月12日)
パレスチナ自治区に未来はあるのでしょうか・・・
今後の動向から益々目が離せません。
数学の世界で、問題を「エレガント」に解くという言い方をすることがあります。
エレガントとは、「優美」「上品」「洗練」「シンプル」などと訳されますが、このようなキーワードから、海外の禅僧の中では「ZEN」=エレガントという捉え方をする方もいらっしゃいます。
数年前に講演を戴いたブライアンバークガフニ先生は日本文化に対し、余計なものをそぎ落とした「あっさり」という表現をされていました。
私が日本の文化は何かと聞かれますと、一言で表現しろと言われたら、「あっさり」という言葉で表現すると思います。あっさりと言うのは、出来るだけシンプルに、出来るだけ簡素にという日本独特の思考と言うのが有るように思います。
これは大いに日本で育まれてきた禅の生活では非常に大きな影響が有ると思います。つまり、無駄のない、出来るだけ簡素にシンプルにというのが日本の精神の中に、文化の中に大いに浸透していると思います。
例えば白木。西洋ではすぐにペンキを塗りたがるんです。第二次世界大戦で由緒ある日本の旧家が接収されて、持ち主に戻ってきた時に大黒柱が真っ赤なペンキで塗られていてびっくりしたと言う話は聞いた事があるのですが、これは悪戯でしたんじゃないんです。未完成だから塗ってやろうと思っているんです。白木のままと言うのは未完成で、裸でなんとなく落ち着かない。しかし日本の場合はペンキとかじゃなくって白木のままで、簡素にシンプルにというのが日本独特の思考だと思います。SOTO禅インターナショナル創立5周年講演『禅修行を通して得られたもの・・・両鏡相照』(講師:長崎総合科学大学教授 ブライアン・バークガフニ師・1998年開催)より
ですから、禅を「エレガント」と表現するという気持ちも良くわかります。
さて、先日テレビを流し見していますと、『たけしのコマ大数学科』という番組が流れていました。
そのときに取り上げられていた問題は
バスケットボールには1ゴールで3点、2点、1点入る種類がある。 では合計10点になるための組合せは何通りあるか。
というようなものでした。
この問題に
コマ大生(駒澤大学ではなくコマネチ大学)、東大生、北野武(マス北野)が取組みます。
コマ大生のとった方法はまさに力技。
3センチに切った赤いテープ、2センチに切った黄色いテープ、1センチに切った緑のテープを並べ、長さが10センチになる組合せを全て取り出しました。
数人で作業を行い、約半日掛かって出た結論が274通り。
机の上には膨大な数の色とりどりのテープが残されました。
⇒コマ大生たちの方法をExcelで再現してみました。
(ただし、次に挙げるトリボナッチの解法を利用して前2項分のセルをコピペしながら作成しました)
⇒参考までに:コピペのベースとなる途中経過
対し、マス北野の解法は、以前番組で取り上げたという問題
階段を一度に1段、2段登る2通りの方法を使って15段登る組み合わせは何通りかの解法をフィボナッチ数列を使って用いたことを応用し、274通りとほぼ暗算で答えを出しました。
マス北野の解法はエレガントなものの一例と言えるでしょう。
問題が、もしも1点に達するためには何通り?とか2点に達するためには?とか3点に達するためには?という程度だったら
1点に達するためには1点ゴールの1通り
2点に達するためには2点ゴール、1点ゴール+1点ゴールの2通り
3点に達するためにはは3点ゴール、2点ゴール+1点ゴール、1点ゴール+2点ゴール、1点ゴール+1点ゴール+1点ゴールの4通り
この問題を考えるポイントは、10点になった際、何点ゴールで10点に達したかということに着目することです。
ここに気づくかどうかが「エレガント」に問題を解くことができるかのポイントになります。
10点に達した際に決まるゴールの方法は3点ゴール、2点ゴール、1点ゴールの3通り。
ということは、そうなるためには
9点の段階から1点ゴール
8点の段階から2点ゴール
7点の段階から3点ゴール
このことから、7点に達する組み合わせ、8点に達する組み合わせ、9点に達する組み合わせを考えて、それを足せばよい。
9点に達するためには
8点の段階から1点ゴール
7点の段階から2点ゴール
6点の段階から3点ゴール
7点の段階から1点ゴール
6点の段階から2点ゴール
5点の段階から3点ゴール
6点の段階から1点ゴール
5点の段階から2点ゴール
4点の段階から3点ゴール
以下同様に考えて、簡単なために a点に達する組み合わせを T(a) とすると
T(10)=T(9)+T(8)+T(7)
T(9)=T(8)+T(7)+T(6)
T(8)=T(7)+T(6)+T(5)
T(7)=T(6)+T(5)+T(4)
T(6)=T(5)+T(4)+T(3)
T(5)=T(4)+T(3)+T(2)
T(4)=T(3)+T(2)+T(1)
・・・ここまで来ると最初に考えた
T(1)=1
T(2)=2
T(3)=4
T(1)=1
T(2)=2
T(3)=4
T(4)=1+2+4=7
T(5)=2+4+7=13
T(6)=4+7+13=24
T(7)=7+13+24=44
T(8)=13+24+44=81
T(9)=24+44+81=149
T(10)=44+81+149=274
よって274通り//
0,1から始まり、前の2つの数字を足したものが次の項になる数列をフィボナッチ数列
1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 …
といいます。
階段の問題ではフィボナッチ数列を用いましたが、このバスケットボールの問題の場合は、前の3つの数字を足したものが次の項となり、それをトリボナッチ数列
1 1 2 4 7 13 24 44 81 149 274 …
と呼びます。
今回の問題はトリボナッチ数列を解法に使うことでエレガントに答えを導くことが出来ました。
マス北野の解法のように、エレガントさを求めるということは数学を学ぶものにとっては一種の憧れであったりするわけで、一つの問題について答えを求めた後でも、もっと「エレガント」に解けないかという異なったアプローチを考えたりします。
けれども、数学的には、コマ大生のとった力技の解法も正解です。
一つの問題から正解を導く方法は何通りもあります。
どの方法がベストなのかということは一概には言えないと思います。
例えば
いかなる地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗るには4色あれば十分である
という、いわゆる四色定理は、1976年に ケネス・アッペルとウルフガング・ハーケンにより証明されました。
その方法たるや、コンピュータを利用して、あらゆるパターンをしらみつぶしに調べ上げ、当時の最高速のスーパーコンピュータを1200時間以上使用して導き出したものです。
いわばコマ大生のとった方法とほぼ同じであるといえます。
四色定理の証明は、エレガントな解法に対して、対極のものとして「エレファントな解法」とも揶揄されます。
今の受験数学は短時間で効率よく解答へたどり着くために「エレガント」な解法のみをマニュアルとして教え込む傾向にあるように見えますが、それでは以後の応用が利かなくなるような気がします。
コマ大生たちのような体力勝負の解法を模索してみることも必要です。
人生もたぶん一緒でしょう。
数学の問題に限らず、人は生きていく上で様々な問題に突き当たります。
それを「エレガント」にするりと乗り越えていくことが出来る場合もありますし、なかなか問題を解決できずに一見遠回りしたり非効率的に見える「エレファント」な筋道を通らなければならないこともあります。
アインシュタインは、教鞭をとった時に生徒たちに一つの問題に対して何通りもの解答を求めたそうです。
問題を解決する方法が一つでないということを認識し、一つの問題を解くためにどのような方法があるのか、いろいろな解法を探ってみる姿勢こそが大切なことです。
様々な解法を模索し、一見無駄のように見える「エレファント」なことを繰り返し体験するからこそエレガントな解法が導き出され、それが光るのですから。
冒頭にご紹介した講演で、ブライアン・バークガフニ先生は次のように結ばれました。
禅をどういう風に西洋人に伝えて行くかということを、私は是非「あっさり」という文化と関連してある言葉に注目していただきたいと思います。
それが私は日本語の大発見として大切にしている「お洒落」という言葉です。
私は「お洒落」というのは「ファッション」という言葉と同じ意味だとずっと思っていたんです。「ファッション」といえば「お洒落」。「お洒落」といえば「ファッション」。翻訳する時とか通訳する時に交換すればいいという風に思っていたんです。どのように書くかというのがあまりはっきりしていなかったんです。平仮名のイメージしかなかったんですが、ある時雑誌を見ていたら漢字で書いてありました。
へー!こんな字で書くのか。お酒が落ちると。なんという東洋の神秘!と思ったんです。
しかし良く見ればお酒と言う字と少し違う。横棒が一つ足りない。サンズイに西です。これが読めなかったものですから、早速好奇心が刺激されて私のボロボロとなった漢和辞典を広げてみたんです。そうしたら、本当になるほど、なるほどと思ったんです。お洒落というのは、洒が落ちると書くんですが、洒というのは、「晒(さら)す」というのが訓読みで、洗うという意味も有るんです。非常に具体的な意味が有ったんです。
飾り気とかそういうものを全部洗い流した、あるがまま、素顔という・・・これがお洒落であり、ファッションというのは類語でも同じ意味でも無く反対の意味でした。
ファッションというのはラテン語から来てるんですが、語源が facere という動詞で、造るという意味です。ファクトリーも同じ造ると言う語源から来ているんです。つまりファッションと言うのは、素材の上に飾って造っていくということです。一言でいえば「カッコをつける」のがファッションです。
しかしお洒落はその反対でした。そういう人工的なもの、わざとらしさ、そういうものを全部洗い流した素顔の美しさをいう。なるほど!なるほど!と思ったんです。喩えて言えば、作り笑いがファッションみたいなもので、お洒落と言うのは本当に面白い時に自然に出てくる笑いのことだと、なるほど、なるほどと思いました。
いつまでもこのお洒落の心を大切にしていただきたいと思います。そして、お洒落の心を大切にしていれば、自然に無理の無い形で禅の素晴らしい教え・・・教えといえば少し上からの押し付けの意味がちょっとあるんですが、教えと言うよりも素晴らしい智慧というものが世界にきっと伝わって行くと思います。
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先日、あるミーティングの中で、馬が人の心を癒すことに大きな力を持っているという話題がでました。
ホースセラピーというものです。
日本でも少しづつ広がってきているようですが、その関連記事をご紹介します。
人の心を癒す「馬セラピー」、自閉症や麻薬中毒治療にも効果的
馬は乗って楽しいだけではなく、コミュニケーションスキルを身に付けたり、精神や身体に障害を持つ人の精神を安定させるのにも役立つ。
調教師のリンダ・コハノブ(Linda Kohanov)さんは、「馬は、乗っている人が隠そうとする感情も見抜きます」と話す。
馬を利用した心理療法と人格形成――。この2つを融合したものが「馬セラピー」だ。■馬が教えてくれる自然体のコミュニケーション
馬セラピーでは必ずしも馬に乗る必要はないと、フランスのある馬セラピー団体のブジリット・マーチン(Brigitte Martin)さんは言う。「グルーミングをしたり、手綱をゆるめて馬を自由にさせておくだけでもいいのです。馬はセラピストと患者の仲介役になってくれます」
マーチンさんが支援活動をしている自閉症の子ども、視聴覚に障害がある子どもたちは、ポニーと触れ合ううちに落ち着き、気持ちが安定していくという。
別の団体に所属するある女性は、馬セラピーは幸福感と安らぎを与えてくれると話す。「人は馬と接しているうちに心を開き、よく笑うようになります。馬はとても繊細な生き物です。気持ちを読み取りますが、そこには批判的な態度はありません。だから人は自分の感情を表現できるようになるのです」また、別の女性によると、人は馬を通して他人とのコミュニケーションの仕方、自分を変えるには何が必要か、断る場合はどうやって断ればいいかなどの方法を、力むことなく自然に学べるという。
■馬とのふれあいが精神的なリハビリに
Charente-Maritimeにある乗馬スクールでは、精神障害者が馬の世話係やインストラクターのアシスタント役をつとめる。創設者のイヴェス・リヴェット(Yves Rivet)さんは、「乗馬しに来た人は、彼らを障害者としてではなく訓練を受けた馬の世話係として見ます。そのため障害者という烙印から解放された彼らは、自分自身を新しい目で見るようになります」と語る。セラピーとしての乗馬は、フランスでは1970年代に始められた。1980年代からは精神障害者の治療にも活用されるようになったという。家族に問題を抱えていたり行動に問題がある子どもたちにも、馬は活用される。さらには麻薬中毒患者や犯罪者のリハビリにも役立てられているという。
「社会のルールに従うことを拒絶する子どもたちでも、馬に乗るときは馬のルールに従わなければなりません。それを踏み越えるととても不快だということを知ることになります」と、リヴェットさん。
彼は、母親に育児放棄されたある自閉症の子どもについて、次のようなエピソードを語った。「たてがみに顔を埋めたとき、彼は泣きながら母親の名前を叫びました。無意識に母親の黒くて長い髪のことを思い出したのでしょう」
その日を境に、この子の症状は良くなっていったという。
(平成20年6月13日 AFP)2008年06月13日 09:57 発信地:SAINT JEAN DU GARD/フランス
動物によるセラピーとしては、イルカが有名ですが、どうやら、イルカだと人間の「悪い」面を吸収してしまい、イルカの寿命を縮めてしまうようです。
しかし、馬は人間の「悪い」ものをさらりと受け流してしまい、馬自体には全く影響がないそうです。
馬には生きるための基本的要素、「食欲」「睡眠欲」「性欲」をバランスよく持ち合わせており、生きる力を人間に与えてくれます。
また、馬は飼い主には絶対になつかないという性質も持っています。
言語的なコミュニケーションが出来ず、非言語的(ノンバーバル)なコミュニケーションしか出来ないからだそうです。
馬の耳に念仏とはよく言ったものです。
【馬の耳に念仏】 うまのみみにねんぶつ
人がいくら意見しても全く効き目のないことのたとえ。
馬に念仏を聞かせても、そのありがたみが分からないことをたとえた言葉。
(ことわざデータバンク)【馬耳東風】 ばじ-とうふう
他人の意見や批評に注意を払わず、聞き流すことのたとえ。もとは春風が馬の耳に吹く意。人が心地よいと感じる春風が吹いても、馬は何も感じないように見えることからいう。▽「東風」は東から吹く風。春風のこと。「東風、馬耳を射る」の略。
けれども、馬は視野が広く、瞬時に全体を見渡し判断することができるという特技を持っています。
また、人間との馬のコミュニケーションは、お互いの雰囲気を感じ取ることによって成立します。
それが、言語によるコミュニケーションが困難な人にもスムーズに意思疎通ができる理由でもあるのです。
馬に近づいた人は感情が穏やかになり、ニコニコするようになります。
悩みなど、吹き飛んでしまうようです。
これは、究極のカウンセリングの極意ともいえるのではないでしょうか。
昨年から仏教テレホン相談の仕事を手伝わせていただいておりますが、馬のような相談員でありたいと思っています。
もう一つ。
馬とお寺をキーワードに、何か具体的なことができそうな気がします。
ナントナクですが。
シネマぴあ満足度ランキングで「禅 ZEN」が一位となっています。
1月13日付最新ランキング ― 1月9日(金)、1月10日(土)公開映画
観客動員もかなり多く、公開映画館も追加で増えるようですし、上映期間も延長される館もあるようです。
何よりも、満足度が高いということが嬉しいですね。
■鑑賞者の声
100点 実際に自分も禅をしているような気分になった。俳優が流暢に中国語を話していて、二胡や太鼓など、中国や日本の楽器を使った音楽が印象に残る。人間の死など胸がつまる場面もあり深く考えさせられた。(38歳・女)
90点 桜や菜の花など自然の風景が美しく目を見張る。テイ龍進が演じる寂円の、道元を支える姿についつい感情移入してしまった。あまり馴染みのない仏教用語が多くでてくるので、詳しく知りたいと思った。(64歳・女)
85点 “禅”という題材が新しく、とても興味深い作品だった。主演の中村勘太郎は若いが味のある演技で、内田有紀も今までのイメージとは違い役に溶け込んでいてよかった。大人が楽しむ映画といった感じ。(52歳・男)
なぜ、今の世に「禅」が求められているのだろう
なぜ、今、禅なのか。
高橋伴明監督の言葉にそのヒントが隠されているように感じます。
「近代合理主義のまん延によって、世の中は確実におかしな方向に流れています。悲惨な犯罪の多発もその表われです。若い人たちの中に『無宗教の方が格好いい』というような考えが広まっているのも問題です。ぜひこの映画をきっかけに宗教というものを見直してほしいと思います。」
「信仰のない人に限って『宗教とは何かにすがりつこうとする弱い人のためのもの』という誤解を持っていると感じています。しかしきちんとした信仰を持てば、それなりの自律も求められるし結構きつい。本当に弱い人にはできないことです。そういう意味で道元は非常に強い人でした。そうした部分もしっかり映画で描いているつもりです。」
「この映画は道元の伝記映画であるとともに、現代社会のおかしな部分に対する警鐘としても作りました。『自由』や『合理主義』が勘違いされている風潮に疑問を持っている人への一つのメッセージになれば幸いです。そして勘違いしてしまっている人たちにも、現代のあり方に疑問を持つためのきっかけとして見てほしいですね。」
(中外日報 平成21年1月1日号より抜粋)
高橋監督は曹洞宗の信徒ではありません。
別の宗教の信者でありますが、だからこそ、道元禅師という人物を客観的に捉えることができたのかもしれません。
日本の現代社会では、宗教というものに極端なアレルギーを持っていたり、誤解している人も多いでしょう。けれども、この映画は監督の意図されるように、現代社会の持ち合わせている歪みに気づかせてくれるきっかけにもなることと思います。
「回光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし」 『普勧坐禅儀』
世の中の風潮は、進歩、進歩、それが良いことだと考えられています。
経済も拡大することが当然であると。
けれども本当にそうなのでしょうか。
進歩の反対は退歩です。
辞書を引くと次のように出ています。
たい‐ほ【退歩】
[名](スル)あともどりすること。能力や技術などが以前より低くなること。後退。「記憶力が―する」⇔進歩。
『大辞林』
退歩の類語は次の通りです
たいほ【退歩】⇔進歩
退化 後退 衰退 後進 逆行 後戻り 後退(あとじさ)り
『類語実用辞典』(三省堂)
けれども、道元禅師は「退歩を学すべし」と述べています。
進歩が当たり前だと思われているけれど、本当にそうだろうか。
もしかすると、退歩こそが真理なのではないだろうか。
私たちの社会は常に前進することばかりを目指していました。
けれども、その光を自らの脚下にあてて照らし、一歩後ずさりして本来どうあるべきかということを慮り、本来の姿に立ち戻ること。
それが「退歩」の意味するところです。
映画「禅 ZEN」のポスターが東京周辺の駅に張られました。
これは8種類あり、「八大人覚」のそれぞれを分かりやすいことばで解説しています。
以前、このブログでも「八大人覚」について纏めました が、ポスターのことばは簡潔で分かりやすいものですので比較してみてください。
八大人覚(はちだいにんがく)少欲(しょうよく)
一、あまり高い目標を追い求めすぎると、破滅する。知足(ちそく)
二、欲をいい張ったらキリがない。限度を知る。楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
三、のどかで美しい景色を眺めると、心が澄む。勤精進(ごんしょうじん)
四、やりたいことを一つにしぼり、無駄を省く。不忘念(ふもうねん)
五、心が修まっていれば、人目は気にならない。修禅定(しゅぜんじょう)
六、うまく事が運ばなかったら、一歩退いて見る。修智恵(しゅちえ)
七、前向きの話を聞いていれば、混乱しない。不戯論(ふけろん)
八、無益な口論ほど、社会を乱すものはない。
実に簡潔なことばですが、現代社会にこそ活きる大切な教えではないかと感じます。
先日の歴史カフェの際に、参加された方により、戦時中の永谷地区の思い出が語られました。
その中の幾つかをご紹介いたします。
永谷地区は幸いなことに、大規模な空襲を受けることは無かったのですが、東京、川崎方面より多くの疎開を受け入れていました。
貞昌院にも境内に十数人の家族と、やはり十人前後の兵隊さんが生活をしておりました。
兵隊さんたちは主に何をしていたかというと、山から松の木と根を堀り出してきて、それを下野庭に作られた釜で乾溜し、飛行機の燃料を作っていたということなのです。
これは松根油と呼ばれるもので、村人たちはその松の根の掘り出しと製造の手伝いをしていたそうです。
松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられ、戦時中の日本の窮乏ぶりを語る例としてしばしば取り上げられる。
松根油はよく樹液や樹脂(松やに)あるいはそれらからの抽出物と混同されるが、このうち樹液は木部を流れる水および師部を流れる糖などを含む水溶液であり関係ない。松根油はテレビン油の一種であり、上質なテレビン油は松やにを水蒸気蒸留して得るが、松根油はマツの伐根を直接乾溜して得られるものであり、採取した松やにから得るものではない。戦前は専門の松根油製造業者も存在し、塗料原料や選鉱剤などに利用されていた。昭和10年頃の生産量は6,000キロリットルほどであった。
(Wikiペディアより引用)
しかし、200本分の松の大木の根から製造される松根油をもって、ようやく航空機が一時間飛行できるかどうかというところであり、しかも精製がうまくされていないとエンジントラブルを起こす原因にもなりました。
フィリピンからの原油輸送経路を断たれた日本にとっては最終手段ともいうべきものだったのでしょうが、村の人々も「こんなことで日本は大丈夫だろうか」と心中で感じていたということです。
昭和20年5月29日には、横浜大空襲へ向かうB29の整然と編隊を組んだ集団が、次から次へと現われ天神山を掠めて飛行していき、豪雨のような大音響とともに黒煙が立ち込め、横浜中心部は焦土と化します。
この詳細は、太平洋戦争空襲~終戦の日 という記事も併せてご参照くださればと思います。
8月15日、B29一機が撃墜を受け、飛行機は現在の南高校の付近へ墜落、飛行士は芹ケ谷の付近へと落下傘で降下しました。
住民たちは一斉に飛行士の降下した辺りにわ~っと押し寄せたそうですが、両手を挙げて投降する兵士を丁重に抱え危害を加えることなく三輪自動車に乗せて警察に届けたそうです。
折りしもその後まもなくポツダム宣言受諾、無条件降伏の玉音放送が流れ終戦の時を迎えました。
歴史カフェの最後に、総代さんより「神風特別攻撃隊」を編成したとされる大西瀧次郎中将が割腹自殺した際の遺書が掲載されている『文藝春秋』1月号をご紹介いただきました。
大西中将は、特攻隊戦死者及び遺族への謝罪を次のように書き遺しています。
特攻隊の英霊に曰す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾、死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り、自重忍苦するの戒とならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。
諸子は国の宝なり。平時に処し、猶を克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。(下線はkameno記)
大西中将は終戦の翌日に割腹自殺を図りました。
割腹の際には、通常介錯を頼むものですが、大西中将は、割腹自殺の際に特攻隊として死んで行ったものの苦しみを分かち合うため、介錯をつけなかったとのことです。そして医者を呼ぶなと厳命し6~7時間苦しみを味わいながら息を引き取りました。
「日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ」
そして、特攻隊、義烈空挺隊員たちの遺された
「戦争はもう続けるべきではない」
「戦争を二度と繰り返してはしてはいけない」
これらの言葉を私たちは重く受け止めていく必要があると感じます。
貞昌院歴史カフェ講座 が開催されました。
テーマ 義烈空挺隊と特殊攻撃隊
ナビゲータ 元義烈空挺隊飛行第60戦隊支援隊員 Tさん
会場 貞昌院
Tさんの略歴
昭和17年4月 陸軍少年飛行兵学校に入校
昭和18年3月 陸軍少年飛行兵学校を卒業
昭和18年4月 水戸陸軍航空通信学校に入校
昭和19年7月 水戸陸軍航空通信学校を卒業
昭和19年7月 航空通信学校菊池教育隊に配属、少飛16期の班附
昭和19年10月 飛行第60戦隊に転属、埼玉の児玉飛行場へ。
昭和19年12月 フイリピンへの空輸作戦に従事。
フイリピン島クラーク飛行場に着陸時、グラマンから攻撃を受け墜落。他の搭乗者は全員死亡。
野戦病院に収容、後続の連絡機で高崎陸軍病院に収容。
昭和20年2月 飛行第60戦隊、熊本の健軍飛行場に異動。
昭和20年2月~ 健軍飛行場から沖縄の連合軍への反復攻撃30回以上。
昭和20年5月 義烈空挺隊と共に沖縄へ。
昭和20年8月 P38の攻撃で被弾し海に不時着。負傷し入院。
昭和20年8月15日 熊本陸軍病院で終戦を迎える
![]()
熊本市健軍飛行場付近 1947年3月13日 米軍により撮影
左上に熊本城。熊本市街は焼野原である。
右上が健軍飛行場。赤土を固めた滑走路であった(現在の熊本県立大学周辺)
右中、飛行場の南には三菱の軍需工場があった(現在は自衛隊駐屯地)
![]()
左 飛行第60戦隊時代のTさん
右 Tさんが搭乗されていた飛龍。写真の中にTさんが写っています。
(写真はTさんにご提供いただきました)
今回の講座は、昨年秋に貞昌院研修旅行として知覧を訪問したことがきっかけとなりました。
これまでTさんは、戦時中第60戦隊での経験を、両親や兄弟にすら語ったことがなかったそうです。
つい最近、知覧の知覧特攻平和会館で体験を語る機会があったそうですが、今回の貞昌院での講座はそれ以外での初めての機会となりました。
ですから、このブログでは、敢えて本名ではなく、Tさんという表現にさせていただいております。
また、今回の講座では宮崎飛行場で海軍特攻隊に関り、航路決定や気象観測に携わりながら1000人もの特攻隊員を送り出してこられたSさんもお見えになり、陸軍特攻隊、海軍特攻隊それぞれの生の声を伺うことができました。
貞昌院の本堂には永谷から戦地に赴任された方々の遺影が掲げられています。
講座の前に、Tさんは一つひとつの遺影に対し深々と頭を下げておられました。
「戦争はもう続けるべきではない」
「戦争を二度と繰り返してはしてはいけない」
これは歴史講座に元義烈空挺隊飛行第60戦隊支援隊員 Tさんが最初に語られた言葉です。
出撃していった特攻隊員・空挺隊員たちも同様の言葉を残していったそうです。
太平洋戦争における特別攻撃隊は、戦後の日本では戦争の悲劇の代名詞として語られがちです。
しかし、東南アジアにおいてはもっと現実的に物事を捉えられていたりしてします。
ベトナム (フランスによる植民地化)フランス領インドシナ
フィリピン (アメリカによる植民地化)
マレーシア(イギリス領による植民地化)
インドネシア(オランダによる植民地化)
ビルマ (イギリス領インド→イギリス自治領)
東南アジア、特にフィリピンは日本と南方をつなぐ戦略的な要所であり、連合軍は大艦隊をもって獲得に動きました。
昭和19年10月の台湾沖航空戦敗北により、日本軍の第一航空艦隊の戦力は昭和19年当時は零戦僅か40機程度となり、通常の作戦では歯が立たないことは明白でした。
大西瀧治郎海軍中将は圧倒的航空戦力を一時的でも麻痺させるために零戦に250キロ爆弾を抱え、体当たり攻撃を部下たちに提案。
この提案に全員が両手を挙げて賛成したとされています。
連合軍を本土に迎えた場合、アフリカやアジア諸国のように日本は植民地化され、日本民族再興の機会は失われてしまうだろう。
しかし、本土上陸を阻止し、少しでも相手に反撃を行うことができればその分有利な講和ができるだろう。
このため、特攻を行ってでも祖国を護らなければばならない。
日本民族が身をもって祖国を護ったという歴史が語りつがれる限り、自分の死は無駄にはならないだろう・・・
そして神風特別攻撃隊が編成され、10月21日には第一陣が出撃していきました。
イッテマイリマス ノチノニホンニエイコウアレ
特別攻撃隊の強行攻撃は、少なからず後に計画されていた沖縄から九州への上陸作戦(オリンピック作戦)と、その後に行われる本土上陸作戦を躊躇させた要因になったということも指摘されます。
本土決戦が行われた場合、日本軍の民間人を含む強固な反撃により、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想されたからです。
また、もし本土決戦が実行されていれば、日本にとって分割統治計画が現実の物となり、東西ドイツのように日本が分断国家となっていたのではないかとも言われています。
少なくとも現在の日本の姿は無いはずです。
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義烈空挺隊出撃前、隊員それぞれの故郷に向かって遥拝。写真の後ろにはTさんの搭乗された飛龍
(昭和20年5月24日 熊本・健軍飛行場にて Tさん提供)
世界中のあらゆる人は、幸せな平和の日々を送ることを願っています。
人類共通の願いであるといえます。
けれども、残念なことにその平和な世界を願いながらも、一人ひとりが正当を主張し、武力を持ってぶつかり合うという現実があります。
その時、お年寄りや子どもたちのような弱い多くの人々が犠牲になります。
友を失い、愛する人を失って、かけがえの無い人間の一生が無惨に踏みにじられてしまいます。
後ニ続ク者ヲ信ジ日本民族守護の礎石トナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲモッテ応エントスルヤ
(摩文仁の丘 義烈空挺隊慰霊塔碑文)
折りしも今日は成人の日となりました。
戦争中多くの同じような年代の方々が故郷や家族のために命を張って散っていったという事実も語りついでいって欲しいものです。
貞昌院境内には平和を願う火が灯されました。
右写真は貞昌院境内の平和観音です。
出撃前の夜、皆で歌ったのは軍歌ではなく、「兎追いし かの山・・・」
故郷(ふるさと)だったそうです。
「志をはたして いつの日にか帰らん」
特別攻撃隊は敵艦隊に突撃すること、義烈空挺隊は占領されていた空港に強行着陸することを目的としていましたから、彼らには目的を果たしても帰還して着陸する空港などはありません。
けれども、参道の灯りは、まるで、ありえないはずの空港の照明灯のようにも見えました。
■関連ブログ記事
義烈空挺隊 (Googleイメージ検索)
今日の記事は今月11日に貞昌院で開催される歴史カフェのための基礎資料<その1>です。
義号作戦とは太平洋戦争中の1945年5月24日に沖縄戦で、日本軍が「義烈空挺隊」を用いて行った作戦のこと。沖縄のアメリカ軍占領下の飛行場に空挺部隊を乗せた爆撃機が強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に攻撃を行うというものであった。
義烈空挺隊
昭和20年5月24日、諏訪部忠一大尉率いる第3独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が陸軍熊本飛行場を出撃した。12機には奥山道郎少佐率いる義烈空挺隊の隊員が乗り込んでいた。熊本を発った12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされたが、残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還している。戦後の戦史でも戦時中のまま「北飛行場に6機、中飛行場に2機突入」の記録が残った。
他方、アメリカ軍の記録では、義烈空挺隊のうち北飛行場(読谷飛行場)に1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功している。この機体は滑走路に胴体着陸した状態の写真や、機体の撤去作業中の動画などが記録映像に残っておりよく知られている。飛行中に対空砲を浴びて戦死し機内で突っ伏した状態の搭乗員の写真なども残っている。これらの記録映像から最低1機は確実に突入に成功したと考えられる。アメリカ軍の記録などによると、そのほかの機体は激しい対空砲火により飛行場周辺で撃墜されたとされる。
胴体着陸に成功した重爆に乗っていた空挺隊員(及び搭乗員)は、少人数ながら予定通りの地上戦闘・破壊活動を行い、飛行場は混乱に包まれた。後のアメリカ軍の調査によると、駐機中であった航空機9機が破壊炎上したほか、30機近くが損傷を受けた。また、飛行場にあった航空燃料用のガソリンが炎上し、7万ガロンが焼失した。このように飛行場の機能に一定の打撃を与えることには成功したが、天候不良のため日本軍はこの機会を生かすことができなかった。
米軍側死傷者は約20名で、日本兵の遺体は69体(墜落などによって死亡した者も含む)が収容された。空挺隊員1名が生存して同年6月12日ごろに島尻南部に到着、日本軍第32軍司令部に戦果を報告しているが、現在もこの人物の氏名は判明していない。
出典:ウィキペディア(Wikipedia)
義烈空挺隊慰霊塔秋ソレ昭和二十年五月二十四日夜
既ニ敗色濃キ沖縄戦場読谷飛行場ニ特如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ
該機ヨリ踊リ出タル決死ノ将兵ハ飛行場ニ存リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ混乱ノ巷ト化セシメタリ
為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト三日間ニ及ビソノ間我ガ航空特攻機ハ敵艦船ニ対シ多大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリ
コレ我ガ挺進第一連隊ヨリ選出セラレタル義烈空挺隊オヨビ第三独立飛行隊ノ壮挙ニシテ両将兵百十三名全員ココニ悠久ノ大義ニ殉ゼリ
後ニ続ク者ヲ信ジ日本民族守護の礎石トナリシ将兵ノ霊ニ 我等何ヲモッテ応エントスルヤ
(この慰霊塔は、沖縄県平和祈念資料館・摩文仁の丘にあります)
太平洋戦争末期の昭和20年3月26日、連合軍は沖縄の慶良間列島に、4月1日には沖縄本島に上陸を開始。4月3日には沖縄北、中飛行場を制圧します。
日本軍は連合軍の沖縄進攻を阻止し、戦局を一気に逆転させることを目的として菊水作戦を実施しました。
この作戦は、いわゆる特攻作戦であり、4月6日からの菊水第一号作戦から6月21日の菊水第十号作戦まで断続的に続けられました。
うち、特攻作戦が末期的状況を呈しはじめていた5月24日に行われた菊水第七号作戦において、義烈空挺隊による沖縄北飛行場・中飛行場の機能を喪失させる空挺奇襲作戦(義号作戦)が実施されます。
特攻隊は、自らが爆弾となり爆弾を抱えながら敵機へと突っ込む自爆攻撃ですが、義烈空挺隊は航空機による胴体着陸を強行し飛行場内の敵飛行機を爆破し敵司令部・物資集積所を攻撃するというものでした。
強行着陸後に戦闘を行うため機関短銃・手榴弾・爆薬・擲弾筒・軽機関銃などを身に着けての飛行でした。
義烈空挺隊の奥山隊長以下136人は、97式重爆12機に1機当たり操縦正副2名と搭乗員12人の編成で熊本陸軍建軍基地を飛び立ちます。
攻撃隊は連合軍による激しい迎撃を受けつつも、数機が確強行着陸に成功し、連合軍は大混乱となりました。
義号作戦 昭和20年5月24日
健軍飛行場⇒沖縄
飛行第60戦隊(沖縄北飛行場を目標)
先発隊1番機:誘導・照明弾
先発隊2番機:爆撃・戦果確認
先発隊3番機:爆撃・戦果確認
飛行第110戦隊(沖縄中飛行場を目標)
今月11日の貞昌院歴史カフェは、実際に先発隊3番機に搭乗されていた方にお話をいただく予定です。
日時 平成21年1月11日午後2時30分より
場所 貞昌院
準備の都合上、参加希望の方は予めご連絡ください。
FAX 045-843-8864
「義烈空挺隊が行く前にね『ご苦労さん!!』と敬礼して、私達の機は先発でしたから10分先に出たんですよ。それで、通信の場所で立つと表がよく見えるんですよね、天蓋から顔を出して、『行くぞ-』と言うと『頼むぞ-』と旗を振って見送ってくれました。」
「義烈空挺隊の10分前に離陸しました。3中隊のうち私は3番機で、沖縄北飛行場に到着すると1中隊が照明弾を落下、2中隊、3中隊が小型爆弾による爆撃でそれぞれ戦果確認をしました。義烈空挺隊が着陸したら狼煙を上げるようになっていました。黄色か赤の狼煙が上がったら着陸成功と、それを見て何機着陸成功ということを私が報告したんです。それで、4機着陸したんです。4つ見えたと思うから隊長が親指を鼻にかすって、指を4本立てたんですよ。これは4機着陸と言う事で、それを打電したんです。」
このたびお越しくださる方は、このように飛行第60戦隊として義烈空挺隊と共に飛行し、空挺隊が強行着陸しやすいように先制攻撃し、司令本部との通信という重要な任務を果たされました。
また、この前後に何度も数日おきの沖縄への反復飛行攻撃を行いました。
「高射砲はとにかく、主に艦砲射撃でしたがそれは凄かったですよ。両国の花火どころじゃなかった。もの凄かったですから。3000~4000メートルで飛んでいたら皆やられちやいますよ。とにかく探照灯に捕まっちゃったらアウトですね。撃ち方がもの凄いですから・・・。それこそ千発撃って1発当たればいいぐらいの撃ち方でしたね。 それで、あまり上がるとP-38という双胴の夜間戦闘機ですが、こっちが灯火管制で真っ暗にしているんだけど、向こうは前哨灯の明るいのを点けて探しながら飛んでいるんですよ。P-38に捕まっちゃったら向こうは足が速いから大変です。後ろに飛んでいたらわかりますので海上スレスレに逃げて、それでやられなかったんです。だから帰りにはいつも南十字星を見ると、P-38と間違っちゃうんですよ。星が明るいでしょ、大きくてキラキラしているから『P-38が来てる!逃げるぞ!!』と海上スレスレに逃げ込むと『なんだ~、南十字星か・・・』というような失敗もありました。」
けれども、何度かの沖縄への反復攻撃の中で、ついにP-38による攻撃を受け八代の海に不時着。
全身を負傷するも奇跡的に助かり、熊本陸軍病院で終戦を迎えます。
最近のインタビューで戦争について振返り次のような言葉を残されています。
「戦争はもう二度とするもんじゃないと。とにかく私達が中学で教わったのは白人が黄色人種と黒人を駆逐すると、全部植民地にするからそれを防ぐために大東亜戦争をやるということを教わってきました。我々は止むに止まれず大東亜共栄圏を確立するために戦争を始めるということを体の心から叩き付けられていましたから。」
今の平和な日本があるのは、このように命を張って国を護ってこられた多くの先達たちによるお陰でもあります。
人と人が殺しあうということは愚かなことである、そんなことは今の日本では誰だって分かっています。けれども戦時中はどうだったでしょうか。だからこそ、かつて戦争の最前線にいらした方の言葉はとても重いものがあります。
11日はどのようなお話を伺うことができるでしょうか。
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ゴム状硫黄「黄色」です―17歳が実験、教科書変えた
高校化学の教科書に掲載されていた「ゴム状硫黄」の色が間違っていた。山形県の鶴岡高専物質工学科3年の高橋研一さん(17)が気づき、実験で確かめた。指導教員が訂正を申し入れ、出版社側も間違いを確認。教科書の修正につながった。高橋さんは「自分の実験で教科書の記述が変わるなんて予想外。びっくりしている」と話す。
ゴム状硫黄は、硫黄原子が鎖状に並んでできた硫黄の同素体。現在使用中の教科書10種類には「褐色・黒褐色・濃褐色」とあり、大学入試でも「褐色」が正解とされてきた。
高橋さんは、指導教員の金綱秀典教授から「昔、黄色のゴム状硫黄ができたことがある」と聞き、本当かどうか実験で確かめたくなった。
市販の硫黄の粉末を試験管に入れて加熱していくと、流動性が出てくる。これを冷水に流し込むと、弾力性のあるゴム状硫黄となる。
市販の5種類で試した。純度98%の硫黄粉末や99%の硫黄華で作ったゴム状硫黄は褐色や黒色で、試験管に黒い物質が残った。だが99.5%の結晶硫黄だと黄色になり試験管に何も残らなかった。
そこで、黄色いゴム状硫黄に鉄粉を混ぜて溶かし、再びゴム状硫黄にすると褐色に変わった。鉄粉が多いと黒色になった。純度99%以下の硫黄は、不純物で褐色や黒色になると分かった。
金綱教授は、自分も執筆している大日本図書「新版化学I」のゴム状硫黄の写真を差し替え、記述を「ゴム状硫黄は黄色。黒、褐色の着色は不純物による」と直すよう申し入れた。大日本図書も文部科学省に訂正を申請、09年度教科書から「ゴム状硫黄は硫黄の純度が高いと黄色になる」と注を追加することになった。
(2009年1月5日朝日新聞)
今日の夕刊に掲載されていたニュースです。
高校化学で、当たり前のように習ってきたことが、実はそうではなかったということで、とても驚かされました。
ゴム状硫黄とは、硫黄の同素体の一つです。
同素体とは、同じ単一元素から構成される物質であるけれども結晶構造(原子配列)・結合様式が異なる物質群のことです。
それらを互いに同素体であるといいます。
同じ元素から成る単体ではありますが、化学的、物理的性質は全く異なります。
同素体をとるのは、炭素、酸素、硫黄、燐の4種類です。
元素記号の頭文字 C、O、S、P を並び替えて SCOP と覚えたり(懐かしい!)しましたが、それぞれ
炭素Cの同素体 ⇒ ダイヤモンド、黒鉛、無定形炭素、フラーレン、カルビン、カーボンナノチューブ
酸素Oの同素体 ⇒ 酸素、オゾン
硫黄Sの同素体 ⇒ 斜方硫黄、単斜硫黄、ゴム状硫黄
燐 Pの同素体 ⇒ 赤燐、黄燐
という同素体があります。
ちなみに、私の個人的に一番好きな物質はフラーレンなのですが、この場では書くスペースが足りないのでまたいつか記事にします。
さて、硫黄の同素体は上記のように斜方硫黄、単斜硫黄、ゴム状硫黄などの同素体があるわけですが、身近な物質でもあり扱いやすいために実験によく使われます。
⇒(例) 愛知エースネット(愛知県教育委員会)
高校化学では常識のように次のように習っていました。
斜方硫黄は 塊状結晶、黄色、
単斜硫黄は 針状結晶、黄色
ゴム状硫黄は ゴム状固体、褐色もしくは黒褐色
ゴムの製造段階で、耐熱性を持たせるために生ゴムに硫黄を混ぜたりしますが(注)、上記のように硫黄単体でも、ゴム状硫黄というゴム状の性質を持つ同素体があります。
硫黄の中で一番安定した状態は斜方硫黄であり、その他の単斜硫黄、ゴム状硫黄は不安定なため時間が経過すると斜方硫黄へと自然に変化します。
ですから、自然界で普通に見られる硫黄はだいたい斜方硫黄です。
その構造は、硫黄原子8個が環を作って結晶化したものとなっています。
この斜方硫黄を約250℃まで加熱すると、数十万個以上の硫黄原子が繋がった直鎖状の構造となり、それを一気に水中に流し込むと、鎖状の構造のまま固まってしまいます。
これがゴム状硫黄です。
ところが、この際に、少しでも不純物があるとゴム状硫黄は褐色もしくは黒くなってしまい、それがゴム状硫黄の色だとこれまでずっと誤認されていたわけです。
中段にご紹介した 愛知エースネット でも「黒色の無定型の固体で、伸ばすとゴムのように弾性を示す」と説明されています。
なぜ今まで気づかなかったのかということも不思議ですが、あまりにも常識だと頭の中に刷り込まれていたために、仮に他の結果が出たとしても、実験が失敗したと思い込んでその結果を棄却してしまっていたのかもしれません。
しかしながら、そのような現象(黄色くなった)ということにより、これまでの常識に疑問をもち、きちんと検証して証明していった高橋さんと、それを指導した金綱教授には頭が下がります。
科学的方法 (かがくてきほうほう、英: scientific method)とは、物事を調査し、調査結果を整理し、新たな知見を導き出し、知見の正しさを立証するまでの手続きであり、かつそれがある一定の基準を満たしているもののことである。
「一定の基準とはそもそも何か」という問題は諸説があるが、大まかにいえば、その推論過程において「適切な証拠から、適切な推論過程によって演繹されたものとみなせること」が要求される。
(Wikiぺディア)
このように、「再現性があり定量的な測定が可能」であれば、誰が提唱たものであっても、その場できちんと訂正されていきます。
それが科学的であるということでもあります。
あたりまえだと思っていたことも、それが必ずしも正しいとは限らないのです。
科学は、そういうちょっとした疑問から進展していくということが良く分かる事例でした。
科学的でない事項を訂正することは、この事例 とか この事例 とかなかなか大変なのですけれどね。
■蛇足
生ゴムに硫黄を混ぜると耐熱性を持ちますが、さらに炭素(カーボン)を混ぜることにより強度が増します。
車のタイヤが黒いのは、このカーボンの色のためで、ゴムが黒いわけではありません。
!ゴムの鉄人! あなたのゴム業界人度はどのくらい?
(ラバーステーション)
貞昌院の裏山、天神山には「ハロー、ハロー」と鳴くカラスがよく遊びに来ます。
大抵のカラスは「カー、カー」ですが、「ハロー」と鳴くカラス(これを「ハローカラス」と呼んでいました)がいるのです。
このハローカラス、少なくとも10年以上前からその鳴き声を聞いています。
カラスの寿命は野生の状態で10年から20年ほどと言われていますから、おそらく同じ個体なのでしょう。
私たちは勝手に「ハローカラス」と名づけていましたが、検索してみるとこのあたりではかなり有名なカラスのようで、やはり「ハローカラス」と名づけられていました。
まちBBSから、「ハローカラス」に関する部分を抜き出して引用してみます。
☆☆☆上永谷周辺スレッド~その61~☆☆☆
37 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/17(日) 17:21:00 ID:34amB1Ss
最近ハローハローと鳴くカラスがいるんだが…
誰か知ってる?41 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/18(月) 00:29:29 ID:hcrdxFss
>>37
ハローカラス最近見掛け無いと思ったら、そちらの方に移住してましたか。w
こちら旭区左近山付近43 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/18(月) 01:07:19 ID:/WbWCYCA
>>41
鳴き声を耳にするようになったのはここ一カ月以内の事だと思う
そっちの方では既に有名だったんだw44 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/18(月) 05:07:26 ID:6T2Nvb4E
ハローカラス(うちでは2回鳴くのでハロハロカラスと言ってる)
結構前からいますよ、たしかに居ない時期がありますね
なるほど>>41に行ってるんですねw45 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/18(月) 06:53:59 ID:h7qEAqhQ
ハローカラス最近見掛け無いと思ったら、そちらの方に移住してましたかぁ~。
こちら磯子区屏風ヶ浦付近46 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/18(月) 13:41:10 ID:G6zTnyOQ
ハローカラスww47 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/02/18(月) 15:26:28 ID:MzGijiJg
今鳴いてる
正確にはハローではなくアー、アローアローと聞こえる252 名前: 日野9町目民 投稿日: 2008/03/22(土) 02:10:02 ID:LtudSO9.
日野9町目民だけど、ゴミ用のネットボックスを地区全体で導入して以来、
カラスをまったく見なくなった。ハローカラスも来なくなってちょっと寂しいw720 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/06/11(水) 23:47:20 ID:XKDLVlvo
以前、ハローっていうカラスの話題があったが、夕方5時、丸小
近くでアローって言ってるカラスがいた。 うそかと思っていたが、
本当だったんだ。734 名前: 神奈さん 投稿日: 2008/06/13(金) 10:15:20 ID:2qWs8izc
>720
ハローのカラスは上永谷方面にも出没しているんですね。
我が家は平戸ですが、この1ヶ月ほどは家の目の前でハローが鳴いてます。
冬場は余り見かけなかったのですが。。。
ハローの鳴き声聞くと一日楽しくなる。
なるほど…上永谷だけではなく、磯子区や旭区のほうまで行動範囲を広げているのですね。
このブログをお読みの皆さん、どんな鳴き声か聞いてみたいと思いませんか?
そんなご要望にお応えして・・・ようやく録音に成功しましたのでご紹介します。
⇒ ここをクリック (Windows Media Audio file)
どうですか?
ハロー、ハローと聞こえますか?
カラスの頭の良さは有名ですが、その鳴き声は、場合によって細かく使い分けられ、「方言」というよりも個性的な鳴き方をするようなものもいるようです。
カラスは「アホー」かぁ 鳴き声複雑、東西差なさそう
カラス研究で知られる宇都宮大農学部教授の杉田昭栄さんによると、ハシブトガラスの鳴き声は、「威嚇」「求愛」などを示す41種類。豊富な「語彙」を可能にしている秘密は、カラスの「鳴管」にある。人間の声帯にあたるが、カラスでは筋肉や神経が複雑にくっついていて、ほかの鳥より微妙な動きができるそうだ。
カラスの声を研究する同大修士2年の塚原直樹さんに聞いた。「『アオア』とか『アーアー』なら聞きますが、『アホー』はありませんね」
「ホーホケキョ」というウグイスのさえずりは、小笠原では「ジーコ」になる。「でも関東・関西で違いがあるかは不明だし、フクロウやハトなど、単純な鳴き声の鳥は地域差はあまりない。カラスもないでしょう」
「江戸時代から、カラスの鳴き声は『アホー』とされてますよ」と擬音語・擬態語に詳しい埼玉大学教授の山口仲美さん。江戸中期の作家、近松門左衛門の浄瑠璃「用明天皇職人鑑」にはすでに「あほうがらす」という言葉が登場。同後期の戯作者、山東京伝の「繁千話」でも、主人公がカラスに「アホウ、アホウ」とからかわれているのだ。
近松は上方、京伝は江戸。「最初は関西中心に、鳴き声を『アホウ』と表現するようになり、それが江戸にも広まったのでしょう」。文学の世界では、関東でもカラスは「アホー」と鳴いていたのだ。
杉田さんも「カラスが『オハヨウ』と鳴くという人も。同じ鳴き声でも前向きな人はあいさつしたと思い、そうでないと『バカにされた』と怒ってしまうのでは」。
(朝日新聞 2005/03/11 関西版)
鳥は、雛が巣立つ頃になると、仲間の群れの中に連れていって囀りの見本を聞かせトレーニングさせるといいます。
ハローカラスには、ぜひ次世代にも上永谷周辺の個性、「ハロー」を伝承していってもらいたいものです。
11月2日、国学院大学・有栖川宮記念ホールにて開催されたRIRC開設10周年記念・公開研究フォーラム<宗教情報>とメディアリテラシー
に参加してまいりました。
残念ながら、檀務の関係で最初の部分を聞くことができず、途中からの参加となりましたが、個人メモとして残しておきます。
(この記事はkamenoの私的メモですので、その点を予めご理解ください)
RIRC開設10周年記念・公開研究フォーラム
<宗教情報>とメディアリテラシー
日時 2008年11月2日(日) 13:00~17:30
場所 國學院大學・有栖川宮記念ホール
■司会・コーディネータ
井上順孝氏(國學院大學教授・センター長)
■発題者(当日発表順)
西浦恭弘氏(真如苑・宗教情報センター)「宗教情報データベース作成に関わって見えてくること」
弓山達也氏(大正大学教授・宗教情報リサーチセンター研究員)「宗教界と市民をつなぐ―宗教研究ができること―」
本山一博氏(玉光神社・権宮司)「人々の心に潜む霊能や神秘現象への根拠のない期待に応えるメディア」
岡部高弘氏(創価学会副会長)「創価学会のメディア対応について」
高橋直子氏(番組制作リサーチャー)「<スピリチュアル>なバラエティ番組が孕む諸問題」
渡辺直樹氏(大正大学教授・元週刊SPA!編集長)「マスメディアの『宗教』の取り上げ方」
山口貴士氏(弁護士)「信仰を持たない自由、信じさせられない自由」
まずは、フォーラムの主テーマとなっているメディア・リテラシーの用語の確認をしておきましょう。
敢えてウィキペディアより、「メディア・リテラシー」項を見てみます。
メディア・リテラシーメディア・リテラシー(英: media literacy)とは、情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。なお、この項では主に、「情報を評価・識別する能力」という意味のメディア・リテラシーについて記述する。
メディア・リテラシーで取り扱われるメディアには、公的機関やマスメディア(新聞、テレビ、ラジオ等)を始め、映画、音楽、書籍や雑誌等の出版物、インターネット、広告等、様々なものがあり、口コミ(口頭やブログ等)や各種の芸術等も含まれる事がある。
さて、今回のフォーラムは、第一部で各発題者からの発表を一通り行い、第二部でフロアの代表者からの質疑応答、一般からの質疑応答という形で進められました。
冒頭に述べたとおり、私は途中からの参加でありましたが、発題順番が当初予定と異なっていたため、創価学会副会長・岡部高弘氏の発表を真っ先に聞くことができました。
発題者の内容から見えると思いますが、伝統宗教ではなく、新宗教教団~カルト、霊感商法、マスメディアの立場からの視点が重視された内容となっています。
また、宗教勧誘・折伏などの際に「インフォームド・コンセント」をどのように行うべきかという論議がかなり活発に行われました。
■岡部高弘氏(創価学会副会長)「創価学会のメディア対応について」
・マスメディア向けとして年度別活動、池田名誉会長の国際的活動、平和活動などの情報発信を行っている
・新聞広告(年数回)
・ラジオ番組として一般的な音楽、旅番組の提供
・テレビ番組の提供は、放送基準が厳しく、金銭的な制約もあるためなかなか行えない
・インターネットは公式サイトに月間1000万PVのアクセス
・出版は聖教新聞や、アニュアルレポートの発信、潮出版など
メディアの教団イメージと、内部で考えている実像の乖離が激しく、バッシング報道が多い観がある。客観報道されず、結果として作られたイメージに誘導されることがある。あまりに酷い場合は法的手段を講じる必要性もある。
災害の際に救援活動として会館を開放したことなど、地味な活動、社会貢献活動が取り上げられない。そのようなことをどのように伝えていただけるのか、メディアと教団がよりより関係を結ぶためにはどのようにしたらいいかを模索している段階である。
新聞、メディアの中で、宗教担当記者が減少していることが懸念事項である。
<個人的感想>
発題の内容は概ね既に出されているような内容であり、差し障りの無い部分をコンパクトに纏めた感がありました。
それでも、バッシング報道が多いということと、中々地道な活動を取り上げていただけないという部分は、本音をチラリと覗かせた部分もあります。
地道な活動を取り上げられにくいという面では、伝統仏教も同様であり、例えば曹洞宗では阪神淡路大震災において、拠点寺院に全国から僧侶・婦人会関係者が集まり、組織的に救援活動を行いました。けれども、そのような活動についてどれだけマスメディアが報道したかということを振り返ると良くわかることです。
宗教担当記者がマスメディアから減っているという懸念については同意します。
最近感じることは、創価学会関係のテレビCMが増えていることです。
特に創価大学のCMは先月スポット的にかなりの量が流されていると感じました。また、いわゆる「学会タレント」や、教育機関、法曹界、官僚などに送り込み、内部から影響力をもつメディアを支配していくという動きもあるはずです。そのようなことまで踏み込んだ論議がなされなかったことが少し残念でした。(このあたりは敢えて制限したのでしょう)
■高橋直子氏(番組制作リサーチャー)「<スピリチュアル>なバラエティ番組が孕む諸問題」
自身の関った学校の怪談を取り上げた番組について、具体的な体験談を元に発題されました。
夜中12時にスプーンを後ろ向きに投げて「チャリーン」と音がしたら幽霊がいない、音がしなかったら幽霊がいる・・・という怪談を元にドラマ化した番組が放送前に問題となり、内容変更となった。問題となった基準は「模倣性」
しかし、番組の後半に霊能者にタレントが霊視されるコーナーはあまり問題とならなかった。
霊能者は、これまでの活躍の実績や、問題を起こしていない場合には良しとされるきらいがある。
「スピリチュアル番組」と「不思議現象番組」を分けて考えることにより、問題はある程度クリアになる。
「不思議現象番組」では、ある程度「やらせ」であることが視聴者にはわかっており、フィクションを共有することにより、嘘か本当か迷うというところに「楽しさ」がある(というより、あった)。
しかし、最近は「アポロ13号の疑惑」を放送した際にBPOに苦情が届くようになり、やらせが許容出来ない状況が顕著になった。
やがて、「不思議現象」を取り上げた番組は不振となる一方で「霊能」「霊視」の真偽を問わずに感動を謳う「スピリチュアル」な番組が登場した。
「スピリチュアル」な番組は、「真実か否か」ではなく、「必要か否か」というニーズの次元で論議される。
また、番組放送構成上、スピリチュアルや不思議現象を「肯定」の立場で製作するために、そこには否定的や懐疑の視点が抜け落ちている。
⇒スピリチュアルな霊能番組は、特殊な宗教観に基づいて話題が展開され、視聴者に受動的な姿勢を強要する偏った関係性を構築するという問題点を孕んでいる。
<個人的感想>
やらせ、仕込みについては、視聴者からの厳しい目が届くようになり、番組制作側もその点は十分に考慮するようになったと感じる。
しかし、例えばNHKの昼の生番組であっても、予めインタビューする人や内容を打ち合わせしてあったり、台本どおりに事前準備を行うことは暗黙の領海であったりします。
視聴者にとって、どこまでが真実で、どこまでが「仕込み」なのかが明確にわかることであれば、問題は少ないでしょう。
けれども、高橋氏の指摘されるように、不思議現象を否定的や懐疑の視点が抜け落ちた番組制作を行い、それを放送するということは大いに問題があると言わざるを得ません。
霊能者にタレントが霊視されるコーナーで、タレントがあまりにも真剣な表情で霊能者の言葉を受け入れてしまっている様子が収録されたという実例については、放送基準の見直しも含めて、製作側の意識改革も求められるところだと感じます。
■渡辺直樹氏(大正大学教授・元週刊SPA!編集長)「マスメディアの『宗教』の取り上げ方」
宗教担当記者の不在について
事件がらみは社会部、文化現象は文化部などが担当。
宗教担当は殆ど無い。
宗教欄⇒こころ、人生・・・など、言葉を置き換える動き
関東よりは京都・大阪
民族、同和問題と同レベルに扱われる・・・新聞社は役所と組織のあり方が似ている。
宗教の取り上げ方の3つのスタンス
(1)持ち上げる、賞讃する
(2)スキャンダル、貶める
(3)日本の伝統文化
上記以外ではなかなか取り上げることが無い。
日本の中では、いまだに悩みや生き方について宗教的なものを求めるというよりも、「普通の日本人が」「異質なもの」に対する「異質性の強調」として扱われることが多いことに起因するのだろう。
一般の方が宗教について幅広い知識を持ち考えることが出来るようなデータベースを構築したい。
<個人的感想>
マスコミ側の情報発信の姿勢について、まさに「メディア・リテラシー」というものはマスメディア側にこそ求められているものであると感じました。
■山口貴士氏(弁護士)「信仰を持たない自由、信じさせられない自由」
憲法20条1項「信教の自由」
信仰を持たない自由、信じない自由も保障される。
宗教団体の自由と個人の自由が衝突する場合、個人の自由が優先されるべきであり、宗教信仰の自由は「インフォームド・コンセント」により、各個人が選択して行われるべきと考える。
騙されたとして弁護士事務局に駆け込んでくる方は「宗教に救われるのではなく、宗教に足元を掬われた」方である。
宗教側に求められる「インフォームド・コンセント」とは、教団の情報提供義務・説明義務・助言義務・適合性などである。
信仰は部外者にとっては不合理、非論理的な面があり、それを信じると是正の可能性が薄れる。合理的に脱会させることが難しい。さらに脱会した後の生き方をサポートすることはさらに難しい。
従って、最初に宗教を信じることが、一生を左右するということを予め説明する必要がある。
「インフォームド・コンセント」の範囲
・宗教であることを隠してはいけない。
・教義
・信者としての義務
<個人的感想>
駅前で手相の勉強をしていると近づいてくる団体について、「○○教会です」「合同結婚式をします」「多額の金銭が必要です」「文鮮明の奴隷となります」とまで説明した上で、それでも入信した方にとっては、その人の自由だから何もいえないということですが、そもそも医療現場から発生した考え方である「インフォームド・コンセント」を宗教に適用することができるのか、適用することが適切なのかということについてはよく論議していく必要があるでしょう。
宗教ではないと主張している団体にとってどのように考えるか、難しい問題を孕んでいます。
■今日のブログ記事は前半第一部についてメモ記録を元に記載しました。
第二部については後ほど改めて記事にします。
<以下続く>
そのタイトルは『メディアを語る宗教学者のリテラシー』。
考えさせられますね。
PJニュース用の取材交渉中、取材条件を小出しに示されたので「取材条件を全て明示してほしい」と求めたら、一転して取材を拒否された。相手は、宗教報道などでメディアにも登場する國學院大學教授で宗教情報リサーチセンター(RIRC)センター長の井上順孝氏だ。11月2日、東京・國學院大學で「RIRC開設10周年記念・公開研究フォーラム <宗教情報>とメディアリテラシー」が開催される。創価学会副会長・岡部高弘氏が「創価学会のメディア対応について」というテーマで語るほか、他宗教団体の関係者や弁護士、宗教研究者、メディア関係者が発題者として名を連ねる、非常に興味深いイベントだ。ぜひ、多くの人にお勧めしたい。
記者は井上氏と面識もあったので、9月末、彼に直接連絡を取り、PJニュースで記事にすることを前提にフォーラムの取材を申し入れた。井上氏からは、こんな趣旨の返答がきた。
・録音と動画撮影は一律禁止
・写真撮影は報道のみに許可
・取材はPJニュースであれば問題ないと思う
・とりあえずフォーラム参加自体は認める「公開研究フォーラム」と銘打たれているものの、取材はもちろん一般参加も事前申し込みによる許可制である。
その後、「人物の顔をあまり大写しにしないように」という条件を付けられた。発題者の顔を撮影できないのであれば、下手をしたら会場全景写真くらいしか撮れなくなる。念のため「フロアの一般参加者ではなく発題者の顔を撮るなという意味か?」と確認した。返答は、やはり発題者の顔を撮影するなというものだったが、今度は「発題者については複数の人を同時に写す」ようにと書いてある。前回示された条件より緩くなったが、やりとりの度に条件が変わるのも困ったものだ。ルールに従う意向を明示した上で、「条件があるなら全て正確に示してほしい」と伝えた。ところが井上氏は、記者が取材条件を尋ねたことを理由に取材を拒否してきた。
これまでのライター経験で、こんなことは初めてだ。制約がある取材ほど、制約の内容を明確にすることは双方にとって不可欠のはず。記者のワガママではないし、ルールに異も唱(とな)えず「従う」と明記しているのだからクレームですらない。しかし、最終的に井上氏は、こう連絡してきた。
「今回は従来の原則どおり新聞社だけに限るという方針にさせていただきますので、ご了承ください」(井上氏のメールより)
井上氏はおそらく、やましいことがあって取材を拒否したかったわけではない。メールの文脈からして、取材条件を明示したくない(あるいはできない)ために、「新聞社に限る」というルールを持ち出して取材拒否を正当化しようとしたのだ。しかし、取材を拒否されたことより、ことの経緯と論理に問題を感じる。
仮に記者が疑問を口にせず「YES」とだけ言っていれば、おそらく取材は可能だった。しかし、この程度の疑問も口にできない関係は、不健全ななれ合いどころか主従関係であるとさえ言える。例えば官公庁などの閉鎖的な記者クラブ制度は、取材する側・される側のなれ合いと権力者によるメディア・コントロールを招きやすく、しばしば社会的な批判の的となる。情報の受け手側のリテラシーを考える上でも非常に重要な問題だ。
RIRCは私的団体ではなく、公益法人である「財団法人国際宗教研究所」の付属機関である。同法人のウェブサイトに、こんな記述がある。
「(略)日本の宗教界、宗教ジャーナリズム、宗教研究者等のニーズに応えていくことを目指しています」しかしなれ合い以外の選択を与えない取材対応は、ジャーナリズムへの貢献を謳(うた)う同法人の理念と逆行する。ましてや今回のフォーラムは、メディアやリテラシーそのものがテーマだ。RIRCセンター長としてフォーラムの司会に立つ井上氏の対応が、不可解でならない。
(2008年10月28日 PJニュース)
■関連リンク
宗教情報リサーチセンター(RIRC)
■関連記事
「〈宗教情報〉とメディアリテラシー」フォーラム雑感(つらつら日暮し)
前回の記事と関連するのですが、今回は経典の文字が間違っているのではないか?という事例を提起してみます。
一例として、『修證義(しゅしょうぎ)』第1章(総序)の中の一部を
『永平寺日課経大全』(編集発行・大本山永平寺)と、『諸嶽山總持寺日課諸経要集』(発行・財団法人大本山總持寺僧堂興隆会)から抜粋してみます。

左:『諸嶽山總持寺日課諸経要集』
右:『永平寺日課経大全』
總持寺版は「にくづき(もしかすると月偏?)」、永平寺版は「目偏」となっていて異なる字です。
このような字があるのかということを調べましたが、どうやら無いようです。
また、原典にそのような字で書かれているかどうかについても、どうやらそうでは無いようです。
(もし、にくづき、若しくは、目偏が正しそうだという根拠がお分かりの方は是非お教えください)
「日偏」の暱(昵)であるのなら、意味は良くわかります。
しんじつ ―ぢつ 【親昵】(名)スルしたしみなじむこと。昵懇(じつこん)。
「―の間柄」「自己の―せる人の高位に登るに服せずして/日本開化小史(卯吉)」
(大辞林 第二版 ・三省堂)
この字を含む一節は、「無常忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親暱(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子珍宝たすくる無し・・・」となり、意味は「死(無常)が突然にやってきた時には、国王も大臣も、親しい友も従う部下も、妻子も財産も、手を貸してはくれるわけにはいかないのです・・・」となります。
経典の漢字がもしも間違っていたとしたら、それを訂正することは困難なことなのでしょうか。
これも疑問として提示しておきます。
食事の前にお唱えする「五観の偈」
修行道場で使われている経本には次のように印刷されております。

食事五観之偈一つには 功の多少を計り。彼の来処を量る。
二つには 己が徳行の全欠を忖つて供に応ず
三つには 心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四つには 正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為めなり。
五つには 成道の為めの故に今此の食を受く『永平寺日課経大全』(編集発行・大本山永平寺)より引用
五観之偈
一つには 功の多少を計り、彼の來處を量る。
二つには 己が德行の、全缼と忖つて供に應ず。
三つには 心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす。
四つには 正に良藥を事とすることは、形枯を療ぜんが爲めなり。
五つには 成道の爲めの故に、今此の食を受く。『諸嶽山總持寺日課諸経要集』(発行・財団法人大本山總持寺僧堂興隆会)より引用
<句点、句読点、漢字、送り仮名は原文ママ>
読み下しの仕方により、意味は大きく異なってきてしまいますが、曹洞宗では、食事の際に、五観之偈の第3句を「三つには、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす」とお唱えすることになっています。
修行に入ってから、しばらくは、何の疑問も無く読んでいたのですが、その意味を考える余裕ができたころから、第3句目について、この読み方で良いのだろうか?という疑問が生じてきました。
周囲の多くの方にお尋ねしたりしましたがどうもすっきりしません。
五観偈「五観の偈」とも読む。「五観想」ともいう。
食事の際に、感謝の気持ちを示し、自らを反省し戒めるための五つの綱目。『勅修百丈清規』には「五観の想念を作す」とあって、心に想い描くものであったが、現在では口に唱えることが通例である。
偈の内容は、『禅苑清規』の受食之法によれば、「一つには、功の多少を計り彼の来処を量る(食事を作る苦労や、それらの出処を想いはかる)。二つには、己が徳行の全欠を忖つて供に応ず(自分が〔食事を受けるに値する〕善い行いをしてきたかどうかを考えて食事をいただく)。三つには、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす(迷いの心を防ぎ、過ちを離れる際に、貧瞋痴〔むさぼり・いかり・おろかさの3つの煩悩〕を中心に考える)。四つには、正に良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり(〔この食事を〕良薬としていただくのは、身体の衰えを防ぐためである)。五つには、成道の為めの故に今此の食を受く(仏道修行の完成のために、今この食事をいただく)」の五つ。
ただし、臨済宗では第3句を「三つには、心の防ぎ、過・貪等を離るることを宗とす(心の散乱を防ぎ、過ちや貧瞋痴を離れることを宗とする)」と訓読し、また、『諸回向清規』によって、第5句を「五つには、道業を成ぜんが為に、応に此の食を受く(修行という行為の完成のために、この食事をいただく)とする。『禅の思想辞典』(東京書籍,田上太秀/石井修道編,2008)
下線はkameno記載
個人的意見をあえて述べさせていただくと、やはり意味から考えるに、臨済宗や黄檗宗のように「三つには、心の防ぎ、過・貪等を離るることを宗とす」と唱えることが意味を捉えやすい感じがします。
もっと言えば、曹洞宗の読み下しの方法が、もしかしたら間違っているのではないかという気もします。
しかし、曹洞宗で「三つには、心を防ぎ過を離るることは、貪等を宗とす」と規定しているとすれば、貞昌院の坐禅会で、臨済宗の読み方によるお唱えはできないでしょう。
もうひとつ、『永平寺日課経大全』の「食事五観之偈 」には、句読点が第2句と第5句にはありませんが、その打ち方に何か意味があるのでしょうか。
ちょっとした疑問でした。
共済年金でも未統合 181万件新たに判明年金受給者と加入者一億人に一つずつ付けられる基礎年金番号が導入された一九九七年以前に、公務員や私立学校の教員を退職した人のうち、約百八十一万件の共済年金の記録が基礎年金番号に統合されていないことが分かった。財務省、総務省、文部科学省、社会保険庁の関係四省庁が共産党の小池晃参院議員に回答した。
基礎年金番号に統合されず該当者不明となっている約五千万件の記録は厚生・国民両年金の記録で、共済年金は含まれないため、未統合の記録はさらに増えた形となる。
社保庁は、九七年以前に共済年金を脱退した人の記録については、年金受給開始時に基礎年金番号に順次統合し、厚生・共済両年金の一元化が予定される二〇一〇年三月をめどに、統合を完了させる方針を示している。
基礎年金番号に未統合なのは今年三-六月の時点で、国家公務員共済約六十七万件、地方公務員共済約六十八万件、私学共済約四十六万件。
(2007年6月26日 中日新聞)
私にもねんきん特別便が届きました。
公務員共済ねんきん特別便と社会保険庁の年金特別便の2通が別々に届きましたので、冒頭のニュースの181万件に該当することになっている事がわかりました。
それぞれの特別便には、それぞれの加入期間のみしか記載されていないので、2通を併せ持たないと意味をなしません。
なぜ統合されていないのかというと、会社員の「厚生年金」と公務員の「共済年金」の制度の違いをどのようにすり合わせるかという根本的な論議が先送りされていることに起因するものです。
年金制度は3つの層に分類されます。
【年金制度の3つの層】
3層 厚生年金基金 適格退職年金 職域年金
2層 国民年金基金 厚生年金共済年金
1層 国民年金(基礎年金) 第1号被保険者(自営業) 第2号被保険者(民間企業・公務員) 第3号被保険者(配偶者)
同じ「1層目の2号被保険者」というカテゴリーに分類されておりますが、会社員と公務員とでは、厚生年金と共済年金という別の組織により扱われます。
2つの制度のうち、一番の違いは「職域加算」と「追加費用」です。
まず、「職域加算」とは、公務員の共済年金にのみ上乗せされるものです。このために、公務員はおよそ月に2万円の上乗せされた年金を受取ることができます。
次に「追加費用」ですが、公務員の共済年金にだけ投入される税金です。
簡単に言うと、年金の面で公務員は優遇されているわけですね。
これを一元化するためには、当然「職域加算」と「追加費用」をどうするかということが問題になるわけです。
公務員の上乗せ部分を、厚生年金から流用することが許容されるのか。
それが許容されなければ、公務員の共済年金支給をざっくり削減するか、現役の公務員にその分を負担させなければならないでしょう。
政府は2010年までに、厚生年金と共済年金を統合する方針を打出しています。
ただ、順調に統合が進むかどうかは不透明な状況です。
ということで、私のように1997年以前に公務員を退職し、国民年金や厚生年金に切り替えた人(181万人)は、社会保険庁へのねんきん特別便の回答に、「加入暦の漏れがある」として、さらに共済年金特別便のコピーを添付して、返送しないとならないわけですね。
それでも、共済年金のように、ねんきん記録が送られてくる場合はまだマシなのでしょう。
一般の会社、自営業などで該当不明になっている5千万件の方たちは、きちんと全員が統合される日が来るのでしょうか。
統合までに何年かかるのか気が遠くなる作業を、これまた税金を投入して行っていると思うと複雑な思いです。
| 開会日 : 2008年10月15日 (水) 会議名 : 予算委員会 |
| 参考人の出席要求に関する件 平成二十年度一般会計補正予算(第1号)(閣予第1号) 平成二十年度特別会計補正予算(特第1号)(閣予第2号) 平成二十年度政府関係機関補正予算(機第1号)(閣予第3号) |
質疑者等(発言順) 動画形式 |
本日の記事では、各マスコミがどのように取り上げるかについて着目したいと思います。
石井一議員は、ちょうど一年前(平成19年10月16日)の参議院予算委員会においても、国会議員が公明党本部を通じて創価学会に納める上納金と、国会議員から池田大作名誉会長へのP献金になど、創価学会と公明党との関係について追及しています。
しかし、これについて、テレビや新聞などのマスコミではまったく取り上げられませんでした。
いわゆる報道のタブーの領域です。
そして、昨日の予算委員会。
わたしもリアルタイムでテレビ中継を見ておりましたが、それに対して6時間後の段階で各メディアがどのように取り上げているかを並べてみました。
| 時事通信 | 読売新聞 | 毎日新聞 | 朝日新聞 | フジテレビ |
| 政教分離で民主・公明がバトル=創価学会・池田氏招致に言及 | 政教分離問題、民主が公明に揺さぶり…参院予算委 | 参院予算委 民主・石井氏の「政教分離問題」質問で紛糾 | 民主・石井副代表、創価学会名誉会長・池田大作氏らの国会招致を要求 | |
(2008/10/15-20:21) |
石井氏は、政治と宗教に関する集中審議の必要性に言及、池田大作・創価学会名誉会長らの参考人招致を求める考えも示唆した。公明党を揺さぶり、早期の衆院解散・総選挙につなげる狙いがあったと見られる。 これに対し、麻生首相は「政治家でない人を安易に参考人招致するのはいかがか」とけん制。石井氏の後に質問した公明党の山口政調会長は「政府が答弁できないようなことを質問するのは厳に慎むべきだ」と猛反発した。 (2008年10月15日23時00分 ) |
公明党を揺さぶることで、同党から自民党への衆院解散圧力を強めることを狙った戦術。「解散しないなら容赦はしない」とばかりに、創価学会の池田大作名誉会長や矢野絢也元公明党委員長らの国会招致に言及し、ボルテージを上げた。さらに、学会関係者の国会招致について、「この国会が続けばしっかりやっていただく」と述べ、首相が衆院解散に踏み切らない場合は、要求を本格化するとの姿勢を強調した。 首相は「詳しくないのでコメントは差し控える」「話がすれ違っている」などとかわしたが、何度も感想や意見を求められ困惑気味だった。 10月15日20時14分配信 |
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各メディアの特色が出ています。一種類のソースから判断することの危険性もよくわかります。
明日の朝刊にどのように印字されているのか、どのような扱いになっているのかについても着目してみたいと思います。
■関連サイト
報道におけるタブー 『ウィキペディア(Wikipedia)』
※追記
ウィキペディア(Wikipedia)についても、多数の方が情報提供、編集を行っているという前提で利用する必要があります。
Wikipeで特定の国会議員に関する不都合な記述が一斉削除、編集は衆議院内部から(GIGAZINE)
仏教情報センター相談員研修会が開かれました。
テーマは
『「仏壇は必要ですか?」にどう答えますか』
~本尊・位牌・供物などの意味を考える~
仏教情報センターは、伝統仏教各宗派の僧侶がボランティアとして、テレホン相談をはじめとするさまざまな事業を行っています。さまざまな宗派があるために、それぞれの宗派の教義を知ることも大切です。
また、近年多く寄せられる相談の中で、仏壇に関する質問が多く見られる様になりました。
これまでは当たり前のように日本家屋の要として置かれていた仏間が少なくなり、仏壇に対する意識も変わってきています。
そこで、各宗派の仏壇の特徴、考え方、標題の質問にどのように答えていくのか。
今回の研修では
真言宗(智山派)、浄土宗、浄土真宗(本願寺派)、曹洞宗、日蓮宗、天台宗の代表がパネリストになり論議されました。
曹洞宗は私が発表をさせていただくことになりました。
内容は
(1)「家に仏壇を置く意義と仏壇にお参りする意味」パネラー各5分
(2)質疑応答
(3)一仏教者として仏壇をとう捉えるか
(4)質疑応答
という流れです。
研修の内容は、残念ながら非公開ということで、ここでは詳細には記述いたしませんが、私の発表の要旨については追ってご紹介していきたいと思います。
ひとつ残念だったことは、仏壇業界の情報紙の記者さんがお越しくださったのですが、取材ストップがかかってしまったことです。
仏壇をお祀りする方の意識変化などを感じているのは、僧侶だけではなく、仏壇業界の方々だと思います。
むしろ、私たちに届いている声はほんの一握りで、仏壇業界の方が九分どおり受け止めているといってもいいかもしれません。
ですから、このような問題は仏壇業界の方々と連携して取り組んでいかなければならないはずです。
情報発信の方法も、単に取材拒否をするのではなく、例えば「一般から仏壇屋さんに届いた質問や疑問は、是非とも僧侶側にもお気軽にお寄せください」という趣旨で仏具屋さんがお読みになる情報紙に記事を掲載していただくようお願いすることも一つだと思います。
このような問題は僧侶だけが取り組んでも建設的な解決の方向には進まないと感じます。
研修の内容が素晴らしかっただけに、余計そのような思いが残りました。
「神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例(仮称)」骨子案 (案) (平成20年9月)が今月9日、神奈川県より公表されました。
この条例の目的は
受動喫煙による健康影響を防止し県民の健康を守るためには、すべての公共的施設において、早期に受動喫煙防止対策が徹底されることが望ましいと考えます。
また、喫煙者・非喫煙者の双方の自由や事業者の経済的自由等にも配慮することが求められます。
そこで、県では、受動喫煙防止対策を実効のあるものとし、また規制についてきめ細かい配慮をするため、施設の性質、利用の実態等に応じた規制とするとともに、あわせて、本条例では規制の対象とはしていない職場や家庭も含めた受動喫煙の防止を促進するための施策を定めることとしました。
なお、未成年者は受動喫煙による健康影響についての正しい知識や、自ら受動喫煙を避ける判断能力・行動能力が必ずしも十分でないため、より受動喫煙による健康影響を受けやすいと考えられますので、可能な限り、その保護が図られるようにしました。
(神奈川県のホームページより)
ということです。
神奈川県は、当初「不特定多数の人が利用する施設での原則禁煙」を条例の骨子とすることを目指していましたが、そこまでは踏み込めず、居酒屋やパチンコ店などでは分煙という骨子となりました。
さらに、キャバレーやパチンコ店などは、3年間は猶予期間が与えられ、条例の対象にはなっていません。
理由は業界からの反発が大きかったことと、元々喫煙率が高い場所にこの条例を適用することに無理があると判断したことによるものだそうですが、それで良いのでしょうか。
条例を簡潔にまとめると
■第1種施設は原則禁煙 ■第2種施設は分煙・喫煙を選択できる ■第2種の次の施設は分煙化への移行に3年の猶予 ■該当しない場所 ■罰則 |
ということです。
原則禁煙とされる「第1種施設」には、学校、体育館、病院、劇場、百貨店、官公庁、公共交通機関、金融機関、社会福祉施設などが列挙されております。
では、お寺はどのような位置づけになっているかというと
第1種施設
(6) 集会場 公民館、児童館、結婚式場、葬祭場、火葬場、納骨堂、境内建物、その他これらに類する施設
として、利用者に選択の余地が無い(もしくはほとんど無い)、代替性が低い施設、健康維持や健康増進を目的に利用される施設、多数の者が集合して利用する施設及び他法令(条例を含む。)等により喫煙が規制されている「第1種施設」として分類されています。
したがって、お寺の本堂、客間、境内建物(庫裏を除く)については、原則禁煙が義務付けられることになります。
さて、ここで、この条例の根拠となる受動喫煙の害について見てみましょう。
受動喫煙とは、喫煙者の周囲の人が、自分の意思とは無関係に「環境たばこ煙」に曝露され、それを吸入することと定義されます。
「環境たばこ煙」とは、「副流煙」(喫煙者が直接吸う主流煙に対し、たばこの先から立ち上る煙)と、「呼出煙」(喫煙者の吐き出す煙)が混じり合った煙でありますが、この「副流煙」は、喫煙者が直接吸引する「主流煙」よりも非常に多くの有害物質が含まれていることが問題となっているのです。
たばこの主流煙と副流煙の有害物質
| 有害物質 | 主流煙(mg/本) |
副流煙(mg/本) |
|
| 気相 | 一酸化炭素 | 31.4 |
148.0 |
| 二酸化炭素 | 63.5 |
79.5 |
|
| 窒素酸化物 | 0.014 |
0.051 |
|
| アンモニア | 0.16 |
7.4 |
|
| 粒子相 | ニコチン(フィルターなし) | 0.92 |
1.69 |
| ニコチン(フィルターあり) | 0.46 |
1.27 |
|
| ベンツピレン | 3.5×10α(※) |
13.5×10α(※) |
|
| フェノール系 | 0.228 |
0.603 |
(※)10 α=10 万分の1 (10 のマイナス5 乗) (US Dep.Health,Education and Welfare:The Health Consequences of Smoking(1975),1975 )
このように受動喫煙による健康影響は明確な根拠があります。
神奈川県の条例<案>は全国の自治体に先駆けて検討されている厳しい内容のものとなっておりますが、むしろ今までこのような規則が整備されていなかったことの方が問題であると感じます。
「お寺でも禁煙」ということが常識であるという認識をもつことが必要になります。
今年より仏教テレフォン相談のお手伝いをさせていただいております。
寺や僧侶との関わりが薄れ、仏教の教えに触れることが稀となった現代・・・「生前に墓を建ててもいいか」「家族だけで葬儀をしたい」「成仏していない先祖がいると言われた」「他人と上手に付合えない」など、仏事・信仰・人生に関わる悩みや疑問の電話が毎日寄せられています。 (仏教テレフォン相談のサイトより)
平成19年度の仏教テレフォン相談について、統計分析がまとまりました。
その概要は、仏教情報センター機関紙『仏教ライフ』に掲載されておりますが、その一部をかいつまんでご紹介します。
期間 平成19年6月~平成20年5月 <開設25年目>
相談開室日数 217日
相談者数 3599人 (1日平均 16.6人)
相談総件数 4274件 (1日平均 19.7人)
相談される方は、男女とも50代、60代の方が多くなっています。
本来ならば、仕事も家庭、子育ても一段落して、安定して人生を楽しんで良いはずの方々が誰よりも一番苦しんでいます。
「団塊の世代」と言われる方々の悩みは多岐に渡ります。悩みがなぜ生まれるのか、その悩みは何処に向かうのか、私たちは学ばなければならないでしょう。
相談内容は、圧倒的に人生相談が多くなっています。
仏事の常識やマナー、法要の意味、仏教全般に対する質問であれば、お応えする側も知識経験を元にそれなりに対応することができるのですが、人生相談、それも重い内容であればあるほど、対応する側の資質が問われます。
粗雑な言葉は世の乱れを生み、愛心なく慈心のない生命(いのち)を軽視した社会に拍車をかけます。 言葉は思いのあらわれであり、単なる言語や伝達手段ではありません。自らの人格を宿し、自らの人格をつくるのです。一語一語を大切にしなければなりません。 (平成20年度 曹洞宗布教教化に関する告諭)
相談の電話はひっきりなしにかかってきます。
それだけ求められているということは、嬉しいことではありますが、限られた時間で対応していかないと、他の相談者の機会を損なってしまうことになります。
短い限られた時間の中で、いかに相談者の悩みを取り除くことが出来るのだろうか・・・
カウンセリングの基礎を学ぶことも大切ですし、それを現場で適切に対応することがさらに大切だということを実感します。
この日は16件の相談を担当させていただきました。
相談担当者は複数居りますので、センターとしてのこの日の相談件数は平均から比べるとかなり多い数となりました。
机の上のキャラクター。
窓の外からの光を受けて首を左右に振っています。
「おこらない、おこらない」
仏教テレフォン相談以外でも、様々な相談を受ける事は多いですし、世の中には様々な悩みが渦巻いていることを実感します。
少しでも悩みが減りますように切に願います。
![]()
破壊された仏像に手向けられた聖なる白布・カタ [チベット・砕かれた仏の国]より。野町和嘉氏撮影。
チベットでは、ダライ・ラマを最高位として、哲学を修め、徳をそなえた高僧こそがチベット文化の核心であると人々は信じてきた。アディを戦慄させたのは、中国が行った高僧に対する残酷な精神破壊の数々であった。それらの『儀式』は大衆への見せしめとして行われた。
チベットではごく普通の人々でも、生きものは虫一匹とて決して殺さない。すべての生きものは因果応報によって生まれ変わった人間の姿であるかも知れないと深く信じられているからだ。その高僧は後頭部に銃を突きつけられ、手錠をかけられたその手には金槌が握らされていた。そしてこともあろうに、台の上には菜っ葉からつかまえてきた青虫が一匹ずつ置かれ、それを叩き潰させるのである。
<中略>
こうした弾圧は、中国が文化大革命に突入するずっと以前の、1950年代後半から始まっていた。チベット全土がこうして悪夢にうなされていたときにも、共産主義者の謀略を逃れたダライ・ラマが、インドにあって仏法を守り続けていたことが、チベットの人々にとってどれほどの支えとなったかは計り知れない。
(チベット『天の大地』1994年 集英社刊より)
これは、高知県出身のフォトジャーナリスト、野町和嘉氏によるチベットの戦慄のドキュメンタリー『天の大地』です。
ここに引用した文章は中国が行ったチベット僧たちに対する思いつく限りの恥辱のほんの一部ですので、是非 チベット・砕かれた仏の国 をご覧いただくことをお薦めします。
野町和嘉氏は、1988年以来チベットに通い、極限高地の信仰と暮らしを撮影し続けています。
また、イスラームの聖地であるメッカ・メディナの撮影をサウジアラビアより正式に要請されたことがきっかけでイスラームに改宗、メッカ大巡礼の全容を内面から撮影されてきました。
信仰のもつ力、それは計り知れないエネルギーとなります。
チベットが中国軍に降伏した以降は、チベット僧侶、チベット人たちは餓えと拷問、強制労働を余儀なくされます。
そのなかで、僧侶たちにとって一番耐え難いものは、収容所となった寺院内で、僧侶たちだけに強制させられた仏像や経典類破壊の罰則であったといいます。
野町氏は、亡命政府の置かれている、インド・ダラムサラで20人以上の亡命者に様々な質問を試みたそうですが、ほとんどの方が胸の内を開くことは無かったそうです。
僧侶の中には、あまりに苛酷な精神重圧により、人を信じることができなくなってしまったものもいます。
「私をひどい目にあわせた中国人たちを思うと哀れでなりません。拷問の痛みで眠れない夜、あの人たちが来世に背負ってゆくことになる業の深さを、私は何度も考えさせられました。自分が生まれ変わり、あのような人間になるとしたら、本当に恐ろしくて、恐ろしくて、、、」
数年にわたり筆舌にし難い拷問を受けてきた尼僧ケルサン・ペモのことばは、チベット仏教の精神を端的にあらわしています。
このような歴史に対し、事実をきちんと伝えることは大事なことであると感じます。
日本にいる私たち僧侶にも、出来ることは、いくらでもあるはずです。
野町和嘉さんの写真展および講演会のご案内です。
■野町和嘉写真展「チベット」
「ゆるす言葉」発売記念展
会場:青山ブックセンター本店内ギャラリースペース
電話:03-5485-5511
会期:2008年8月11日 - 8月28日
■野町和嘉写真展 地球巡礼
あーすぷらざ 3F企画展示室
Tel:045-896-2899
会期:2008年9月6日~10月13日
公開時間:10:00-18:00 祝日を除く月曜日休館
入場無料
主催:神奈川県立地球市民かながわプラザ
指定管理者 財団法人 かながわ国際交流財団
作品制作協力:キヤノンマーケティングジャパン株式会社
協力:クレヴィス
■野町和嘉講演会
日時:2008年9月13日(土)14:00?15:45
場所:あーすぷらざ5F映像ホール
入場無料 事前申し込み制
■公式サイト
野町和嘉:世界地図で辿る“地球巡礼”
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チベットが消される
「核兵器、廃絶だけに意味」-63回目原爆の日
広島は6日、63回目の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、被爆者や遺族、市民、福田康夫首相ら約4万5000人が参列した。秋葉忠利市長は平和宣言で「核兵器は廃絶されることだけに意味がある」と強調。子供代表は「何も知らなくて平和は語れない。ヒロシマで起きた事実に学び、伝えていく」と誓った。
式典は午前8時に始まり、この1年間に死亡が確認された5302人の名前を記した原爆死没者名簿2冊を秋葉市長と遺族代表が慰霊碑に納めた。名簿は計93冊、死没者は25万8310人となった。原爆投下時刻の同8時15分、「平和の鐘」が打ち鳴らされ、参列者が1分間の黙とうをささげた。
広島原爆投下の日から63年目を迎えました。
犠牲となられた方々に心より哀悼の意を表します。
広島市の秋葉市長は、平和宣言において「核兵器は廃絶されることだけに意味がある」と述べました。
しかし、世界を見渡せば核兵器を保有する国はいくらでもあります。
環境問題も同様ですが、地球規模で全体が足並みをそろえて問題解決に真剣に取り組まなければ抜本的な対策にはなりません。
一国のみの運動では、ほとんど意味を成さないと言っても過言ではありません。
世界で唯一の被爆国である日本から発信するメッセージのもつ意味は大きいはずです。
けれども、毎年原爆の日に出される平和宣言が日本以外のメディアにどれだけ流されているのでしょうか。どれだけの人々が原爆の悲惨さを知っているのでしょうか。
日本の果たす役割は、広島・長崎の記憶を失わせる事なく語り継ぎ、語り継ぐだけでなく、世界にもっともっとアピールしていくことだと思います。
「核兵器、廃絶だけに意味」というのは、核兵器保有国に向けたメッセージであるからです。
世界各国から核兵器が廃絶される日が来ることを心より望みます
<ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ> ---原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさんが1951年、全米科学者連盟にあてた手紙より<一度その用い方を誤れば文明そのものを消し去る結果となります。科学そのものに罪はありません。しかし倫理性を欠いて人類が平和の方向を逆行するとき、その悪魔性は限りなく増大いたします。>
---永平寺監院 大田大穣師のことばより
貞昌院では毎週木曜日早朝に坐禅会を開催しております。
⇒スケジュールはこちら
定期的に行うようになって10年以上経過しました。
最初の頃は数名での坐禅会でしたが、今では多くの方に参禅いただくようになりました。
坐禅会に参加されている方より、短歌をいただきました。
思い返せば、さまざまなことがありました。
一句一句読み返すと、そのときの情景が蘇ってきます。
掲載のご承諾を得ましたので、いくつかを抜粋させていただき、ご紹介させていただきます。
<参禅の思い出の歌>生きている 心の底に 欲が住み 可愛くもあり 煩わしくも
朝まだき 参道通る 息白く 既に入りたる 打座の面影
湧き水の 池面を出でて 跳ね上がる 群れなす鯉の しぶきかがよふ
■ゆめ観音アジアフェスティバル
炎天下 異国の人も 舞ひ唄ふ ゆめ観音の 岩戸開くも
■貞昌院門前あかときの 打座へ行く道 森の辺に 月あかあかと 沈みゆく見ゆ
打座の淵 幾重の我の 現はれて 大きく小さく 心を揺らす
吾が独り 始めし打座の 年経りて 十数名 友の目すずし
■貞昌院奈良旅行中宮寺 弥勘菩薩の み前に座して 微笑むみ顔 ただ仰ぎをり
東大寺 阿吽の相の 仁王像 人の心を 透かし見をらむ
幾たびぞ おおきみ仏 仰ぎたり 開けるみ手の 迫り来るらん
興聖寺 道元禅師の 禅の道 萬代かけて つつうらうらに
■ダライ・ラマ法王の講演
夢にまで 現れ出でし ダライ・ラマ うつつにみ声 給わるぞ嬉しき
■貞昌院 打座堂内に 五観の偈頌の とよもせり いただく朝餉 典座のたまを
結びには 打座で唱えし 経典の 秘めたる法を 説き給ひけり安楽の 法門へ ただ一筋に 壁に向き合ふ 打座の友びと
非思量 不思量底 思量の辺 あらばやとただ あらばやと経る
己なく み堂の床に おおうみの 黄金に映えて うつつにぞ現るる
貞昌院の 無為の行に 導かれ 十年の打坐 一刻のごとし
今日もいつものとおり坐禅会が開催されました。
写真家の荒木経惟さんがさまざまな場所を訪れ、 何気ない日常生活の中にあってあまり気づかない、 ささいな幸せの情景を撮影します。 「『なんだ、こういうことがすてきなんだ』と気づいてもらえる、 そんな写真がいいんじゃない」とアラーキー。 天才に写真機を向けられた老若男女は、 魔法にかかったように次々と幸せの笑顔を咲かせる。「だっておれは、幸福写真の花咲じいさんだから」
アラーキーこと写真家の荒木経惟氏が5月29日、「アラーキーの幸福写真」の撮影で本山を訪れた。荒木氏は、日常の幸せの情景を撮り続けている。
(大本山總持寺 跳龍のサイト)
写真家の荒木経惟氏が大本山總持寺に来山、修行僧たちの日常を撮影されました。
撮影された写真は、7月の新聞各紙に掲載される予定だそうです。どんな写真なのか、とても楽しみです。
写真にとって大事なのは関係性であると、写真家・荒木経惟さんは答えます。
コンパクトデジタルカメラやカメラ付き携帯の普及で、誰でも気軽にスナップ写真が撮ることができるようになりました。
けれども、いきなり撮影された人にとっては、撮影されることに対して不快に感じることもあるでしょう。
「撮ってもよいでしょうか?」という最低限の心遣いがあれば、そこには信頼を持った関係性を生み出すことができる。
たった一言のある無しには、大きな隔たりがあります。
その関係性を作ることができることが写真家の写真家たるところなのでしょう。
幸福写真の花咲じいさん、荒木経惟さんの写しだす日常の何気ない幸せ。
写す人、その写真を鑑賞する人、それぞれに笑顔が広がる写真って、素敵ですね。
<荒木経惟さん>様々な思いを…母子ヌード撮影に40組「アラーキー」こと、写真家の荒木経惟(のぶよし)さん(67)が6月28、29の両日、熊本市上通町の市現代美術館で「母子」のヌード撮影をした。過激なヌード写真で知られる荒木さんだが、母子をテーマにするのは初めて。「愛とか生とかを考えると、最高のポートレート(肖像)はお母さんと子どもなんじゃないか、そういう気分になった」。そう語る荒木さんに共鳴した40組が熊本県内外から参加した。
(Yahoo!ニュースより)熊本市現代美術館では、2008年11月より「荒木経惟展」を開催いたします。本展のために荒木氏が撮り下ろす最新作、「母子シリーズ」の撮影会を熊本市現代美術館で行います。
こどもをめぐる暗いニュースが多く聞かれる状況の中で、未来への希望がつまった赤ちゃんとお母さんの笑顔を通して、命の尊さをもう一度見つめなおすことを荒木氏は目指しています。荒木氏にとっても初めての試みとなる「母子シリーズ」を熊本から世界に向けて発信していくこの機会に、どうぞ奮ってご参加ください。
(熊本市現代美術館のプレスリリースより)
父母の子に向ける愛は計り知れないほど大きく深いですが、同じ慈愛でも、慈父といえば仏教ではお釈迦様を意味し、慈母といえば観音様などの菩薩様をさします。
この違いはどうして生じるのでしょうか。
全ての人間は女性から生まれます。これはゆるぎない事実です。
世の中には、女性を「性」の対象としか見ないような表現が氾濫していますが、「性」ではなく「生」について素直に向き合うことは大切なことだと思います。
もしも、女性写真家の撮影された「父・子」の写真展が、併設会場で展示されていたら是非鑑賞してみたいと思います。
慈父と慈母の違いの答えが見つかるかもしれません。
時間があるときにはなるべく墓地を見て回るようにしています。
貞昌院には指定業者制度はありませんので、さまざまな石材店が入ります。
墓石工事が行われている時には、その工事を見ることにより、業者ごとの特長などもわかり、とても参考になります。
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最近特に着目しているのが、墓石の耐震対策です。
大地震に襲われると、墓地は大きな被害を受けやすくなります。
そこで、地震の揺れに対抗するために、どのような工夫がされているかをみるわけです。
今日工事を行っていた石材点では、四隅に耐震ゲルを置き、ズレ防止のためのタボ穴の周囲には耐震ボンドを用いていました。
直径数ミリのスペーサを置くことにより、耐震ゲルと耐震ボンドの性能が生かされます。
このあたりの工夫は、ここ数年で格段に進歩しておりますので、一昔前に建立されたかたは、一度積み直してみるということも有効かもしれません。
なお、耐震ゲルは夏の暑さ、冬の寒さが繰返されることにより劣化していきます。
理想的には10-20年に一度、耐震ゲルを新しくするのが良いようです。
夏から秋に掛けて墓参の機会も増えることと存じます。
お参りの際には、墓石の状況を点検して、必要に応じてメンテナンスを施すのもご供養のうちの一つではないでしょうか。
さまざまな不祥事が取りざたされている社会保険庁ですが、ここまで酷いとは。
これはごく最近知人に届いた年金特別一時金に関する通知書です。
特別一時金とは、国民年金から受けられる年金のうち、障害年金等の受給権者であって、昭和61年4月1日前に年金に任意加入した人または法定免除された保険料を追納した人について、保険料の納付期間に応じて特別一時金が支給される制度です。
特別一時金の受給権利者は、「生きているご本人」対象になるわけですが、そのことを前提に通知書をご覧下さい。
通知書の名前の欄を見てまず驚かされることは、 死亡者氏名として ○○○○ (←生きている方の名前が記載されている) となっていること。
ありえません。
先に述べたとおり、この通知書は、「生存している」受給者本人に通知されるべきものなのです。
さらに問題なのは、この通知書を、社会保険庁の職員が、一通一通宛名を手書きしている点。
つまり、右の通知書の「死亡者氏名」と同じ名前を、職員が「自ら確認した上で」左の封筒に「手書きで名前を」書いている ということです。
仮に、コンピュータのミスで「死亡一時金」の通知文を雛形として使ってしまったとしても、この宛名を書く時点で、「死亡者の名前を宛名として記入する」という異常なことをしているということに気づかない神経を疑います。
そこには、受給者に対する思いやりも配慮もなにも無いのでしょう。
ただ、機械的な処理をこなすだけ、人間的な温かさはそこには微塵も感じることができません。
この通知を受取られた方は、「私は殺されてしまった気がする」と、大いに気落ちしておりました。
社会保険庁の職員の方には猛反をしていただきたいところです。
社会保険庁の体質について、明星大学の原優治先生は、公的経営学の観点から次のように分析しています。
1.正式な職員の場合、身分保障されている公務員であることに甘えていること。もちろん民間でいう市場による処罰としての倒産もないことが挙げられる。2.資格や身分が異なり出身母体も様々な成員が幾重にも混成されていて反目しあったり、コミュニケーションがとりづらくなる傾向があること。
3.甘いぬるま湯的組織体質のなかで、相互に切磋琢磨することをやめてしまい、逆に相互にもたれあうという旧来の日本的特性が色濃く出てしまったこと。
4.ノンキャリア組にとっては、仕事自体を企画したり本質的に調整する仕事もなく、およそ自己実現をかけるような探求や自己成長の機会もなく単調なIT 的作業が仕事の殆んどを占めモラール(morale:やる気)を低下させてしまっていること。
5.既に述べたように僅か3%に満たないキャリア組が企画や本質的なものに関係する調整の仕事を独占しており、コンピュータ入力や窓口業務などの実務はノンキャリア組が担当しており、さらに悪いことにキャリア組とノンキャリア組は入庁以来業務連絡上必須なコミュニケーションをほとんど欠落させたまま棲み分けを続けてきてしまっていること。そのうえ、キャリア組は2~3年で転勤をしていくため、どうしても実務に疎くなり、見過ごすことのできない本質的に重要な不具合なことに気付いても棲み分け上の縄張りを敢えて越えてノンキャリア組の部下へ注意を喚起するようなことは遠慮してきたという事実がある。それは公務員の評価においては民間に比べて減点主義的傾向が強く、注意喚起や指示徹底などでもめ事やいざこざをおこさないことを身上とする文化・風土が定着していることによる。
6.したがって、公的経営学的視点から見て、トップマネジメント側に属するキャリア組の経営管理する権限と責任の放棄がうかがわれる。
7.公的経営管理をする側の無気力、無責任をよいことにして安逸をむさぼったノンキャリア組を中心とする一般職員の責任は大きい。さらに、倒産がないことと手厚い身分保障をよいことにして安逸をむさぼる組合員を支援したり放置してきた自治労などの労働組合指導者の責任も問われなければならない。
(『明星大学経済学研究紀要』Vol.39 No.2より引用)
そういえば、このような配慮にかける事例は直近にもあり、大々的に報道もされました。
失敗を生かすことのできない組織なのですね。
木更津市「後期高齢者医療」封筒黒枠やめます木更津市が発送した、後期高齢者医療制度(長寿医療制度)に基づく保険料通知書の封筒デザインに市民の苦情が相次いだ問題で、市は10日、黒枠を撤廃し、封筒全体を青色に改める方針を明らかにした。木更津市議会一般質問で、市側が答弁した。
問題となった封筒は、紙の色が白く、対象者の名前を太い黒枠で囲んだデザイン。4月15日の保険料徴収開始日を前に、市が75歳以上の市民約8100人に発送したが、直後から「訃報(ふほう)を連想させる」「遺影のようで不愉快」などの苦情が20件ほど寄せられていた。市では、市民税通知書も青色の封筒で送付しているが、お年寄りが判別しやすいよう、保険料通知書はそれとは違った濃い青色を使用するとしている。
市側はこの日、答弁で「印刷発注の際に配慮が欠けていた。改めて深くおわびする」と陳謝した。
(2008年6月11日 読売新聞)
そのお詫びがこちら。
(まあ、ホームページ上でのお詫びなので、対象となる75歳以上の方がどれくらい目にするかはわかりませんが)
2008年04月24日 :「後期高齢者医療仮徴収額決定通知書」の封筒についてのお詫び(保険年金課)市から送付しました「後期高齢者医療仮徴収額決定通知書」につきまして、封筒のあて先欄の印刷が配慮に欠けた部分があり、お受け取りになられた皆様に不快な思いをお掛けしましたことに、深くお詫び申し上げます。今後、このようなことが無いよう万全を期してまいります。
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