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Category旅行記
横浜市仏教連合会・釈尊奉讃会では、市内の宗派を越えた寺院僧侶・檀信徒合同で参拝旅行を行なっています。
6月21日、大宮方面への一日旅行がありましたので参加してきました。
バス2台を連ねての旅行です。
【行程】
平成22年6月21日(月)
・東光寺 (拝登・拝観)
・関東管区教化センター(法話)
・昼食
・鉄道博物館(見学)
・高岩寺(とげぬき地蔵・拝観)
行程の最初、東光寺さまにおいて拝登諷経を営ませていただきました。
導師・市仏連会長 玄野老師
拝観の前に、曹洞宗関東管区教化センター主監老師よりご法話を賜りました。
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その後、東光寺ご住職による由緒縁起、伽藍の拝観を丁寧にいただきました。
良いものを見るということは、眼の保養にもなります。
特に檀信徒の皆様にとっては、他所の寺院の中を詳細にご案内いただく機会はあまりないために、よい刺激になったようです。
関係諸師の皆様方にはご丁寧なご接待ご案内、ありがとうございました。
心よりお礼申し上げます。
■追記
東光寺様では、毎年春にさいたま市のアートフルゆめまつりの東光寺会場として、市民参加型の法要を模索して実践されています。
その模様は下記のブログ記事をご覧ください。
テニアン島は現在は人口3,200人のノンビリした島です。
かつての激戦が嘘のように海岸には波が打ち寄せています。
この光景は戦前も戦後もほとんど変っていないのでしょう。
美しい砂浜・・・・
海岸に植えられている椰子の木は、かつて入植者たちが植えたもの。
大きく大きく育っています。
砂は珊瑚が砕けたもので、場所によって細かさは様々です。
隣の海岸では、星の砂も。
岩場では、波が洞穴から噴出している荒々しい光景も見られます。
別名「潮吹き海岸」
実に豪快です。
島の南北を結ぶ道路は、アメリカ軍占領後ブロードウエイと名づけられました。
左にセントラルパーク、右にロングビーチ。
マンハッタンに似た区画としたのでしょう。
テニアン島もサイパン同様に悲しい歴史も残されています。
南端には「スーサイドクリフ(自殺岸壁)」と名づけられた岬がありました。
ここでも慰霊法要を営ませていただきました。
下を覗くにはかなり勇気が要ります。
テニアンで一番大きな集落、サンホセでは、かつては1万人規模の日本人入植者の大きな街が形成されていました。
現在も村のあちこちに面影が残されています。⇒こちらの記事も併せてご参照ください
住宅地の合間の草むらに戦闘機のプロペラやエンジンの残骸が無造作に転がっていたりします。
よく残っていたものだと関心します。
現在、この島は急速に変化していることが実感できます。
とにかく、中国、韓国系の資本流入が物凄いのです。
旅行者も、日本人より他のアジア系のほうがずっと多いのではないでしょうか。
サンホセの街には巨大なカジノホテルが聳えています。
これも中国系のホテルです。
中は新年休暇を過ごす中国人でごった返していました。
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テニアン空港にはカジノホテルの計画図(右写真)が掲げてありましたが・・・・・こんな風に拡張されるのでしょうか!?・・・
かつて数万人もの日本人入植者がいたテニアン島は、戦後のんびりした島であり続けました。
しかし、今後数年で大きく変ってしまうことが危惧されます。
特に、スーサイドクリフの慰霊碑は最近悪戯の被害にあっているそうで、入口にゲートが造られたものの、管理人常駐していないため意味を成していないそうです。
現在テニアンに在住する日本人は僅か十数人ということです。
草の根的に守っていくには限界があるでしょう。
日本人が街を築いていた足跡も、慰霊碑も、戦跡も、それらを保存し後世に伝えていく手段を早急に講じる必要性を感じます。
失われてしまってからでは手遅れなのです。
テニアン島は沖縄や福島、山形などからの移民により開墾され椰子、砂糖、コーヒー、綿花の生産が行なわれました。
特に南洋興発による砂糖生産は昭和初期には台湾に次いで東洋第2位の生産量を誇り、日本からの入植者は約15700名を数えました。
しかし、テニアン北部に南洋諸島最大のハゴイ飛行場(ウシ飛行場)があったこともあり、戦時中は日本軍の最重要基地として陸海軍合わせて約8500人もの軍人が駐屯し、第一航空艦隊に属する七六一空(龍部隊)の九六陸攻と一式陸攻40機が配置されました。
ハゴイ飛行場は1939(昭和14)年に日本人により建設された飛行場で、1450mの滑走路を誇ります。
上写真は海軍司令部の建物です。
二階建てコンクリート造り、アメリカ軍の爆撃の跡が生々しく残されています。
海軍司令部の北部には燃料貯蔵庫がありました。
建物は爆撃を受け大火災を起こし、その規模の大きさは天井から剥がれ落ちている巨大なコンクリート片や、飴のように曲がってしまったクレーンのレールからも想像できます。
燃料ドラムも生々しくそのまま残されています。
1つの建物は完全に爆破されてしまい、鉄筋がむき出しの破片が散らばっています。
これらの建物もジャングルの木々に侵蝕されつつあります。
こちらは発電所跡。
頑丈な造りだったことが判ります。
爆撃の跡が生々しく残っています。
ハゴイ飛行場滑走路脇にあるエプロンにも・・・
戦況が悪化し、アメリカ軍機動部隊により1944(昭和19)年には度々の空襲を受けるようになり、2月23日に飛行場施設は壊滅し日本軍の航空戦力は潰滅的な打撃を受けてしまいます。
日本軍は満州遼陽から陸軍第50連隊を移駐させるも空しく、7月8日にはアメリカ軍によりサイパン島が占領され、8月3日にはテニアン島が占領されます。
アメリカ軍は占領後ハゴイ飛行場を拡充し8590ft(2590m)級の滑走路を4本建設しました。
ハゴイ飛行場にはB-29戦略爆撃機が大量に配備され、サイパン島・アスリート飛行場、グアム島・アンダーセン飛行場と共に日本本土空襲の拠点となってしまいました。
ハゴイ飛行場は、広島、長崎への原爆投下を行なったB-29が発進した飛行場であることも忘れてはなりません。
原子爆弾積荷が行なわれたピットは当時そのままに保存されていました。
積荷当時に撮影された写真を並べてみると、時間の経過が信じられない程そのままの姿であることが判ります。
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(左)リトルボーイ (中)ファットマン 積荷場跡
(右)1945年、原子爆弾搭載時にアメリカ軍が撮影したリトルボーイ
2日目はサイパン島の南隣にあるテニアン島へ渡りました。
現在は人口僅か3000人ほど、日本人は十数人しか住んでいないのんびりした島です。
テニアン島も、サイパン同様スペイン領の時代にはスペイン人からの迫害を受け、一時期無人島となり、その後ドイツ領となる時代には流刑地とされました。
1914年以降、日本が統治することとなり、多くの入植者が渡り始めます。
日本人によるテニアンの開発は南洋興発会社がサイパンからテニアンに進出した1926(大正15)年に本格的に始まりました。
南洋興発の製糖事業はミクロネシア全域に事業を拡大し「南国の楽園」と称される時代を築きます。
テニアン島は正に製糖業の中心地となり、1930(昭和5)年には一日の生産量が1200トンにも達し、さらに1934(昭和9)年にはさらに生産量1200トンの第二工場が完成します。
平地の多く土壌が良いテニアンはサイパンよりもサトウキビ栽培に適しており、1935(昭和10)年までの間に島の3分の1がサトウキビ畑になるほど製糖産業が栄え、島の人口は17,900人に達し、大いに賑わいました。
事業は製糖業から清酒、鉱業、農業へと発展した背景にはミクロネシア全体の人口の6割を占めていた沖縄県出身者の貢献がありました。
往時の面影は島の各所に残されている遺構から偲ぶしかありません。
島の北部中央の茂みの中に埋もれつつある南洋興発会社の建設した神社の鳥居と本殿跡です。
柱には建立年が1941(昭和16)年とありました。
本殿までに二本の鳥居があり、一の鳥居、二の鳥居を抜ける参道の面影だけが残されています。
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鳥居の前には当時の線路が一部残されています。
線路が木の成長により幹の中にめり込んで地面から押し上げられています。
時間の経過を如実に示しています。
列車の車輪の一部のような金属片も落ちていました。
一番大きな街は島の南部サンホセであり、当時は1万人以上の日本人がここに暮らしていました。
左写真は1944(昭和19)年、アメリカ軍により撮影された航空写真です。すでに制空権を獲得し侵攻準備が着々と進んでいたのでしょう。往時の整然と整備され賑わっていたたサンホセの街の様子がよくわかります。
右写真は航空写真(1)の南洋興発製糖工場を(2)方面から撮影したと思われる当時の写真です。(工場の煙突と貨物駅の線路からそのことが推測されます)
街に遺されている往時の足跡を訪ねてみました。
上の写真の製糖工場があったと思われる場所には、南洋興発の社屋建物の骨格だけが残されていました。
社屋跡の前には次のような看板が掲げられていました。
南洋興発の主産業の中心は「砂糖の島」と呼ばれたテニアン島であった。テニアン島に進出した南洋興発は昭和3年に開墾をはじめ、昭和5年に1日原料生産量1200トンの最初の工場を完成し、昭和9年には生産量1200トンの第2工場を完成し、南洋屈指の工場となった。
製糖業の最盛期を迎え、人口も増え、学校や街ができ「南国の楽園」が創立された。
しかし、その夢も戦争により全て失われた。
失意に帰郷した沖縄出身者が再びテニアンを訪れ南洋興発の跡地に立った際、旧き良き時代への思いを新たにした。日本全国からこの地に移住してきた人々の功績を称え、この跡地を後世に残して頂きたい。
そのほか、航空写真(2)の場所には現在の街並みの中に混在して、戦前の警防団跡、消防団跡、刑務所跡など、当時の建物の一部が残されています。
戦争により、これら全てが失われてしまうのです。
セスナから眺めたテニアン島中央~北部。
海の向こうにサイパン島が見えます。
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整然と広がっていたであろう日本人の開墾したサトウキビ畑も街も、今はもうありません。
冒頭の写真の南興神社の遺構もこの茂みの中に埋もれていきつつあります。
アスリート飛行場とタポチョ山の陥落により、サイパンにおける日本軍はほぼ全滅となりました。
島の日本兵や民間人たちは北へ北へと追いつめられ、最北端のマッピ岬の断崖から80メートル下の海に次々と身を投じました。
飛び降りた人の数は実に1万人を数えるとも言われ、一帯の海は真っ赤に染まり、遺体で埋め尽くされたといいます。
2005年には天皇・皇后両陛下がこの地に慰霊訪問されています。
多くの方が身を投げたバンザイクリフの岸壁から下を見下ろすと、波が渦を巻いて岸壁に当たって高く打ち砕けています。
この岬は日本の方向を向いています。
飛び込んだ人々は「天皇陛下万歳」と叫んで飛び降りたと言われていますが、その思いは故郷を思い、故郷を守る一心だったのではないでしょうか。
ただただ心より哀悼の意を捧げるのみです。
バンザイクリフを見守る観音様の前で慰霊法要を営ませていただきました。
それまで天気が比較的良かったのですが、法要中に一転スコールのような雨に見舞われ、ずぶ濡れになりながらの読経となりました。
一同、涙雨なのかと。忘れられない思い出となりました。
バンザイクリフの直ぐ近くにはサイパン島北部に置かれていた日本軍司令部の跡が残されています。
マッピ山の岩肌を刳り貫いて造られた建物は、砲弾の跡が生々しく残り、60年を超える時代の経過を物語るように太い木の根が侵蝕しています。
砲筒は海に向けられたままの状態で保存されています。
これら戦跡や慰霊碑は自然の経年変換のほかに、悪戯による人為的破壊も少なからずあるようです。
ただただ朽ち果てていくのを見守るだけでなく、保存の具体的対策を早急にとらなければならないでしょう。
■追記
Youtubeに「サイパン・沖縄戦を生き延びた住民達の証言」がアップロードされています。
http://www.youtube.com/watch?v=ZQQOa6yeffE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=THJNjlIm-9U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=h6GCT-ZkwTw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ONqPMwEou2E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=9GboyrsDBmg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=oGYsg_fYe10&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=t0v0PLMzAv0&feature=related
サイパン島中央にそびえるタポチョ山に登ってみました。
この山へ続く道はかなり悪路でしかも急坂のため、普通の乗用車では走ることは相当厳しいと感じました。
バギーやレンタルバイクによるツアーと何度かすれ違いましたので、態と未舗装のまま残しているのでしょう。
戦時中はこのような道路もなく、山頂に到達することはかなり大変だった筈です。
山頂に残されたパネルでは、人力でパネルには重装備の大砲を人力で運ぶ写真が展示されていました。
日本軍守備隊は西方フィリピンからの第一移動艦隊が援護に到着することを信じ、それまでアメリカ軍を拘束するための大射撃をこの地から指示しました。
山頂からの眺めをパノラマ写真にしてみました。
右にアメリカ軍が上陸したレッドビーチ、中央にアスリート飛行場が見えます。
この場所からは360度、サイパン島全域が見渡せます。
レッドビーチから上陸したアメリカ兵は、アスリート飛行場とタポチョ山を目指します。
この2つが陥落となればサイパン全域を掌握したも同然になるからです。
6月16日、アメリカ軍第27歩兵師団が上陸後、直ちにアスリート飛行場に向け進撃しました。
アメリカ軍は火炎放射器で一気に畑を焼き払っては進むという作戦によりその日の夜には飛行場に到達します。
飛行場を死守したい日本軍は戦車第9連隊を中心に約8000名が総攻撃を行ないましたがアメリカ軍の圧倒的戦力の前に全滅してしまい、翌18日にはアスリート飛行場がアメリカ軍の手に渡ってしまいます。
6月27日、日本軍第317大隊はアスリート飛行場奪回の為に600人規模の夜襲をかけましたが、アメリカ軍に包囲され、全滅してしまいました。
旧アスリート飛行場(現サイパン国際空港)の敷地にも日本人慰霊碑が建立されています。
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(ここでも慰霊法要を営ませていただきました)
日本軍は組織的な反撃が出来ず、ゲリラ的な攻撃を散発的に行なうしかなくなり、斎藤中将は防御に適したタポチョ山に防御線を敷きます。
着々と進行するアメリカ軍の様子を、この山からどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。
パノラマ写真の手前側に広がるのは「死の谷」と呼ばれた高原です。
サトウキビ畑や洞窟に潜伏する日本軍の機関銃攻撃は、アメリカ軍の進行を遅らせ、いつのまにかこのような名前が付けられたのです。
アスリート飛行場がアイズリー飛行場としてアメリカ軍により運用開始されるようになると、空からの偵察も可能となり、日本軍は完全に追い詰められることとなります。
6月30日、ついにこのタポチョ山がアメリカ軍によって陥落されました。
7月7日、斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われました。
この戦闘で米アメリカ軍に死傷者658名の損害を与えたものの、日本軍はほぼ全滅。
パノラマ写真に写る一帯は両軍の死体が累々と積み重なる惨状となりました。
事実上サイパン島の日本軍は全滅し、7月9日にアメリカ軍ターナー中将がサイパン島の占領を宣言するに至りました。
今回の旅行はSOTO禅インターナショナル(SZI)主催により行なわれました。
昨年末の元国際布教師OB会・SZIに集まったメンバーの、次はサイパン結集でという一言が発端となり実現に至ったものです。
目的の1つは、サイパン国際礼拝堂(以下南溟堂)(Nanmeido: The Saipan International House of Prayer)への拝登でありました。
南溟堂は、静岡県出身の国際布教師・秋田新隆老師が20年前に発願、建立のための資金の殆どを負担され、さらに戦没関係者、岐阜県仏教会、信徒会の協力を得て5年の年月を費やし開創された超宗派の寺院です。
平成2年10月に落慶法要がニューヨーク、シアトル、岐阜、愛知、静岡県から400人もの参列により盛大に厳修されました。
大導師は岐阜県仏教会会長・正眼寺住職・谷耕月老師、導師は秋田老師とニューヨーク大菩薩禅堂・嶋野栄道老師が勤められました。
(余談ですが、先週は嶋野老師をお招きしてSZI主催の講演会を開催させていただいております。これもご縁だと感じます)
昨年2月まで秋田老師はハワイ・ヒロ大正寺の住職として着任されており、任期を終えられ、南溟堂を護持するためご夫妻でサイパンに移られました。
地元の新聞『Saipan Tribune』のインタビューに師は「南溟堂はサイパン市長事務所により管理されていたものの何年も無住だった。これからは戦没された方々の、アメリカ人、日本人、現地の方の区別なく、み霊を慰めるために寺を護持することが私の義務であると思う」「私は、生涯このお寺を護持するためにサイパンに居ることを決めた」と答えられています。
⇒Japanese who built House of Prayer returns to Saipan『Saipan Tribune』
SZI会長導師により拝登諷経並びに慰霊法要を営ませていただきました。
天徳巍々 慧日遠照三千界
玄猷耿々 慈光遍及万億年
仰冀洪霊 俯賜臨照
上来 諷誦経呪 所集功徳サイパン島戦死病没者諸精霊
中部太平洋地区戦没者諸精霊
戦役殉難諸精霊回向報地荘厳
伏願
万邦和楽 万難消滅 火盗潜消 所縁吉祥
法要後、秋田老師に由緒縁起をお話いただきました。
暑い南の島で水も思うように飲めないまま散華した軍人、民間人、原住民、また闘いに明け暮れた相手国の人々・・・・サイパンには慰霊碑は数多く建てられているけれど、どれも野ざらしとなっています。
せめて屋根のついたお堂でゆっくり水を飲んで貰い、ゆっくり供養したい・・・秋田老師は南溟堂発願の動機を静かに語っておられました。
南溟堂の本尊は慈母観音。左右に梅花観音、阿弥陀如来をお祀りしています。20人ほどが坐ることができる坐禅単もあります。
本堂天井の中心からは大梵鐘が吊り下げられています。
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この大梵鐘は岐阜県仏教会の呼びかけにより造られ、船でサイパンに運ばれてきました。
サイパンの地から平和を願う佛声は、世界に向けて響き渡っています。
拝敷の上に梵鐘があるという一寸珍しい光景ですが、屋外に梵鐘を置くと悪戯の被害にあってしまうためこのような構造になっているということです。
実際、秋田老師がハワイに居られて住職不在の時期には心無い何者かに本堂のガラスが壊され進入され、仏具の一部(仏像の光背、獅子吼など)を破壊されてしまいました。
現在も傷跡が残されています。
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秋田老師夫妻を囲んで・・・
南溟堂は砂糖王公園の中にありますが、一番奥に位置するためにツアーのルートには入っていません。
「訪問者、旅行者、地元住人も、毎日開いている寺に参詣して祈りを捧げてくださるようお願いしたい」(秋田老師のことばより)
サイパンへ旅行される方は、是非南溟堂へお参りされることをお勧めします。
大きな地図で見る
(上の地図ではThe Saipan International House of Prayerと表記されています)
サイパン西海岸南部ススペ地区では、不思議な光景が見られます。
カトリック墓地の入口に鳥居、そして墓石の合間に石灯籠など。
鳥居を潜った先の拝殿には「inari」と書かれたキリスト像が掲げられています。
複雑なサイパンの歴史を如実に物語っている光景です。
元々ここにはスペイン統治下時代に建立されたマウント・カーメル教会がありました。
しかし、日本統治下時代には教会の墓地の中に砂糖工場と、さとうきびの豊作を願う南興神社が作られました。
南興神社の南興とは「南洋興発」のことです。
史料によると、南興神社の祭神は天照大神・大国主神・経津主神・罔像女神となっています。
「inari」キリスト像の土台の上にはお稲荷さんが祀られていたのでしょうか。
太平洋戦争アメリカ軍の上陸による戦闘でマウント・カーメル教会は破壊され、1949(昭和24)年、現在の姿に再建されました。
現在は、歴代のファザー、シスターの墓石が「inari」の前に配されています。
また、砂糖工場の建物は、教会併設のマウント・カーメル高校として使用されています。
鳥居や石灯籠が何故撤去されずに残っているのか、「inari」キリストがなぜ神社本殿の上に掲げられているのでしょうか。
その理由の1つには「祟りを恐れた」ということがあるかもしれませんが、この神社の建立主がサイパン発展に貢献した「砂糖王」松江春次であることが一番の理由であるように感じます。
松江春次は島にとって特別な存在なのでしょう。
また、この教会の墓苑には日本人の名前を刻んだ墓石も数多く残されていますし、サイパン在住の日本人の墓地もあります。
宗教と人種を越えた混在がこの場所では見られます。
戦前のサイパンを写した古写真を見つけました。
撮影年代は不明ですが、南洋興発の時代ですから昭和初期のものでしょう。
キリスト教会が教会として機能している様子がわかります。
そして、写真にはキリスト像も写されています。日本型の墓石も見えます。
マウント・カーメル教会の「inari」キリスト像は、もしかしたらお稲荷様が祀られていたのではなく、元々キリスト像が掲げられていたのかも知れません。
戦前から信仰としてのキリスト教、仏教、神道が混在していたことを示しており、実に興味深い写真です。
これほどまでに簡単に上陸を許してしまった理由にはアメリカ軍がパラオ諸島に攻撃を行うと予期していた日本軍側の読み違いと、一旦サイパン北部に艦隊をちらつかせた揺動作戦に乗せられたことなど様々な悪条件が重なったことが挙げられます。
結果、独混47旅団、戦車第4中隊などが全滅してしまいます。
翌夜、形成を逆転するべく、約1000名の日本軍歩兵隊がレッドビーチを占領するアメリカ軍に対し44台の戦車と共に夜襲をかけました。
アメリカ軍海兵隊には約3500名の負傷者を出したものの、日本軍の歩兵隊はほぼ壊滅し、この地区に暮らす数万人もの民間人も、それまでの平穏な生活を一気に失うこととなります。
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レッドビーチに残されている日本軍の戦車。トーチカの上に乗せられています。
後ろに見える海よりアメリカ軍が上陸しました。
私たちが訪れたこの日は碧い碧い穏やかな海であったことが印象的でした。
マウント・カーメル教会入口に付近にある日本人戦没者慰霊碑において慰霊法要を営ませていただきました。
たまたま来られていた日本人の方も一緒にお参りされていました。
ふと空を見上げると火焔樹の花が満開でした。
日本人たちはこの花を見て、桜並木を思い出したそうで「南洋桜」という別名があります。
大きなサヤエンドウのような実をつけている木もよく見かけました。
マウント・カーメル教会のあるススペ地区は、サイパン国際空港から主要なホテルのあるガラパン地区に向かう途中で必ず通る場所です。
しかし、サイパンを訪れる日本人観光客のほとんどは、ここを通り過ぎていくだけです。
サイパンの攻防をアメリカ側から見た資料があります。
日本側の史料と比較してみると双方の視点から概観することができます。
『サイパン侵攻(The Invasion of Saipan)』(Brian Blodgett著)
前のエントリー記事の写真は、サイパン国際空港です。
この空港は、歴史上三代目の飛行場でもあります。
1933(昭和8)年、日本統治時代のサイパンのサトウキビ畑の中に開かれたのが初代の飛行場「アスリート飛行場」でした。
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(往時のアスリート飛行場)
二代目の飛行場は「アイズリー飛行場」
アメリカ軍がサイパンを占領すると同時に、アスリート飛行場を拡張して日本本土への空襲を行なうためのB29基地として第73爆弾飛行隊が駐留しました。
サイパンのあるマリアナ諸島は16世紀にマゼラにより発見されてから3世紀に亘りスペイン統治下にありました。
しかし、島民に対するのキリスト教化に次第に島民は反感を抱くようになり、スペイン・チャモロ戦争が起こります。スペインは軍隊を派遣し、島民が大量虐殺や移住させられたことにより、一時的に無人島となります。
その後、ドイツ統治時代にはサイパン島は流刑地とされてしまいます。
第一次世界大戦により南洋諸島全域は日本が委任統治することとなり、砂糖の生産などによりサイパンが南洋の玄関口となり栄えます。
横浜にあった飛行場の記事で書いたとおり、1939(昭和14)年には大日本航空海洋部が発足し、横浜~サイパン方面の定期便が運行を開始しています。
横浜の水上飛行場から毎週飛んでいたという記録があります。
横浜 5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00 (この他ヤルート、ポナペなど)
現在は成田からジェット機で3時間あれば到着するサイパンは、当時は水上飛行機によって10時間もかけて運行していたのです。
一番有名な日本人は砂糖王と呼ばれた松江春次でしょう。
松江氏はサドウキビの栽培をサイパンに伝え、精糖事業での成功を収めました。
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ガラパン地区の砂糖王公園には、松江氏の銅像が戦禍を免れ残されています。
砂糖王公園にはシュガートレインのSLも保存されていました。
当時の地図を見ると島内にはシュガートレインの線路がぐるりと敷設されています。
このようなSLが島内を忙しく走り回っていたのでしょう。
日本人入植者を中心に島の人口は約3万人にも膨れ上がりました。
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(サイパン国際空港に掲示してあった地図より・赤丸がアスリート飛行場)
しかし、戦争の影はだんだんと濃厚となり、1941(昭和16)年には大日本航空海洋部は海軍に徴用され横須賀鎮守府第七輸送機隊となり、アスリート飛行場も軍用の意味合いが強くなっていきます。
第二次世界大戦はサイパンに再び悲劇をもたらします。
島に日本軍の司令部があったこともあり、また、日本本土への攻撃の拠点としてのサイパンの重要性は日米双方共通の認識があった(つまりこの地の攻防が戦局を決する)ため、1944年6月アメリカ軍上陸作戦の際には住民を巻き込んでの激しい戦闘が繰り広げられました。
サイパン各地には、今も生々しい戦跡が残されています。
今回の旅行は、それらの足跡を眼で確かめる旅でもあります。
何回かに分けて報告を兼ねて記事としてまとめて行きたいと思います。
豊田社長ニューヨークでの発言の様子が流されています。
ブレーキ問題へのアメリカ下院議員たちの執拗な攻撃は凄まじいですね。
全米に流れているんですね。影響は相当大きいでしょうし長期化が心配されます。
フィギアスケート女子フリーがまもなく始まります。
浅田選手は是非暗雲を吹き払うアクセルをばっちりきめて欲しいものです。
現在、飛梅の如く太平洋上を飛行中です。
それにしても機内で無線LANインターネットがフツーにできるんですね。
パソコンは持ってきていませんのでWILLCOM端末からの書き込みです。
時々気が向いたら更新します。
追記
ということで、到着しました。
SOTO禅インターナショナル・国際布教師OB会inサイパンの目次です。
■サイパン
三代目の飛行場
教会の中の鳥居
サイパン国際礼拝堂南溟堂拝登
タポチョ山とアスリート飛行場
バンザイクリフ
■テニアン
製糖の島テニアン
テニアンに残される戦跡
移ろいゆくもの変らないもの
■現地よりケイタイにて
太平洋を南下中
アクセルとブレーキ
ハートブッダ
コバルト・ブルー
南極老人星
モンゴルにおいて遊牧民の住居・ゲルを訪問すると、北面に設置された仏壇に祀られたダライ・ラマ14世法王の写真を見ることが出来ます。
街のいたるところでもダライ・ラマ法王の写真を見かけます。
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写真(左)はスーパーマーケット横に掲げられた看板
写真(右)はBuddhist Meditation centerの瞑想堂内
ダライ・ラマ法王とモンゴルの関係は深く、というより、ダライ・ラマという称号自体 1578年に当時モンゴルを支配していたアフタイ・ハーンがチベット仏教ゲルク派の高僧・ソナム・ギャツォを招聘し、贈った称号です。
「ダライ」はモンゴル語の「海」であり、チベット語では「ギャツォ」となります。
ダライ・ラマ14世法王の法名は「テンジン・ギャツォ」でありますね。
「ラマ」はチベット語の「指導者」を意味しています。
清朝の時代には、チベット仏教があまりにも盛んになりすぎて、人口の半数近くが出家してしまい、労働人口が激減したという問題を引き起こしたほどだったそうです。
しかし、1917年のロシア革命勃発以降、モンゴル人民政府を樹立徹底した親ソ・社会主義路線をとるようになると1929-32年に行われた厳しい宗教弾圧が徹底的に行われます。
モンゴル語のキリル文字使用が決定されたのもこの頃です。
識字率を高めるという大義名分でしたが、その本当の目的はモンゴル文字で書かれた古典書籍を読むことが出来ないようにするということのようでした。
1990年にはようやく一党独裁が放棄され、1992年には新憲法が制定され、社会主義は放棄されました。
人民革命時には、唯一ウランバートル市内のガンダン寺のみ宗教活動が許されており、社会主義放棄後はガンダン寺が中心となって国内寺院の復興が行われています。
宗教の自由が保障されたことにより無宗教層や他の宗教も増えているようですが、やはり主力はチベット仏教のようです。
先日、貞昌院にモンゴル人の馬頭琴奏者一家がいらっしゃった際にも、本堂で丁寧な五体投地の礼拝を繰り返しされておりました。
現在、ガンダン寺には宗教大学のほか、小学校も併設されています。
モンゴルでは、中世には仏教寺院に子どもを預けチベット語を習得させることが行われていましたが、その姿が徐々に戻っているのです。
現在では僧侶を目指す多くの若者が僧院に住み込みながら学問研究する姿が見受けられました。
訪問した午前中の時間に寺院で営まれていた法要は、日本で言えば施食法要の、それも名古屋で行われているような一施主一法要(供養内容は御祈祷に近い)のような形を取っているように見えました。
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法螺貝のような音に導かれ僧侶たちが集まり(写真左)、堂内に上殿(写真右)し、法要が始まる
唱えられている読経はダライ・ラマがチベットの守り神であることもあり、観音真言「オン・マニ・バドメー・フーン」が繰り返し唱えられ、斎時には施主の前で食事を摂るという摂心供養の施主のような感じでありました。
日本の禅寺と徹底的に違うのは、法式作法がかなり柔軟的であるということ。おおらかな面も多く見られます。
寺院境内のマニ車や柱、街中や道路筋にあるオボー(道祖神のようなもの)では熱心に祈る信者の方々の姿(特に若者が目立ちます)を目の当たりにしました。
オボー(下写真)は集落の境界、峠、寺院の脇、丘の上などでよく見かけました。
巻かれている青い布は一番崇高な神様、「天の神様」を表すそうです。
施主が柳の枝を立て、僧侶が供養の法要を行った後、青い布(ハダク)が巻かれていきます。
脇には石が積まれ、旅人たちはここで旅の安全を祈り、石を積み、馬のたてがみや、供物を置き、右回りに三周して感謝の意をささげます。先日のブログ記事で、石の上にギプスが置かれていたものは、旅程を無事終えることができたことに対する感謝の意であるそうです。
このように、モンゴルではチベット仏教以前に大自然、特に天と地を大切に扱うアミニズム的な信仰も根深いといえます。
酒宴の席では、乾杯の前に指先を杯につけ、天に弾いてから口にしますし、遊牧民たちは乳絞りの際に一番目の乳を天と地に捧げます。
大地や川をを絶対に汚してはいけないという教えも受け継がれているそうです。
さて、中国では、中国政府によりチベット自治区をはじめ、チベット仏教に対する弾圧が強められています。
昨年8月、ダライ・ラマ法王がモンゴルへ訪問された際、何千人もの民衆が法王を歓迎しました。訪問先のウランバートル・ガンデン寺では、観音堂の外で、法王は歓喜溢れる民衆や僧侶たちと対面し、スタジアムでは満員の信者の前で講演を行ったそうです。
それに対し、中国政府はモンゴル政府による法王受入れを非難し、モンゴルへのチャイナエアラインの突然のフライトキャンセルなど空の便を妨害したのです。
モンゴルでは一時期宗教が弾圧されていた時期があったとはいえ、仏教徒の中では徐々にそれが復興されチベット仏教がモンゴル仏教として生活の中で自然に取り入れられている一面を見ることができました。
郊外にある墓地や火葬場の様子も見ることが出来ました。
中国の仏教とはまた別の方向性で進んでいるのですね。
・・・・・・・・これでモンゴル旅行記は一段落とします。
近くて遠い国というタイトルで始まブログ記事でしたが、今日の記事を書き終えて、近くて身近な国となりました。
末筆となりましたが、旅行中においてGNCモンゴルをはじめ、多くの方々にお世話になりましたことに感謝申し上げます。
なお、モンゴルにおける宗教事情についてはtenjin95さんがSZI会報42号(12月発行予定)で執筆予定でありますし、ブログ(つらつら日暮し)でも詳細にまとめられていますので、併せてご参照ください。
■関連ブログ記事
貞昌院の定例坐禅会は、6月の間2回もお休みしてしまいました。
お詫びのしるしといっては何ですが、モンゴルのお土産として岩塩をプレゼントさせていただこうと思います。
モンゴル岩塩(モンゴルがんえん)は、モンゴル国の北西部、ウヴス県(Uvs Aimag)のウヴス・ヌール盆地(Uvs Nuur Basin)に位置する岩塩鉱床より採掘される岩塩である。モンゴルでは、この岩塩鉱床で採掘される岩塩のみを限定して、ジャムツ・ダウス(Jamts Davs)と呼ばれる。
桃白色あるいは白色の岩塩で、その形成期間は約3億5千万年前とされる。
(出典:Wikiペディア)
ウランバートル市内のスーパーで買い物をする機会がありましたので、その際に購入したものです。
旅行先のスーパーやマーケットプレイスをぶらぶらショッピングするのは楽しいですね。
で、岩塩は、このスーパーの調味料売り場にさまざまな種類が売られていました。
その中で、きちんと Uvs Nuur Basin産のJamts Davsと明記してある一番信頼できそうなものを選んで買い込みました。
その量、約5キログラム。
この岩塩の産地では地元の人はこの山を「シュデン・オール=歯の山」と呼んでいるそうで、ここから採掘される岩塩には多くのビタミン類が含まれ、消化システムの循環をよくする働きもあるそうです。
また、料理以外にも歯を磨いたり、うがいをし、喉の炎症や歯槽膿漏から予防して来た伝統があるそうです。
帰国後、開けてみるとピンクやピンク系の灰色、白などさまざまな色をしています。
今朝の坐禅会に参加される方にはもれなくお分けいたします!
お楽しみに
新しい発見との出会いは、街歩きを楽しくさせてくれます。
私たちの常識は必ずしも常識とはいえないということもわかります。
これまで、
中国で見かけたものあれこれ
フランスで見かけたものあれこれ
のように、発見シリーズをまとめてきましたので、今回のモンゴル版も記事として纏めてみましょう。
スフバートル広場(政府宮殿前)にて。
大統領就任式が行われるため散水車による清掃が行われようとしていますが、エンジンがなかなか掛からない。なんと手巻き式です!
モンゴルのこどもたちが寄ってきて隙をみて水を貰っていっています。たくましいものです。
植林地へ向かう道。
一人ではこんなところ不安で運転できないだろうな~
佐川急便モンゴル支店・・・ではなく、中古の車両をそのまま流用しています。
COOPなどのトラックもそのまま。却ってお洒落なのかも。
遊牧民のオートバイはピカピカに磨き上げられ、シートは派手なカバーで覆われていました。
「出入」「平安」・・・・いいですね~
モンゴル式の乾杯は3度繰り返されます。
乾杯に当たっては、みんなの健康と旅の安全、出会えた事の感謝の言葉を唱えて祝杯を上げます。
この日ははじめ日本式で、次にモンゴル式で・・・・という具合に交互に行われました。
「ボルトガイ!」
こういう場が絆を深め、人のつながりを広めます。楽しい食事会でした。
なお、日本人とモンゴルの方は基本的な体のつくりが違います。お酒で勝負するのは無謀なことです。
点灯していない信号を幾つも見ました。
日本ではきっと大騒ぎなのでしょうけれど、町の人達はまったく気にする様子がありません。
トロリーバスは健在です。
(日本では黒部渓谷のトンネル内にしか残されていません)
ザイサントルゴイに建立されている仏像。
仏像前に展開されているミニ遊園地がシュールです。
これを思い浮かべてしまいました。
道端に詰まれた石の山とギプス。
この種明かしは後日いたします。
ウランバートル近郊の山には夏至も近いというのに雪が降りました。
製鉄の街、ダルハンで私たちを出迎えてくれた「アイアン・マン」(正式名称不明)
電柱たちは腐食防止のため地面から浮かせてコンクリートの柱にくくりつけられています。
刈り取った羊の毛に登って遊ぶ山羊
ロシア国境で売られている川魚。
バイカル湖に注ぐ川で釣ったものを燻製にしたものです。
ウオッカと良く合うのですよ、これが。
(上記の「乾杯」の席でこの魚が出されました)
ホテルの窓枠。
せめて傷防止のシールは竣工時に剥がしておいて欲しい・・・まあ、細かいことはいいか。
モンゴルのインターネット環境から自分のブログにアクセスしてみた。
日本語フォントをDLしないとヨメマセン。
・・・これは卑怯だ。
モンゴルを旅行中に幾つかの遊牧民の家・ゲルを訪問する機を得ました。
冷蔵庫が無いために、絞られた乳は火にかけられ、沸騰させます。 このほか、マントウ(蒸しパンのようなもの)などを戴きました。 天窓には干し肉が吊るされていました。 これも冷蔵庫に頼らない自然の智慧ですね。 このようにしてみると、ゲルの生活はかなり地球環境に易しいものであるということがわかります。 ゲルの中から、ドア越しに放牧されている羊やヤギの群れを眺めながらお茶とお菓子を戴いていきます。 旅して情報から隔絶された世界にいて、改めて「幸せ」とは何かということを考えてみました。 幸せを図る指標の一つに
GNH(Gross National Happiness)があります。 この指標はブータンの国王が政治的判断を行う際の指標として考案したものであるといいます。 GNHで定められた国民総幸福度を図る指標は次のとおり。 ・living standard(基本的な生活)
しかし、経済的な発展が経済格差や環境破壊や文化の喪失につながるというのは一理あります。
右にその結果を書いてみました。 日本は残念ながら第90位。 「幸せ」だと感じている人が少ないのですね。 都市難民の増加や経済格差の拡大など深刻な経済問題を抱えるモンゴルのほうが、何故清潔で豊かに見える日本よりも「幸せ」を感じる人の割合が多いのか。 |
Nation SWLS Score |
これは、同じ日に行われる予定の戸塚・善了寺キャンドルナイトと同時刻にモンゴルで行うという約束を実行したものです。
キャンドルナイトの目的の一つが「便利な文明社会にどっぷりつかっている現状をいま一度振り返り、ろうそくの温かくやわらかい明かりに集まった家族、友人、皆と語り合うことによって、日常生活に還元していくこと」であるとするのなら、 SWLS指標の高い国ではあえて必要の無いムーブメントなのかもしれませんね。
SOTO禅インターナショナル(SZI)で進めている「塔婆供養で植林支援」事業は、2年目に入りました。
おかげさまで全国のSZI会員御寺院様をはじめ、多くの方の賛同を戴き、昨年度は2万5千本を越える苗木植林を行うことが出来ました。
その基本理念は、一本の塔婆で一本の苗木がそだちます や 卒塔婆を中心とした循環システム 塔婆供養で植林支援-植林を担う人材育成 などの記事でも書いていますのでご参照ください。
SZIスタッフの役員会で発案された何気ないアイデアを如何に実現させ軌道に乗せるのかということが重要なところです。
さまざまな植林活動を行っているNPO団体などとコンタクトを取りながら、実際にお会いしていく中でであったのが、今回の「塔婆供養で植林支援」のパートナー団体とさせていただいている GNC代表宮木氏でした。
SZI役員会で最初に諮った際は「なぜ塔婆供養での植林を日本では無くモンゴルで行うのか」という反応もあり、なかなかすんなりと進まない時期もありましたが、けれども、一度動き始めると順調に進むようになり、冒頭で述べたように、モンゴル・セレンゲ県スフバートル近郊のトジンナルスに 25,000本(10ha相当)のヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris)苗木の植樹支援を行うことが出来ました。
植林には、セレンゲ県森林動物センター長・ジャムスレン氏をはじめ地域の住民・学生約100名が作業に携わり、セレンゲ県森林動物センターにより定期的に巡回管理されています。
このたび、6月15日~20日の日程で、植林がどのように行われているのか、実際にモンゴル植林地へ赴くツアーを計画し実施いたしました。
その主な目的の一つは、もちろん会員の皆さまから寄せられた植林支援による苗木の生育状況を確認することでありますが、個人的には自分なりに持っていた「なぜ~」という部分に対する回答を明確にすることも重要な一つであります。
今回のツアーには私も含めてSZIスタッフ3名が参加いたしました。
悪天候による出発時間20時間遅れがあったものの、私たちを迎えてくれたのは雄大な光景と、現地の方々のおもてなしの精神。
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どのようなツアーだったのか・・・・・参加したスタッフはそれぞれブログを持っておりますので、それぞれの視点での報告がなされることでしょう。
拙ブログでも順次記事として纏めて行きたいきたいと思います。
なお、8月発行予定のSZI会報41号にもツアーの報告記事が掲載されます。
そちらもどうぞお楽しみに
※今回のツアーにはGNCモンゴルの皆さまをはじめ多くの方々に大変御世話になりました。心より感謝申し上げます。
1週間以上の滞在型宿泊施設です。
病院と隣接しており、食事療法、リハビリに快適な環境が整っています。
一般の方の滞在も可能です。
和室もありますが、特に洋室はバリアフリーで電動ベッドを備えた部屋も多く、高齢者やリハビリ中方にも安心です。
食事は1日(3食)1,600キロカロリー・塩分10g以下でメニューが作られています。
調理実習室ではこのように設備が整っており、自由に参加できます。
トレーニングルームやカラオケ(発声・呼吸訓練)設備も整っています。
素晴らしい設備が県内にあるのですね。
http://219.121.16.30/blog/archives/001587.html民児協研修会2日目。
施設実地研修は 湯河原厚生年金病院 からのスタートです。
湯河原厚生年金病院当院は厚生年金の福祉施設として昭和21年に設立し、整形外科・形成外科・外科・リハビリテーション科・リウマチ科を中心とし 、近代的な高度医療機器(MRI・RI・CT等)を備えた病院で、循環器・消化器・呼吸器疾患の治療にも重点をおいています。
また、豊富な温泉を利用し社会復帰に向けた理学療法及び作業療法など一貫した医療体制をとっています。
最初に院長さん、事務長さんより施設の概要を説明いただきました。
設立年からわかるとおり、戦後、特に民間の戦争障害者医療のために、整形外科診療を主にした療養所として設立されました。
それ以来、湯河原の核となる病院として整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科を中心にした病院へと変遷しています。
ここの地域も例にもれず高齢化が進んでおり、丘陵地帯が多いことも相俟って訪問看護・訪問リハビリテーションなども行われています。
温泉を利用した治療も特徴のひとつです。
なお、新型インフルエンザの流行に備え、全員マスク着用での研修となりました。
程度に応じた設備が整っています。
通所リハビリの入口には、リハビリの一環として作成された看板が掲げられていました。
紙テープを巻いて作られています。
食堂はセルフのシステムとなっています。
(もちろん、食事を食堂でとるれない方は別ですが)
カロリー、塩分の計算もされており、食事制限のある方には個別に対応されています。
写真では御紹介しておりませんが、通常運営されている中での研修ですので実際に患者さんと病院との関り方もよくわかりました。
そして何より清掃の行き届いた廊下とトイレ病室などが印象的でした。
⇒研修旅行@湯河原3 に続く
民生児童委員研修のために湯河原に来ています。
一日目は定例会と意見交換会。
具体的には記載できませんが、お年寄りのかたからこどもたちに関する問題について深夜まで話し合いが持たれました。
皆さんのパワーには圧倒されます。
宿泊地は湯河原の街を一望するこぢんまりした旅館です。
・・・そんな感じで夜は明け
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前日の嵐のような天気が嘘のように好転しました。
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早朝、朝食まで時間があったため皆で散歩をかねて街を一周。
山を下り千歳川を渡ると、そこはもう熱海市です。
曹洞宗福泉寺様へ参拝。
境内には肩から上だけの陶製のお釈迦さまの像が安置されています。
茅葺の屋根がおちついた良い雰囲気を醸し出しています。
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この像は300年以上もの前、名古屋藩主徳川光友公の代です。
光友公の父義道公がある日の狩の帰り道、馬上より遥かに見て、一町人の娘が健気にも耳の遠い老母が行列の来るのを知らずに家の前で行水しているのを、タライ共奥へ運び去ったのをご覧になり、孝心とその行為に感激され、後に御殿奉公を命じました。
娘は後、若君を懐妊し「匹夫下郎の卑しい身分で股から御産み申すは万世の恥である、腹から御産み申さん」と云い、ついには断腹して光友公を御産みになられました。
母胎は若君誕生後絶命しました。
光友公は若くして孝順厚く自身誕生を知り母上の菩提を弔う供養としてお釈迦様の像の建立を願いました。
製造にあたり陳ケンビンという人に命じ、尾張瀬戸赤津村大仙山の土をもって謹造したものです。
当寺には頭部のみ安置しました。
時代の変遷により胴部は何処に埋没したとかいわれています。
(由緒書より)
なるほど、そのような伝承があったのですね。
それにしても、凄まじいばかりの眼光です。
その後、川を上流に進みます。
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途中に祀られていた道祖神をお参りしつつ、曹洞宗保善院様へ 。
境内には湯河原で晩年を過ごした竹内栖鳳の筆が祀られています。
その隣には三味線塚も。
太平洋を望むことが出来る眺めの良い場所です。
このあたりはみかんの産地。
モノレールがあったり、レモンが鈴なりになっていたり
・・・ リスがエビフライを造る途中のもの も落ちていました。
即心会研修として、東京カテドラル聖マリア大聖堂へ参拝させていただきました。
教会内部を東京大司教区事務局チェレスティーノ・カヴァニャ宣教師にご丁寧なご案内をいただきました。
この教会はカトリック関口教会教会堂で、カトリック東京大司教区のカテドラルでもあります。
カテドラルとはとは「カテドラ」のある教会のことです。
曹洞宗には管区、宗務所、教区という単位がありますが、カトリック教会にも同様に日本全国を16区分した「教区」という教会の行政、地域的区分があります。
教区長は、司教または大司教と呼ばれます。
教区長の着座椅子(司教座)が曲ろくならぬ「カテドラ」でありますので、司教座を持つ教会が「カテドラル」と呼ばれます。
なお、東京教区は東京都と千葉県がその範囲とるそうです。
1899年に建った当時の関口教会教会堂は木造でゴシック様式の建物でしたが東京大空襲により焼失、その後1964年丹下健三氏の設計により現在の大聖堂が建てられました。
上空から見ると、このように見事に十字架の形をしています。
外観は金属の質感、内面はコンクリートの質感を良く生かした形状が印象的です。
⇒大聖堂の写真はこちら(公式サイト)
構造は東京大学坪井研究室により、音響は石井研究室により為されました。
その内部形状から、特に残響時間の計算結果には特に苦労されたようです。
当初設計では残響時間がなんと20秒。
これでは音楽はもとより、司教のことばも参列者に明瞭に伝わりません。
そこで様々な工夫がなされました。
天井に配された吸音材の役割を果たす天窓、さらに壁面には壷がいくつも埋められています。
壁に見える小さな穴は、壷に続く穴だということです。
また、設置されているスピーカーは小さいものをスポット的に配されています。
設置されているパイプオルガンは2004年に新しく設置されたマショーニ・オルガン Op.1165です。
東京カテドラルのオルガン マショーニ・オルガン Op.1165現代建築の記念碑ともいえるこの大聖堂に2004年に新しいオルガンが設置されたことで、聖堂内部は完全なものになったといえるだろう。オルガンは、日本では珍しく信者席の後方のバルコニーに設置されている。ここでは、オルガンはコンサートホールとは異なる空間のもとに本来の宗教的かつ霊的な音楽が奏でられる。音色はクリアで濁りがなく、聖堂の長い残響の中でも美しく響く。歴史的なオルガン建造の伝統を反映しつつ、典礼だけでなく演奏会でも使用されることを考慮に入れた楽器である。
ポジティフ鍵盤にはイタリア独特のストップが備わっており、これはアンテニャーティ(訳註・北イタリアで1500~1650年頃活躍したオルガン製作家一族)の寸法を参考に設計されたもので、整音には特別な注意を払った。大型の楽器であるにもかかわらず、鍵盤のアクションは軽く、オルガニストは完璧にタッチをコントロールすることができる。全体が美しく共鳴しつつ、あらゆる調性でも弾けるよう、ヴァロッティ・モディフィカト調律法(5つの純正5度、5つの1/6コンマ狭い5度、2つの1/12コンマ狭い5度)を用いている。
(公式サイトより引用)
様々な工夫により残響時間は空席時7秒となりました。
それでも音楽ホールに比べて極端に長い残響時間です。また、西欧の大聖堂よりもさらに長いため、一種独特の響きを感じることができます。
丁度、月一度開催されるオルガン瞑想の演奏練習が行われており、私たちもその感覚を味わうことが出来ました。
建物の地下には信者たちの納骨堂や地下小礼拝堂があり、それぞれを案内いただきました。
なお、この度の訪問に際してはご案内いただきましたチェレスティーノ・カヴァニャ宣教師は駒澤大学でも学び道元禅師にも深い造詣があります。
『大法輪』2月号には氏の寄稿がありますので併せてご紹介いたします。
『大法輪』平成21年2月号 特集∥これでわかる 〈道元〉道元禅師とキリスト教……………チェレスティーノ・カヴァニャ
タイ人僧侶並びに日本人僧侶によって上座仏教の教義を主体とした法話、瞑想指導を行っています。 終日開院し、常時僧侶が在院しているので、興味のある方はご来院下さい。 (公式サイトより)
タンマガーイ寺院は仏教国タイにおいて急速に勢力を伸ばしている新興系の仏教宗派です。
私たちは上座仏教の国においてどのように新しい宗派が勢力を広げているのかを含めて研修課題とするために、タンマガーイ寺院東京別院を訪問させていただきました。
まずはタイ国パトゥムターニー県にあるタンマガーイ寺院総本山の写真をご紹介いたします。
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(タンマガーイ寺院パンフレットより)
1969年には3.1万平米の寺院でしたが、その後急速に成長し、320万平米、数十万人の信者が常に集う大寺院に成長しました。
現在、タイには3万を超える寺院、6300万人の人口のうち30万人が僧侶であるといわれます。
仏教国タイにおいて、タンマガーイ寺院は、上座部仏教の伝統と現代的な新要素である瞑想実践、映像メディアを積極的に取り入れ現代タイで勢いのある寺院です。
タンマガーイ寺院はタイ人たちの心の拠り所としての中心的役割を担うために2000年開設されました。現在までに、東京の他に日本には6箇所の別院が誕生しています。
私たちが訪問した日は新年最初の満月の日、「マーカブーシャー」の行持が行われる日です。
マーカブーシャーは、阿羅漢たちが仏陀の下に集まり重要な説法を受けた日です。
タイではこの日に蝋燭を灯してお釈迦様に捧げます。
このように仏舎利塔が設けられ、その周りを蝋燭を掲げた僧侶、信者たちが右回りに三周します。
別院本堂の壁面には、タイ国本山におけるマーカブーシャーの様子がリアルタイムに衛星中継により流れています。メディアを積極的に取り入れたといわれることが顕著に現れている部分です。
それにしても、物凄い人の数。
本堂ではマーカブーシャーの準備が進められています。
私たちは残念ながら時間の関係で参加できませんでしたが、この2時間後の午後6時より蝋燭が灯され、灯火をお釈迦様に献灯する儀式が行われます。
信仰の中心には「タンマガーイ瞑想」があります。瞑想坐禅の方法を解説いただきました。
これは禅宗の坐禅とはかなり異なる方向性をもつ「坐」の瞑想実践です。
日本にはタイの伝統的なワットパグナム系の寺院が別にあります。
タイ仏教の寺院は総じてあまり目立たないように見えますが、けれども、このタンマガーイ寺院は活動を積極的に広げていること、そして在日タイ人たちのコミュニティーの中心としてこのタンマガーイ寺院の果たす役割は少なからずあることが実感できます。
堂内には常にボランティア信者のグループが関わっており、特に日本への留学生たち、女性や子どもたちの姿が多く見られました。
日本の仏教が海外にどれほどの拠点を持ち、どれほどの活動を行っているかということを考えると、いわゆる「新宗教」の活動の方が目立つという状況があります。
今回の事例はそのことをタイから日本への拠点の広げ方として逆の視点から見ることができました。
曹洞宗海外寺院のこれからのあり方にも示唆を含む訪問となったと思います。
今後は、タイ国内において、上座仏教の伝統的な宗派から、このような新興宗派の活動をどのように捉えているのかということに着目していきたいと思います。
神奈川県東部の僧侶研修組織、即心会恒例の半日移動研修が開催されました。
今年は、日本に根付く様々な宗教施設を拝登させていただきました。
これまでも何度か別件で様々な寺院などを訪問、拝登させていただいておりますが、毎回感じることは、日本で暮らすそれぞれの国の方々の心の拠り所とコミュニティーの中核としての重要な役割を担っているということです。
逆に考えると、世界各地に広がる日本の仏教寺院が果たしてきた役割も同様でなのでしょう。
そこには現代日本の伝統仏教寺院にも学ぶべき事柄がたくさん詰まっています。
移動研修の最初の訪問地は東京佛光山寺です。
佛光山寺とはゆめ観音アジアフェスティバルにおいて交流があります。
「東京佛光山寺」のパンフレットには、「大船観音での世界平和祈安法要に台湾仏教の代表として参加」とご紹介いただいています。
東京佛光山寺(Tokyo Bukkozanji)は、台湾・高雄に本山を置く臨済宗「佛光山寺」(Fo Guang Shan)の日本における別院の第1号です。華僑と日本の皆様の交流の場として、また国際仏教の新拠点としてお役に立てることを願っております。
2007年5月18日に完成した、地上4階、地下2階(敷地460㎡・建物560㎡)の本施設には、本堂(如来殿)、法話室、喫茶室、応接室、多目的室(ボーイスカウト板橋第16団活動拠点)、食堂、ロッカー室、身障者用トイレ、駐車場などを備え、また国際佛光会東京協会の事務室も当寺院内にあります。
本寺院内の施設の一部は一般の方々のご利用も可能です。また、東京佛光山寺を1時間で見学体験できるコースも新設致しましたのでお気軽にお問い合わせください。東京佛光山寺の僧侶は、中国語・台湾語はもちろんのこと、日本語や英語でも対応可能です。
日本を除くアジア各国では旧暦でにより寺院行持を行うことが多く、研修旅行の開催日が、旧暦で春節の年が明けて初めての満月の日、「元宵節」となったため、さまざまな特別法要が行われておりました。
そのような法要に参加させていただくことも研修の目的の一つであります。
法要に随喜。
この日は旧暦正月15日ということで、「八十八佛洪名寶懺」経を読経いたしました。
略布薩にあたる法要です。
中国寺院での法要においては両班の東、西が交互にお拝をしていきます。
そういえば、霊隠寺で行われていた法要も同様のお拝をしておりました。
法堂の脇に飾られている牛たち。
これはおみくじとなっていて、中に運勢が書かれています。
(参列者は一つづつ持ち帰ります)
法要後、佛光山寺の概要と活動について説明をいただきました。
それにしても規模が桁違いです。
特に、台湾・高雄に本山では、全国全世界から集まる信者さんが快適にお参りできる宿泊施設群や1000人規模まで対応できるホール、1000人が一度に坐することができる大坐禅堂など・・・・
佛光山は、日本国内においては東京佛光山寺をはじめ、佛光山本栖寺、大阪佛光山寺、名古屋佛光山寺、福岡佛光山寺、群馬佛光山寺(2010年完成予定)、その他関連道場(布教所)など、全国各地に複数の寺院・施設を擁しています。
当寺の本山である台湾の佛光山寺は、約40年前に星雲大師によって開かれました。星雲大師の法脈伝承は中国江蘇省南京の東北にある、南北朝時代より由緒ある古寺の「棲霞山」が源になっています。星雲大師はここで志開上人のもと出家し、臨済宗第四十八代として衣鉢を継ぎました。星雲大師は1949年春、台湾に渡り、宜蘭雷音寺にて念仏会、弘法団等を作り、後の弘法事業の基礎を築きました。1967年に佛光山寺を開山し、仏教の弘法及び教育、文化、慈善等の諸事業に全力を尽くしてきています。創建40余年、今では佛光山寺は台湾総本山のほかに全世界各地に200余りの別院を擁しています。とりわけアメリカの西来寺、オーストラリアの南天寺、南アフリカの南華寺等は、当地最大の中国寺院と称えられています。また、1992年5月、星雲大師がアメリカで設立した「国際佛光会」(信徒団体)は現在、世界各地で620余りの分会を擁するまでに成長しています。
(公式サイトより)
台湾には元来得られた利益は社会に還元しようという精神が根付いているということも大きな原動力となっているようです。資産は内部留保せず、積極的に社会貢献のために「使っていこう」とする基本姿勢があるため、台湾内部に留まらず世界中に下記のような様々な活動を展開しています。
そこには開山・星雲大師が掲げる「人間仏教」の理念を実践し「世間是即ち浄土」の実現に邁進するという理念が生かされています。
それが社会的に認知され、自然に浄財が集まる土壌を生み出すという好循環となっている事例だと感じます。
活動の一部としては
編蔵編纂(大蔵経の編集)
佛光テレビ局
佛光美術館
「人間福報」新聞社
佛光文化出版社
国際学術会議
国際交流会議
仏教音楽の普及促進
教育による人材の育成(叢林学院、西来大学、南華大学など)
慈善による社会への奉仕(雲水病院など)
点心飯台。
心の込められた中華精進料理が並びます。
私たちだけでなく、佛光山寺を訪れる一般信者たちにも平等に振舞われる料理です。
台湾式のお唱えと、日本での食事作法のお唱えを両方行い戴きました。
法師の皆さん、役員の皆さん、信者の皆さんと点心(昼食)飯台を交えながらさまざま話をさせていただきました。
その中で、台湾において尼僧の割合が高い理由、逆に日本において殆ど居ない理由について、以前このブログ記事台湾仏教を担う尼僧たち でもとりあげ考えたことを含めてざっくばらんに意見交換が出来ました。
そもそも台湾と日本の寺院制度が全く異なることが挙げられます。
日本では、一寺の住職が交代することは殆どありませんが、佛光山寺では「別院」という形で寺院を展開しているため、それぞれの寺院住職、職員は本山辞令によりほぼ数年おきに交代するシステムとなっています。(全世界に200を越える公式寺院がある)
現在の東京佛光山寺の住職もアメリカでの赴任を経て東京に来ているとのことです。そのメリットとして、何年も同じ場所に居ると向上心が失われてしまう弊害があり、それを防ぐことができるということでした。
・日本では、住職が結婚することが多く、長男が継承していくケースが多いため女性が尼僧となるとしても、その活躍の場所が限られている
・また、日本では女性の出家=配偶者に先立たれた(未亡人)あるいは悩みを抱えた上での出家というイメージが根強い
・台湾では逆に自分の可能性を発揮する場として、高学歴の女性こそが出家する傾向にある
などなど。
日本のシステムにも良い面悪い面があります。
その中で、良い面は積極的に取り入れていく必要はあるでしょう。いずれにしましても私たちが考えていかなければならない問題はたくさんあるようです。
仏教の持つ潜在的可能性とパワーを見出すことができた寺院でした。
(以下続く)
追記
佛光山寺の会報にこの拝登が紹介されました。
■関連ブログ記事
大船からひろがる平和のリレーメッセージ
台湾仏教を担う尼僧たち
旅程の最後に、九州国立博物館(福岡県太宰府市)に寄りました。
この博物館は2005年に開館。太宰府天満宮のすぐ裏の丘陵地に建てられています。
「国立博物館」を称する博物館としては京都国立博物館以来、108年ぶりに新設されたもので、国立博物館の中では最大の敷地面積を誇ります。
それにしても大きい!
西日本鉄道創立100周年記念・九州国立博物館開館3周年記念
『 国宝 天神さま 』 - 菅原道真の時代と天満宮の至宝 -
平成20年9月23日(火)~11月30日(日)
特別展示室
盛りだくさんの展示物が一堂に集められていますが、特に目を引いたのが 国宝 十一面観音菩薩立像 (平安時代・9世紀大阪・道明寺・伝菅公御自作の観音像)です。
国宝 十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)
木造 平安時代・9世紀 大阪・道明寺所蔵大阪府藤井寺市に所在する道明寺の本尊で菅原道真公自作の観音像との伝承を有する。道明寺は、菅原氏の祖先である土師氏(はじし)の氏寺として飛鳥時代に創建された寺である。同寺の縁起には、道真が三尺の観音像を制作し、その叔母である覚寿尼(かくじゅに)に与えたとする説話を伝える。道真は幼い時、母の願かけで命を救われたことから観音様を深く信仰しており、天神さまの本地仏(ほんじぶつ)が十一面観音とされたのはそのことに由来するともいわれる。本像は、当時の中国彫刻の強い影響を受けた9世紀木彫像の優作である。
(九州国立博物館のサイトより、下線部はkameno付記)
現在は、寺院と神社は全く別物という概念が植えつけられてしまっていますが、江戸時代までは神社の境内の中に仏堂があったり、社殿内に仏像が祀られることは普通に見られました。
貞昌院も永谷天満宮の別当でありましたし、そのような寺社は現在でも多く見られます。
日本古来の神道と、外来宗教である仏教が融合し「神仏習合」を形成されたのですが、平安時代には仏教の側面が強くなり、神の本体は仏であるという「本地垂迹説」のような考えも盛んになりました。
天神様の場合は十一面観音と大いに関わりがあります。
「大宰府安楽寺者、贈大相国菅原道真公喪葬之地、十一面観世音大菩薩霊応之処也」 『菅家御伝記』「北野文叢 巻十二」所収
との記載もありますし、『天満宮安楽寺草創日記』には延喜5年(905)道真公四十九日法要の際に観音堂を建立したと記されています。
菅原道真公は幼少の頃病弱であり、大病で重篤に陥った際にお母さんが病平癒を観音様に祈ったところ、一命をとりとめたそうです。母は貞観14年(872)に亡くなりますが、道真公は母の遺言により観音像を建立し、篤く信仰しました。
道明寺の十一面観音菩薩立像は、その際造られたものと伝えられています。
この観音様に対面することが出来ました。
それが今回の博物館を行程に組込んだ一番の理由でもあります。
なお、永谷天満宮には、菅原道真公が、自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ、日本に三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として知られています。
他の二体の道真像は、福岡県・安楽寺と、大阪府・道明寺に祀られています。
『 国宝 天神さま 』は開催期間が今月一杯でしたので、終了間際ということもあり、かなり大勢の人が訪れておりました。
■補記
企画展示・天神様研究所として「みなさまから頂いた天神さま」情報が展示スペースの一角にパネル展示されていました。
永谷天満宮と、なんと貞昌院の情報まで寄せられています。
投稿くださった かざみどり さん、ありがとうございました。
「みなさまから頂いた天神さま」情報は、インターネットでも閲覧できます。
■慧日山高伝寺(佐賀県佐賀市)
「葉隠の華里」と称され、天文21年(1552)、鍋島駿河守清房公により創建された曹洞宗の古刹です。
開山は玲巌玄玻大和尚。
肥前佐賀の歴史を刻んだ龍造寺・鍋島両家の祖霊を祀る寺院としても知られています。
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位牌堂(佐賀県重要文化財)の白壁。鍋島家11代直大公により建立されました。
毎年4月19・20日には「釈迦堂御開帳」が行われます。
本堂中央には誕生仏、右大間には涅槃図が掲げられます。
※写真の涅槃図は実物ではなくレプリカです。
仏殿裏にある約1800坪もの墓所、御霊屋に並ぶ墓石、石灯籠群には圧倒されます。
諸寺院に散在していたものを、明治4年、鍋島直大公により集められたものです。
梅の華の時節にはさぞかし見事な光景が見られることでしょう。
旅行中に拝登させていただいた臨済宗の禅道場を2つご紹介します。
禅宗の祖師栄西禅師が帰朝後、建久6年(1195)に頼朝を開基として創建。
後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の勅額が下賜されました。
塀の5本の線が、その崇高さを物語っています。
九州臨済宗第一として発展し、境内4町四方、子院38に及ぶ大伽藍を誇っていましたが、兵火により大多数が失われ、現在は往時の4分の1の広さとなっています。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶は、肥前背振山・聖福寺にその種を蒔き、日本各地に広まっていきました。
歴代の高僧のうち、特に仙涯和尚は書画で世に知られ、聖福寺にも多くの墨蹟や遺品が蔵されています。
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梅林寺は元和七年(一六二一)に有馬豊氏が久留米藩主として丹波福知山(京都府)から九州に移封の際、同地の瑞巌寺が移され、湘山玄澄禅師によって開かれた。後に豊氏の父、有馬則頼の法名「梅林寺殿」にちなんで寺号を梅林寺とし、久留米藩主有馬家の菩提所とされた。湘山玄澄禅師は梅林寺の開創にあたり、瑞巌寺を開いた師匠、禹門玄級禅師(慧性霊通禅師)を開山に勧請。禹門玄級禅師は慶長十一年(一六〇六)九月二十七日に遷化。
臨済宗妙心寺派に属し、元和7年(1621)に有馬豊氏公が丹波福知山より藩主としてこの地に移封の際に菩提寺として建立されました。豊氏公の父である有馬則頼公の戒名「梅林寺殿」にちなみ梅林寺と称されました。
開山は禹門玄級禅師。先月四百年遠諱が厳修されたばかりです。
梅林寺外苑には、梅樹500本余、つつじ3,000本が植えられています。
開創以来350年間は閉ざされていましたが、隣接するブリジストン工場の社長、石橋正二氏により苑内が整備され、昭和33年より市民に開放されるようになりました。
紅葉がちょうど見ごろを迎えていました。
見事な大木です。
一般的な拝観では見られない場所まで詳細かつ丁寧なご案内をいただきました。
細部に至るまで意匠の素晴らしさに見入ってしまい、時間が経つのを忘れてしまいそうです。
しかも、伽藍がきちんと「使われている」ということを実感し感銘しました。
竈の火も入っておりますし、浴室の五右衛門風呂も毎日使われているものです。
すがすがしい気持ちにさせてくれる禅道場でした。
道元禅師の時代の九州北部は、宋の貿易商や禅僧たちが往来し、国際色豊かな地でありました。
中世の港は、現在の港よりもずっと内陸側にあり、那の津・渡唐口には、宋からの船が行き交い賑わいました。
貿易で財を成し得た商人や博多豪商たちが多く、道元禅師の一行も商船に乗って宋へ旅立ったと考えられます。
貿易の玄関として、現在の博多の礎となった場所です。
道元禅師一行を乗せた商船も、博多湾を拠点としたのでしょう。
渡航の手続きを担っていた大宰府政庁は、九州の統括と大陸への玄関口、そして海外からの要人を迎える迎賓館としての役割を担っていました。
那の津は、大宰府の窓口として、入出港の要となる港町であったことでしょう。
この近辺には道元禅師に関連すると思われる場所がいくつかあります。
研修旅行においても、そのうちの幾つかを巡ってきました。
まずは、福岡市西区にある東林寺。
禅宗の祖師・栄西禅師が二度目の渡宋から帰国後、集落の背後に山があるという条件が宋の東林寺の立地に似ていることから「唐泊山東林寺」として文治3年(1187)建立されたものです。
道元禅師と同行された明全和尚も、東林寺に拝登されたはずです。
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(左)集落の細く急な坂を登ったところに東林寺山門があります。
(右)歴代入定塔。当山開山栄西千光祖師
○東林寺 禅宗済家
唐泊山と号す。唐泊村に在。千光国師帰朝の時此浦に着て宿せしが爰に小寺を建たり。則此寺也と云り。小高き所に立たる寺なれば、遠望朗にして佳景の地也。
『筑前國続風土記』「巻之二十三 志摩郡」(貝原益軒)より
東林寺からの眺望。
唐泊港、博多湾、志賀島・能古島が見渡せます。
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からとまり 能許(のこ)の浦波立たぬ日は あれども家に 恋ひぬ日はなし 『万葉集』「巻15・3670」
境内には、栄西禅師が修行に使用したと云われる「座禅石」や、「栄西禅師像」「万葉歌碑」があります。
また、栄西禅師が持ち帰ったお茶の種から育った大木が現存していました(残念ながら数年前に枯れてしまったそうです)。
ここから見える唐泊の漁港は、古くから港として知られ、奈良時代の遣新羅使はここで風待ちをして出港したと伝えられています。
そのため、ここには渡航者の宿がたくさん置かれ。韓亭(からとまり)と呼ばれました。
唐泊の地名の由来です。
唐泊港は、江戸期には筑前五ヶ浦廻船の港と栄えていましたから、道元禅師の時代にもこの地に立ち寄られた可能性も充分に有るわけです。
それを裏付けるようなものが残されています。
唐泊に程近い地に残されている道元地蔵です。
地元の歴史研究家のTさんにお話をうかがう事が出来、さらに現地まで案内までしていただきました。
Tさんが地元で集めた伝承に基づくと、1227年、道元禅師帰朝後、海の時化に遭い、熊本(川尻)に上陸、その後、この地に8年間(1227-1235)庵を建てて人々に説法を説き、地元の人々を助けた。地元の人は、お地蔵様をお祀りし、子どもたちの安全成長を願ったということで、現在もこの道元地蔵が篤く信仰され続けているとのことです。
ご案内を戴きながら、道元地蔵様をお参りいたしました。
Tさんも子どものころから、病気平癒にご利益があると教えられ、病気などになるとお参りをされたとのことです。
先の福岡西方沖地震でかなり被害を受けましたが、地元の方々により、修復がされました。
このように一般の地元の方々により大切に守られているということに大変感銘を受けました。
ご案内くださいましたT様には心よりお礼申し上げます。
道元禅師の名前が残る地としては、この他に福岡市西隣の二丈町、深江の津があります。
今回は時間の関係で訪問できませんでしたが、「道元」という名前の集落、道元道、そして、その先には伝説の怡土七ヶ寺の一つ、夷巍寺の跡とされる一貴山があります。
一貴山には仁王門とともに、仁王像が地元の集落の人びとに、特に久我家の方々により大切に守られてきました。この久我家の家紋も、久我竜胆であり、何らかの関連性を伺わせます。
様々なことに思いを馳せ、ロマンを感じることができる旅となりました。
(つづく)

今回の旅行は、羽田発北九州空港行きの飛行機から始まりました。
到着の地、北九州空港は、平成18年に開港したばかりの新しい空港です。
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空港は苅田(かんだ)市の沖合いにあります。
現在はこのようにトヨタや日産などの大工場が並びますが、道元禅師は、明全和尚、建仁寺の僧侶と伏見から淀川をくだり、堺から瀬戸内海を進み九州北部に辿りついたのではないかと考えられています。
ただし、冬の下関海峡や玄界灘は、当時の小型舟ではかなり航行が困難であったと推測されますので、この苅田の港から上陸された可能性は大きいでしょう。
苅田港に道元禅師一行が到着されたとすると、旧街道である味見峠を越えるルートを通ったはずです。
今回の旅行でも、敢えて旧街道を通行するルートを選びました。
途中、このように平尾台のカルスト台地を眺めることができます。
この付近は石灰を多く産出し、セメント工場があちこちに見られます。
味見トンネルを抜けると、香春町へ。
この地は大陸や朝鮮半島と深い関りをもっており、地名にもその名残を見ることが出来ます。
味見峠の近くにある香春神社(かはらじんじゃ)は渡航神として篤く信仰されており、例えば平安期に最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)も、参拝されています。
遣唐使たちも、この香春神社に必ず詣でて願を掛けました。
とすれば、道元禅師一行も・・・・・
香春町から田川市に掛けて、ルート上から見える香春岳は、石灰岩により形成された三つの山です。
「一の岳」「二の岳」「三の岳」・・・・これは炭坑節の「一山、二山、三山越え、ヨイヨイ・・・・・」の山ですね。
このあたりは、明治維新後の九州地域において、近代工業化の重要な地点でもあり、その過程を示す産業遺産がたくさんあります。
九州から山口県にわたる22の資産が残されています。
三井田川鉱業所伊田竪抗櫓、同第一第二煙突などが世界遺産暫定一覧表に掲載されました。
今回の旅行の行程を作るにあたり、たくさんのアドバイスをいただきました。
そればかりでなく、諸堂のご案内や道元禅師の行跡、近辺の歴史に関する詳細なお話を賜りました。
ちょうど紅葉の美しい時期でありました。
美しい!
本当にありがとうございました。
田川の近代産業の歴史に関するteraさんのブログ・北九州紀行(2)~筑豊~を併せてご参照ください。
記事中の地名は下記をご参照ください。

地元の研修組織・即心会(私が幹事長を勤めさせていただいております)の移動研修旅行のため再び九州に来ております。
今回のテーマは道元禅師入宋の足跡を尋ねる旅。
先月、事前学習としてtenjin95さんに講義をいただいておりました。
(※その節はお世話になりました)
また、tera様、成道寺様には行程を組むに当たっての資料やアドバイスを多分に頂戴いたしました。
(この場をお借りして心より感謝申し上げます)
行程は
北九州空港~苅田~味見峠~日田~田川市~福岡市(泊)~久留米~佐賀~大宰府~福岡空港
としています。
追って報告記事をUPしていきます。
知覧には、「薩摩の小京都」と称えられる武家屋敷群があります。
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、7つの庭園は国の「名勝」に指定されています。
7庭園のうち、森重堅氏邸庭園は築山泉水式庭園で、他の6庭園は枯山水式庭園です。
まずは綺麗に切石され積まれた石垣と、槙などの見事な生垣の見事さに圧倒されます。
この武家屋敷群は、16代島津久達から18代島津久峰の時代に造られたものです。
知覧城を中心に形成された石垣には、沖縄に見られる石敢當や屏風岩など琉球文化の影響も見ることができます。
なんと、樋に竹が使われています。
とても珍しいものです。
殿様専用の玄関に続く飛び石。
薩摩では、さらに玄関が「男玄関」「女玄関」と厳密に分けられておりました。
男尊女卑が強いと言われる薩摩の一端を垣間見ることが出来ます。
庭土が白いのは、シラスを使っているからです。
南国ならではの植木。
(左)でぃご (右)バナナ
それにしても、不届き者は何処にでもいるものです。
きっと今頃は「ゴッツイ処罰」が下っていることでしょう。
町並みを見守るお地蔵さん。
表情がいいですね。
心を和ませてくれます。
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慟哭、誓いの碑
この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、
民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓うLAMENTATION, MONUMENT OF PLEDGE
NO MORE TRAGEDY. WE HEREBY VOW ETERNAL PEACE
FOR ALL MANKIND THROUGHOUT THE WORLD,
IRRESPECTIVE OF NATIONS AND RACES
昭和20年3月1日、硫黄島を占領した連合軍は、同月25日、沖縄慶良間列島に上陸しました。
軍部は、この劣勢を一気に挽回する作戦として、特別攻撃隊(特攻隊)を強化します。
知覧に集められた特攻隊は17歳から22歳くらいの若者が殆どでした。
特攻隊の戦闘機は機体に数百㎏の爆弾を付けて連合軍艦隊に突撃しましたが、多くは敵艦近くで対空砲火のために海中に散っていきました。
(特攻作戦に飛び立った飛行機3,461機のうち、1,915機が体当たり、そのうち132機が敵艦に命中、122機が至近弾となったとされています。また、特攻作戦により、海軍は2,535人、陸軍は1,844人の戦死者を出し、失われた飛行機の数は海軍2,367機、陸軍1,094機に上りました)
戦後まもなく米軍が撮影した航空写真が「国土変遷アーカイブ」としてインターネットにて公開されていますが、その中で知覧を撮影した写真を見ると・・・・
写真名 USA-M489-2-106 コース番号 M489-2 写真番号 106 撮影年月日 1947/09/18 市区町村名 川辺郡知覧町 撮影実施機関 米軍 撮影高度 4724m 撮影縮尺 1: 30858
飛行場と思われる場所から痕跡のようなものが南西方向へ幾筋も伸びているのを発見しました。おそらく離陸の跡でしょう。
飛び立った飛行機は開聞岳(薩摩富士)を目標に、一路沖縄へ約二時間の片道の航路を進みます。
彼らはどのような思いで操縦桿を握っていったのでしょうか。
全国から集められた特攻隊員は、僅かな滞在の間、基地近くの富屋食堂を訪れました。
食堂のおかみさん、鳥濱トメさんは、隊員たちの心を癒す母親として、隊員たちに接します。
「私の残りの人生を、おかあさんに差し上げますから長生きしてください」
ある隊員はこのように別れの言葉を残したそうです。
鳥濱トメさんは平成4年に他界されてしまいますが、現在富屋食堂は富屋旅館として残されています。
最近、富屋食堂は旅館の隣に復元されました。
知覧の町に往時のまま残されているものは、給水塔、弾薬庫跡など、僅かしかありません。
知覧町は、この特攻隊基地のあった地であることから、昭和50年に特攻遺品館、昭和62年に知覧特攻平和会館が建設され、1036名の特攻隊員たちの記録が保存されています。
鳥濱トメさんの永年の願いにより旧陸軍知覧飛行場跡地に特攻平和観音堂が建てられました。
トメさんは、日々の観音参りを欠かすことはなかったそうです。
その特攻平和観音堂において慰霊法要を営ませていただきました。
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知覧特攻平和会館には多くの来館者で溢れていました。
小学生の姿も多く見られました。
館内の方の説明を食い入るように聞いている姿が印象的でした。
遺品の数々、特に隊員たちの残していった手紙を見るにつけ、涙無くしては回れないのです。
「お母さん 大元気で でっかい奴を沈めます」
「お母さん 不孝者でした お許しください 元気で逝きます」
「今こそ大声で呼ばせて頂きます お母さん お母さん お母さんと」
天皇陛下、お父さんよりも「おかあさん」の言葉が目立ちます。
それが素直な気持ちなのでしょう。
隊員の人達の多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるように、ということを言っていました。そして、そのことをできるだけ多くの人々に伝えて欲しいとも言っていたのです。みんないい人達でしたから、とてもやさしいんです。全部わたしの子供にしたい思いでした。自分の母の代わりになってくれとほとんどの隊員の人達が言いました。
(鳥濱トメさんの手記より)
■関連リンク
知覧特別攻撃隊『ウィキペディア(Wikipedia)』
財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
富屋食堂
指宿の海岸では、このように砂浜から煙が立ち上がる光景が見られます。
このように、80度を超える温泉が湧き出ているため、湯煙となっているのです。
波打ち際、海水に手を漬けると、熱い!
とても不思議な光景です。
この砂浜で、砂むし風呂に入ることが出来ます。
天然砂むし温泉の成分と効能1. 源 泉 名 /
2. 泉 質 /ナトリウム塩化物泉
3. 泉 温 /泉源 摂氏84.7度
4. 試験成績
■ 性 状 /湧出地 無色透明、強食塩味、無臭
試験室 無職透明、強食塩味、無臭
■ 水素イオン濃度 /(pH)湧出地 6.80
試験室 7.45
■ ラドン含有量 /0.29×10-10 ci/kg(1.07Bq/kg)
■ 比 重 /1.010(20℃)
■ 蒸発残留物 /14.19g/kg(110℃)1. 一般適応症
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・関節のこわばり・うちみ・くじき・
慢性消化器病・痔症・冷え性・病気回復期・疲労回復・健康増進
2. 泉質別適応症
きりきず・やけど・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
温泉成分は殆ど海水と変わりませんが、硫酸イオンが海水より数倍高く、地下深いところに溜められた古い時代の海水が湧き出ている説もあるようです。
今月初旬には宇都宮で「砂風呂遊び」をしていた中学生が砂場に掘った深さ約70センチの穴に埋められ意識不明の重体になるという報道がありました。生徒の一日も早い回復を祈念いたします。
水を含んだ砂の圧力は馬鹿になりません。
砂むし風呂では、横たわって砂を軽くかけてもらうだけですが、それでも体を動かすことが出来ないほどの圧迫感を感じます。
(起き上がるときには、まず自由の利く手を伸ばしてから立ち上がります)
背中から伝わる暖かさと、適度な圧迫感が血行に良い影響をもたらすのでしょう。
波打ち際ですから、海の音も心地よく響きます。
貴重な体験でした。
白波の 下に熱砂の隠さるる 不思議に逢えり 指宿に来て (与謝野晶子)
鹿児島湾越しに大隅半島より昇る日の出の一齣です。
パノラマでも撮影してみました。
仙巌園鹿児島市吉野町9700-1
仙巌園は、薩摩藩主島津氏の別邸跡であり、磯庭園とも呼ばれています。
第19代島津光久により作られ、代々守られてきました。
ここから見る桜島の借景は素晴らしいの一言に尽きます。
幕末には、第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場などが置かれ、日本最初にガス灯が灯った場所でも知られています。
中でも目を引くのは150ポンド砲(復元)と、それを製造した反射炉の遺構です。
この大砲は、70㎏の弾丸を発射できる性能があり、口径28cm、砲身長4.56m、射程は実に3㎞で、薩英戦争の際に英国艦隊に対して大きな威力を発揮しました。
この反射炉はオランダの鋳造法の書物を参考に作られましたが、なかなか成功せず、苦労のあとが見られます。
ちょうど園内では、県菊花連盟の皆さんによる菊花展示が行われており、三色千輪咲き・大懸崖などの見事な菊が園内にあふれておりました。
ここにも廃仏毀釈の一端を見ることが出来ます。
明治2年、島津忠義の正室の葬儀を神式で行ったことがきっかけで薩摩藩内の寺院が一気に破壊されていきました。
島津家の菩提寺も例にもれず廃絶され、その代わりに鶴嶺神社が建立されました。
鶴嶺神社は仙巌園のすぐ横にあります。
■吉祥山紹隆寺(大本山永平寺鹿児島出張所)
曹洞宗大本山永平寺では、昭和63年に不老閣建替えが行われました。
その際に旧不老閣が鹿児島に移設され、紹隆寺の客殿となりました。
その後、本堂、山門、鐘楼堂等が建設され、堂々たる大伽藍となっています。
永平寺より修行僧が夏の期間は十数名、冬の期間は5名ほどが派遣され、修行を行っています。
拝登諷経の後、参拝者焼香。
ご丁重なる案内と展待をいただきましたことを改めて感謝申し上げます。
紹隆寺は、越前島津家を再興した16代忠紀以下、重富島津家の菩提寺として建立されました。
重富家 (16代)島津忠紀-(17代)島津忠救-(18代)島津忠貫-(19代)島津忠公-(20代)島津忠教
薩摩では、元文2年(1737年)、22代薩摩藩主島津継豊が、弟忠紀に越前家の名跡を継がせて復興させた(越前島津氏播磨家22代の権兵衛忠義の時である)。復興翌年・元文3年(1738年)、薩摩藩による龍野藩上村の越前島津氏の末裔・氏神・住居等の調査が行われた。調査を命じたのは前藩主吉貴、調査担当は家老島津權左衛門であった。その結果、権兵衛忠義は越前島津家一族と認められるも正嫡か否かについては断定されず、薩摩藩の調査は終了した(国宝『島津家文書』越前島津家由緒承合候日記全)。 復興に際して大隅国姶良郡帖佐郷の脇元村・平松村・船津村・春花村と、薩摩国鹿児島郡吉田郷の東佐田浦村の一部を割いて触田村とし、その5ケ村を以って越前の旧領名に因んだ重富郷と命名したことから、重富家とも称した。石高は1万4000石。重富家は島津御一門家の筆頭格として位置づけられ、後に「国父」の尊称を得て薩摩藩主島津忠義を後見した島津久光(忠教)も、同家の養子となっていた時期がある。久光の子・珍彦の時に男爵となった。 (『ウィキペディアWikipedia』より一部引用)
しかし、明治維新後に成立した新政府により発せられた太政官布告「神仏分離令」(慶応4年)及び詔書「大教宣布」(明治3年)などの「廃仏毀釈」の動きに巻き込まれ、紹隆寺は焼かれてしまいます。
廃仏毀釈は特に薩摩藩において徹底的に為され、藩内にあったとされる1616か寺が廃寺に追い込まれ、還俗させられた僧侶は2966人にのぼったとされています。
つまり、殆どの寺院が破壊されてしまった訳です。
現在は、紹隆寺を偲ぶ史跡は、墓所と、山門手前にある紹隆寺橋くらいでしょうか。
橋梁名 紹隆寺橋
所在地 姶良町平松原 道路種別 その他の町道
路線名 紹隆寺線 河川名 狩川 架設年代 明治初期
文化財 石工名 不詳 管理者 姶良町
【石橋諸元】
形式 拱橋 橋長 8.65 幅員 3.25
壁石積み方 不詳 支間数 1連
(鹿児島県立石橋記念館のサイトより引用)
11月19日、20日の日程で鹿児島へ貞昌院檀信徒の皆様と研修旅行に出かけした。
主な内容は
・大本山永平寺出張所参拝
・知覧平和観音慰霊法要
となっていますが、それに付随していくつかの箇所を廻ってきましたので、順次ご紹介させていただきます。
(2) 吉祥山紹隆寺(大本山永平寺鹿児島出張所)
(3) 仙巌園(磯庭園)
(4) 指宿温泉・砂むし風呂
(5) 知覧特攻平和会館
(6) 武家屋敷群
出発直前、羽田空港にて。
冬晴れの天候に恵まれ、富士山までとてもよく見渡せました。
手前は川崎縦貫道工事現場。突貫工事が進んでいます。
航路の途中、相模湾~駿河湾沖からの富士山です。
雪もかなり積もっていますね。
2日目の行程には太平洋戦争末期、陸軍特攻基地が置かれた知覧の町を訪問します。
特攻隊員として出撃した1000名を超える若者たちは、薩摩富士を目標として沖縄を目指しました。
平和な世の中に生きている私たちは、このように富士山をゆったりとくつろぎながら眺めることができるのですが、特攻隊員たちはどのような思いで薩摩富士を眺めていたのでしょうか。
■臨済宗南禅寺派 兜卒山伝法院 広園寺
創建は康応元年(1389)と伝えられています。
かつては十数万坪の寺域と十の塔頭がありました。
天正年間の豊臣秀吉による小田原攻めにより八王子城と共に焼失しました。
(翌年、徳川家康から15石の朱印状を得て再興)
元禄年間には、火災により山門以外の伽藍を消失してしまいます。
従って江戸初期の山門を除きそれ以外の建物は18世紀以降に再建されたものです。
それでも、八王子の市街地にあって広大な寺域を有する堂々たる雰囲気を現代に伝えています。
総門-山門-仏殿-法堂が一直線に並ぶ伽藍配置です。
雪が残る境内は趣があって良いですね。
特に質素簡潔な禅寺の雰囲気にはよく合います。
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本堂の前には見性桜と呼ばれる枝垂桜があります。
桜の季節はさぞかし見事でしょうね。
夕暮れ間際の時間帯の訪問にも関わらず、ゆっくりと拝観させていただきました。
心遣いに感謝申しあげます。
これで一日研修の全行程が終了となりました。
余談ですが、昼食は拝島の石川酒造株式会社にて蕎麦をいただきました。
とても趣のある素敵な酒蔵です。
■臨済宗建長寺派 広徳寺
まずは、本堂の写真を。
・・・・・・実に美しい!
このような素晴らしい伽藍が東京都内にあるということに感動です。
広徳寺の開基は正応長者の妻(法名龍智智雲尼)で、明徳年間(1390-1394)に建長寺前住心源希徹和尚を請して開山としたと伝えられています。
江戸時代には境内12000坪を有し40石の朱印地が与えられていました。
これは、高尾山薬王寺に次ぐ規模であります。
伽藍配置は東向きに総門、山門(仁王門)、本堂が一直線に並びます。
山門(仁王門)は茅葺、寄棟造であり、階上には回廊が巡らされています。
扁額は「正眼閣」。
簡素で調和のとれた、典型的な禅宗様式の山門です。
総門は檜皮の葺替えが行われていました。
本堂は寄棟造であり、その右側に入母屋造の庫裏が配されます。
本堂と庫裏の間には唐破風の入口が設けられています。
堂々たる建物です。
北側斜面にあるため、境内にはまだたくさんの雪が残っていました。
広徳寺は紅葉も美しいことで有名です。
秋には改修なった総門、鐘楼堂を見ることが出来るでしょう。
■真言宗醍醐派別格本山 大悲山 塩船観音寺
天寧寺とは山を挟んだ東側に位置します。
関東八十八ヶ所霊場の1つ。
由緒縁起:大化年間、若狭の八百比丘尼が柴金の千手観音像を安置したことに始まります。
「塩船」の名は、天平年間に行基がこの地を訪れた際、周囲の丘が舟の形に似ているところから、仏が衆生を救う誓願の舟「弘誓の舟」になぞらえて、名付けられたものと伝えられています。貞観年間には、安然大和尚が十二の坊舎を建てるなど、興隆を極めました。
伽藍には室町時代の建物が並びます。
本堂・厨子、阿弥陀堂、山門(仁王門)は、国の重要文化財に指定されています。
本尊は十一面千手千眼観自在菩薩。
これは東京都の重宝でもあります。
茅葺の屋根に雪が積もって、さらに厳粛な雰囲気を醸し出しています。
5月には境内がつつじの花に包まれます。
けれども、ふんわり雪を被ったつつじの木々も美しいですね。
地元研修会にて、多摩の名刹を訪ねる一日旅行へと出かけてきました。
この地域には七堂伽藍が整った見事な寺院も多いのですが、近い割にはなかなか参拝する機会がありませんでした。
前日の降雪から一夜開け、路面凍結が心配でしたが、無事全行程を終えました。
その報告をさせていただきます。
■曹洞宗 高峯山 天寧寺
青梅市の北に位置する名刹です。
その荘厳な佇まいと、禅宗様式の伽藍配置は堂々たるものです。
回廊がきちんと巡らされている伽藍というのも貴重です。
その歴史は平安時代・天慶年間(938-946)までに遡り、「高峯山」の名で平将門により創建されます。
一時は廃寺になりましたが、室町・文亀年間(1501-1503)に青梅の領主であった三田弾正忠政定公により再興され、世の平安を願い天寧寺と名づけられました。
開山は山梨の広厳院二世一華文英大和尚。
なお、一華文英大和尚は武田信昌の従兄弟です。
武田家
信満―信重―信守―信昌―信縄―信虎―晴信(信玄)-勝頼
総門。
私たちを門の脇の六地蔵が迎えてくれます。
扁額の文字は「梅華林」
ちょうど梅の花も咲き始めました。
参道を進み、冒頭一枚目でご紹介した山門をくぐると、左に僧堂、正面に法堂、右に庫裏が配置され、回廊にて結ばれています。
天寧寺では七堂伽藍のうち、山門、法堂、僧堂、庫裏、東司が揃っている仏殿省略形永平寺式の伽藍配置です。
振り返ると中雀門の向うに雪に映える山門を望めます。
山門は宝暦10年(1760)に建立されており、多門天と増長天が左右に配されています。
楼上には木造十六羅漢坐像と釈迦如来像(室町時代・永正年間に下野弘円師作)が安置されています。
午後からの葬儀にも関わらず、御拝登の後ご丁寧な案内のもと諸堂拝観させていただきました。
接客の間からの裏庭・霞が池は見事です。
どこまでも続くような奥行きが感じられます。
雪の時期に参拝することができたことはとても幸運でした。
東香山大乗寺は石川県で最も古い曹洞宗寺院です。
山号は別称・椙樹林。
開山は、永平寺第三世・徹通義介禅師(1219~1309)です。
再来年(平成20年)、徹通義介禅師七百回御遠忌を迎えます。
公式サイトには漫画で禅師のご生涯が掲載されています。
このような親しみやすい形での紹介も一案だと思います。
漫画で読める徹通義介禅師の生涯
ヨーロッパの禅の布教に大きな役割を果たした弟子丸泰仙師(1914-1982)がパリで活動を始めてから3年後の1973年に、当時の一番弟子であったAlain Cassan 仙龍氏から土地建物の寄進を受け、フランス・アバロンの地に大乗禅寺を開設します。
その名前のもととなったのがこの大乗寺でした。
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蛇足ですが、周防監督の映画 『ファンシイダンス』は、大乗寺にて撮影されたものです。
参道の石仏には一つ一つ数珠が掛けられていました。
洞谷山永光寺は、約700年前の正和元(1312)年、太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚が45歳の時、能登国中川(現在の石川県羽咋市)の地頭、 酒匂頼親の娘(祖忍尼)の勧請により創建された開山禅師示寂の道場です。
創建当時は、本寺を中心に五院、二十数坊を擁して繁栄し、特に後醍醐天皇をはじめ、 南朝、北朝の帰依により勅願寺となり、光厳上皇の勅願による三重の利生塔の建立、 宗門唯一の霊場として曹洞宗五祖の遺物を安置した五老峯など、世の崇敬を集めました。
その後、二度(応仁2年、天正7年)の大乱に遭いましたが、天正10 (1582)年、前田利家により再興された後は、總持寺の末寺とされました。永光寺様式として曹洞宗伽藍構成の一典型を保っています。
永光寺様式とは、山門と正面の法堂を結ぶ軸線の右手に庫裡、書院、方丈、浴室、左手に僧堂、東司、鐘楼などがそれぞれ配置され、回廊で結ばれる配置が特長です。
現在の伽藍は寛永以後の再興で 往時を偲ぶべくもありませんが、平成の十年計画大修理を経て、諸堂宇の改修、整備がなされました。
法堂の奥に伝燈院があり、更に、その奥の石段の上には、高さ5mの墳丘、五老峰があります。
『洞谷記』によれば、五老峰には、高祖天童如浄禅師、二祖永平道元禅師、三祖孤雲懐奘禅師、四祖徹通義介禅師、五祖瑩山紹瑾禅師の祖師それぞれの遺品(如浄禅師の語録、道元禅師の霊骨、懐奘禅師の血経、義介禅師と瑩山紹瑾禅師の嗣書)が安置されているとされています。
この五老峰の裏から門前町の總持寺祖院に至る13里の山道が峨山道です。
總持寺二祖峨山禅師が永光寺を兼務していたころ、毎朝未明に永光寺の朝課を勤めてから、この道を辿り走り抜け、總持寺の朝課に駆けつけたといいます(峨山往来)。
そのため、總持寺で朝課において大悲呪を非常にゆっくりと眞読し、峨山禅師を待ち受けました。これが現在の大本山總持寺でも受け継がれています。
(実際に私達が峨山道を駆け抜けるには丸一日かかります)
もう一つ。
五老峰、伝燈院を参拝する際には、回廊に吊るしてある鐘を一打してから入堂するという作法があります。この鐘の音を聴いて、禅師さまが馳せ参じてくださるのです。
伝燈院の正面、一段高い壇正面には高祖天童如浄禅師から開山瑩山紹瑾禅師の尊像と位牌が祀られています。
さらに右左壇には明峰素哲大和尚からの尊像と位牌が配されています。
伝燈院は、時を超えて瑩山紹瑾禅師の法燈を立体的に感得し、礼拝することができる空間であるといえます。
今回の参拝において、普段は閉じられているこの伝燈院上壇への拝登をさせていただきました。
気持ちの引き締まる思いです。
写真はありませんが、尊像と位牌の配置図のみご紹介させていただきます。
| | 開 山 勅 特 謚 佛 慈 禅 師 瑩 山 紹 瑾 大 和 尚 | 當 山 五 老 峰 孤 雲 奘 大 和 尚 禅 師 | 當 山 五 老 峰 天 童 浄 大 和 尚 禅 師 | 當 山 五 老 峰 永 平 元 大 和 尚 禅 師 | 當 山 五 老 峰 徹 通 价 大 和 尚 禅 師 | |
| 當山第三祖 | 祀 堂 | 當山第二祖 紹燈開基・光禅開山 明峰祖哲大和尚禅師 | ||||
| 當山第五祖 宝鏡開基・光孝二代 壷庵簡大和尚禅師 | 當山第四祖 大雄開基・總持二代 峩山硯大和尚禅師 | |||||
地元の僧侶研修組織の仲間で石川県方面へ参拝旅行に来ております。
今年3月25日9時42分ごろ発生した能登半島地震は石川県輪島市を中心に大きな被害をもたらしました。
被害が集中した石川県輪島市門前町付近には曹洞宗大本山總持寺能登祖院をはじめ、芳春院、興禅寺など名刹も多いところです。
地震発生から半年余りが経過し、着実に復興への道を力強く歩んでいる姿を実感してきました。
地震発生の際に書いたブログ 能登地方で震度6強の地震が発生 の記事中にあった、倒壊した「總持寺祖院参道入口の手水舎」もこのような形で私たちを迎えてくれました。
しかしながら、境内随所にはまだ生々しい震災の爪あとが残されていることも事実です。
9月に開催された ゆめ観音アジアフェスティバル にて行われた托鉢の浄財をお届けさせていただきました。
山門には多数の瓦寄進が寄せられています。
伽藍の修復には十数年の歳月を要するとのことですが、街全体を含めた一日も早い復興を祈念いたします。
■曹洞宗 仏徳山 興聖寺
所在地 京都府宇治市宇治山田27
本尊 釈迦三尊像
安貞2年(1227) 道元禅師が天童山景徳寺如浄禅師に就いて釈尊より五十一代目の法を嗣ぎ帰国
~ 深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院(現在の墨染欣浄寺)に閑居
天福元年(1233年) 深草の極楽寺子院である観音導利院に滞在
嘉禎2年(1236年) 伽藍を整備し、観音導利興聖宝林禅寺に改名
寛元元年(1243年) 道元禅師越前に下向
~ 以後応仁の乱(1467)などの兵火に遭うなどにより荒廃する
寛永10年(1633年)永井信濃守尚政公、山城国淀城主として入国
慶安元年(1648年)永井尚政公により伏見城の遺構を用いて諸道を建立整備
慶安2年(1649年) 万安英種禅師を招聘して現在地に復興
⇒詳細データはつらつら日暮らしWikiをご参照下さい。
研修旅行の最後は、宇治の興聖寺参拝をさせていただきました。
日本曹洞宗の宗祖である道元禅師開創になる初開道場であります。
平等院の駐車場より、鵜飼舟や宇治川の清流を眺めながら川に架かる橋を3つ渡り、琴坂を200メートル登り、興聖寺の山門に辿りつきました。
山門は天童山の山門と造りが似ており、「曹洞宗初開道場」と掲げられています。
法堂(本堂)は慶安元年(1648年)建立。伏見桃山城の遺構を用いて建てられました。
本尊は道元禅師自作と伝承される釈迦牟尼佛像です。
法堂にて拝登の法要を行い焼香をさせていただいた後、諸堂拝観。
老梅庵(開山堂)には、永興詮慧和尚代になる道元禅師尊像が安置されています。
ここでも法要を営ませていただきました。
僧堂。
慶安元年(1648年)に建立され、元禄15年(1702年)改修された建物です。
ご丁寧な諸堂拝観をいただき、興聖寺を後にしました。
私たちが琴坂を下りきるまで、ずっと合掌で見送っていただきました。
本当にありがとうございました。
ここより京都駅へ向かい、横浜への帰路につきました。
琴坂は、宇治十二景にも選定されており、秋の紅葉シーズンには見事な光景を見せてくれます。
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今回の旅行の第二のテーマは、夜間の伽藍を散策すること。
旅館で食事を戴いて、懇親会を行った後に皆で奈良公園周辺に繰り出しました。
昼間の猛暑とはうって変わって心地よい風が吹き渡ります。
人出もまばら(後述しますが二月堂の盆踊り会場に人が集まっていたこともあり)でゆったりと贅沢な時間を過ごすことができました。
夜間の拝観をお薦めする一番の理由は、建築の構造や彫像の凹凸が浮き彫りになって、昼間とまったく違った表情を見ることができるからです。
南大門の金剛力士像(阿吽)も、このような迫力で私たちを迎えてくれます。
どうですか、この筋肉美!ダビデの像より300年前に作成されたものなのです。
鏡池の周りを散策すると、刻々と変化する中門と大仏殿の様子が楽しめます。
池に写りこむ伽藍も美しいですね。
昼にも同じアングルで撮影していますので、対比してみました。
8月前半には人々の祈りをろうそくの灯りで照らす なら燈花会 が開催されています。
時期的に行くことはかなり困難ですけれど、一度は見てみたいなぁ。
二月堂へ続く石段。
月遅れの盆踊り大会が開催されていました。
静かに暮れ行く奈良の街並み・・・・
写真左端が東大寺です。
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■華厳宗・東大寺
所在地 奈良県奈良市雑司町406-1
宗派 華厳宗大本山
本尊 盧舎那仏(国宝)
創建年 8世紀前半
開基 聖武天皇
別称 金光明四天王護国之寺
文化財 金堂(大仏殿・国宝)、南大門(国宝)、盧舎那仏(大仏・国宝)ほか
中門(重要文化財) 、石造獅子(重要文化財) ほか
由緒・基礎データはWikiペディアをご参照下さい。
まずは南大門(国宝)。
南大門は、昨年から黄色いアクセントが加わりました。
かつて南大門には「大華厳寺」という額が掲げられていたとの記録があり、それに基づき、昨年、往年の姿に復元されたのです。
この揮毫は、聖武天皇によるもの(集字)です。
遠くからですと小さく見えますが、高さ1.6m、横4.5mもあります。
南大門には種子島から伝わった鉄砲などによる穴がたくさん空いています。
この門の前でも戦が繰返されてきたことを物語っています。
ちょっとしたトリビアですが、その穴の一つに、今でも当時の鉄砲の玉が埋まっています。
皆さん、是非探してみてください。
南大門から大仏殿に向かうと中門に突き当たります。
中門越しに大仏殿を眺めることができます。
中門の左右には持国天と多聞天(兜跋毘沙門天)が睨みをきかせていますのですが、特に、兜跋毘沙門天に注目してみましょう。
このような兜跋を着けた格好をしています。中国唐代のキジル地方に伝わる毘沙門天がシルクロードを経て日本に伝来しているのです。
さらに注目すべきは、毘沙門天が地天女の両手の上に乗っていることなのです。
何と力強い女性なのでしょうか!
なお、地天女の両側は尼藍婆・毘藍婆です。
大仏殿へ向かう敷石は、真ん中の黒い部分が印度の石、その両側の薄赤の石が中国の石、その外側の白い石は韓国の石、さらに両側が日本の石です。
仏教伝来の歴史を敷石で表現しています。
途中にある金銅八角燈籠(国宝)もお見逃しなく。
往年の伽藍は、南北に南大門-中門-金堂(大仏殿)-講堂 と並び、その北側に僧坊・食堂が配されていました。
中門手前の東西には七重塔が聳え、回廊に囲まれて建っていたのです。
大仏殿の大きさも現在よりもずっと間口が広い堂々とした建築物でした。
日本の建築技術の高さが伺えます。
七重塔の相輪。これだけでも巨大ですね。
<この記事は書きかけです>
■法相宗・興福寺
所在地 奈良県奈良市登大路町48番地
宗派 法相宗大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
文化財 五重塔(国宝)・木造弥勒仏坐像(国宝)・乾漆八部衆像(国宝)ほか
南円堂(重要文化財)・木造薬王菩薩(重要文化財)・薬上菩薩立像(重要文化財)ほか
世界遺産
由緒・基礎データはWikiペディアをご参照下さい。
往年の興福寺には三つの金堂(中金堂・東金堂・西金堂)があり、南北に南大門-中門-中金堂-講堂、東には五重塔・東金堂・食堂、西には南円堂-西金堂-北円堂が配置されていました。
しかしながら平重衡の兵火による焼失などの度重なる火災や、廃仏毀釈による破壊を受け、かつての伽藍配置を偲ぶことが難しくなっています。
そのため、現在、興福寺伽藍再建計画が進められています。
薬師寺と同じように、数年後に訪れるとしたら、壮大なかつての興福寺により近い形で蘇っていることでしょう。
どのような姿を見せてくれるのか、とても楽しみです。
![]()
写真左 中門付近より東金堂、五重塔を望む
写真右 中金堂再建予定地と回廊基壇
それにしても、奈良公園に隣接しているために東大寺も興福寺も鹿が多いですね~
滞在時間を余裕をもって取りましたので、国宝館仏像や美術工芸品、資料の数々を堪能することができました。
慶派仏師による力強い金剛力士像、天燈鬼、龍燈鬼・・・どれもルネサンス美術品にも引けをとらない迫力があります。
有名な阿修羅像の表情も近くから拝観することができます。
興福寺へお越しの際は是非国宝館をご訪問されることをおすすめします。
↓写真は 木へんに秋と書く植物、きささげです。背景は五重塔。
![]()
豆知識:この木は、高木となり、また水分を多く含むため、避雷針代わり(雷除け)として寺社境内によく植えられていたりします。
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■真言律宗・西大寺
所在地 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5
山号 勝宝山
宗派 真言律宗総本山
本尊 釈迦如来(重要文化財)
創建年 天平神護元年(765年)
開基 常騰、称徳天皇(勅願)
正式名 勝宝山 四王院 西大寺
文化財 絹本著色十二天像12幅(国宝)、金銅宝塔(国宝)及び納置品(国宝)ほか
本堂(重要文化財)、絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)、木造釈迦如来立像(重要文化財)ほか
由緒・基礎データはWikiペディアをご覧ください。
西大寺は、創建当時は薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持つ大寺院でしたが、平安以降に多くの堂塔が失われてしまいました。
鎌倉時代に、叡尊上人(1201-1290)により復興されました。
西大寺といえば、「大茶盛」で有名です。
この研修旅行では外部からの拝観のみだけではなく、行事を体験することを一つのテーマとしました。
叡尊上人が始めた「大茶盛」の行事は、延応元年(1239)、修正会翌日の1月16日に鎮守である八幡宮に献茶をして、そのお茶を参詣人にも振る舞ったことが由来とされています。
当時のお茶は、高価な薬でしたので、参詣人で回し飲んで一年の無病息災を祈りましたが、大人数に対応するために次第に巨大な茶碗を用いるようになりました。
床の間には雪の八幡宮の様子が再現されています。
巨大なお茶碗に抹茶が点てられます。
1人で持ち上げられない場合は隣の人が手伝ってあげるのが作法です。
抹茶はたくさん入っていますし、次々に回ってくるのでたっぷり戴けます。
最後にお茶碗を拝見。
蛇足ですが、ちょうどJR東海の撮影クルーの方々が十数人、境内でコマーシャル撮影をしておりました。
大茶盛は、撮影クルーの皆様とご一緒にいただきました。
もうしばらくすると、西大寺をテーマにしたコマーシャルが流れるのかも知れないですね。
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■法相宗・薬師寺
所在地 奈良県奈良市西ノ京町457
宗派 法相宗大本山
本尊 薬師三尊(国宝)
創建年 天武天皇9年(680年)
開基 天武天皇(勅願)
別称 瑠璃宮
札所等 西国薬師霊場1番、南都七大寺6番
文化財 東塔(国宝)、薬師三尊像(国宝)ほか
南門(重要文化財)、伝大津皇子坐像(重要文化財)ほか
世界遺産
由緒・基礎データはWikiペディアをご覧下さい。
薬師寺の金堂は、享禄元年(1528)に戦火で焼け落ちてから400年以上も仮本堂の状態となっていましたが、昭和42年に晋山された薬師寺管主・高田好胤師により発願された「復興発願」により、老朽化の著しい薬師寺は、往時の姿に蘇りました。
図面の残っていない中での復興作業は困難を極めましたが、最後の宮大工・西岡常一氏の熱意によりこの金堂復興作業は、5年の歳月を経て、昭和51年に完成します。
金堂から見る大講堂。
逆に、大講堂から見た金堂と東西の五重塔。
左側が東塔、真ん中が金堂、右側が西塔です。
![]()
金堂完成に次いで昭和56年には、三重裳階付の西塔が450年ぶりに再建されます。
そして、大講堂も竣工。
私が小学校の修学旅行で薬師寺を参拝したのは昭和52年でしたから、当時は金堂は再建直後、この西塔と大講堂は無かったのです。
写真を見ると分かりますが、東塔と西塔とでは基礎の高さが異なっていることが分かります。
全体で西塔は東塔よりも1.7m高く造られています。
その理由は、数百年の歳月を重ねて、西塔が低くなっていき、やがて同じ高さに揃うことを計算しているからなのです。
その内訳は、
・元来、東塔の地盤標高が西塔より35センチ低い
・1300年間で東塔の基壇が重みで80センチ沈下
・1300年間で東塔全体が30センチ圧縮
・修復のため東塔一層目20センチ切断
------------------------
計約165センチ程の高低差
ということになります。
悠久の時間の経過を眼に見ることができるというのは凄いことです。
なお、薬師寺再建に携わった山口さんのホームページに薬師寺西塔建築の珍しい写真が掲載されておりますのでご紹介いたします。
薬師寺北側の玄奘三蔵院伽藍では、ちょうど玄奘三蔵院伽藍と平山郁夫画伯筆による大唐西域壁画殿の公開が行われていました。
大唐西域壁画殿には、平成12年に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が「本尊(須弥山)」および「脇侍(日光菩薩・月光菩薩)」として配置されており、また、天井にはラピスラズリをふんだんに使用し、満点の星空・星座を正確に再現した天井画が描かれています。
⇒平山郁夫「生かされて生きていること」の自覚を忘れまい (プレジデント)
写真は大唐西域壁画殿脇に咲く萩の花
ボロディン作曲の歌劇を原曲とし、オリジナルのアレンジと歌詞にてJR東海の「うまし うるわし 奈良」キャンペーンのTVCMの音楽用に制作された「Again」。
素晴らしい映像とともに心に染みいる音楽をこちらから楽しむことができます。
原曲:BORODIN ALEKSANDRE PORFIREVICH(歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り)
作詞:草間和夫 英訳詞:MISUMI 編曲:加藤みちあき 唄:Nello Angelucci Donna Burke
補足
平山郁夫画伯は、ゆめ観音アジアフェスティバルで後援をいただいている(財)かながわ国際交流財団の会長もつとめられています。
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■聖徳宗・法隆寺
由緒・基礎データについてはWikiペディアを併せてご参照下さい。
また、tabian.comさんのサイトがとても参考になり、楽しめます。オススメ。
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
宗派 聖徳宗総本山
本尊 釈迦如来
創建年 (伝)推古天皇15年(607年)
開基 推古天皇・聖徳太子
別称 斑鳩寺
文化財 金堂(国宝)、五重塔(国宝)、夢殿(国宝)他 (多すぎてとても書ききれません)
中門金剛力士像(重要文化財)他 (これも多すぎて・・・・)
世界遺産
日本最古の木造建築群だけあって、見所はたくさんあります。
時間をたっぷり取ってゆっくりと拝観いたしました。
全ての建物を紹介することは不可能ですし、いろいろなサイトにも紹介されています。
何よりも自分の眼で見ることが一番ですから、ここでは幾つかをご紹介するに留めます。
境内の樹木は、このように上部が痛々しく剪定されてしまっています。
![]()
これは、平成10年、台風により倒れた巨木により室生寺五重塔が倒れてしまったことにより、重要な建築物に被害が及ばないようにという措置だそうです。
仕方が無いといえば仕方が無いですが、少し寂しいですね。
法隆寺で有名なエンタシスの柱ですが、ギリシャ様式のエンタシスとは多少異なり、柱の下が膨らみが大きく、上のほうが膨らみが少ないことがわかります。
目の錯覚を利用して、柱が真っ直ぐに見えるようにという意図が指摘されています。
しかしながら、エンタシスよりも注目すべきは、例えばこの柱↓です。
上下で部材が異なっていますね。
裏から見ると右写真のように、複雑についでいることが分かります。
このように、金具を使わずに、木材の接合部をノミや鋸でほぞや仕口を作り、その噛み合わせによって強固に接合する技術を用いています。
東院・西院の伽藍をゆっくり見て廻ることができるというのはなんという贅沢な時間なのでしょうか。
また、各伽藍の中に安置されている仏像・美術工芸品の数々、そして大宝蔵院の展示を見ると、パリの美術館にも負けない濃い内容であると感じます。
なお、ちょうど大宝蔵殿にて平成19年度秋季法隆寺秘宝展が開催されておりましたので、見学して参りました。
西院伽藍に関する、「いつ」「誰によって」建立されたのか?という疑問に対する学術的なアプローチがなされています。
また、平安の極彩仏像よみがえる/法隆寺の毘沙門天・吉祥天などで報じられた、当時の極彩色が復元された毘沙門天立像と吉祥天立像(いずれも国宝)レプリカも展示されておりました。
東院伽藍へ続く道。夢殿の屋根が見えますね。
それにしても暑い!!
![]()
国宝指定の建造物・美術工芸品は下記のとおりです。
【建造物】 ⇒位置については公式サイトが参考になります。
・西院伽藍
金堂<飛鳥時代>
五重塔<飛鳥時代>
大講堂<平安時代>
経蔵<奈良時代>
鐘楼<平安時代>
中門<飛鳥時代>
聖霊院<鎌倉時代>
網封蔵<奈良時代>
食堂<奈良時代>
東室・西室<奈良時代>
三経院<鎌倉時代>
西円堂<鎌倉時代>
南大門<室町時代>
東大門<奈良時代>
・東院伽藍
夢殿<奈良時代>
伝法堂<奈良時代>
東院鐘楼<鎌倉時代>
【美術工芸品】
銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
銅造薬師如来坐像(金堂安置)
木造四天王立像(金堂安置)
木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)
塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)
乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)
木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)
木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)
木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)
乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
塑造道詮律師坐像(所在夢殿)
玉虫厨子
黒漆螺鈿卓
四騎獅子狩文錦
■聖徳宗・中宮寺
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2
山号 法興山
宗派 聖徳宗
本尊 (伝)如意輪観音
創建年 (伝) 推古天皇29年(621年)
開基 (伝)聖徳太子
文化財 木造菩薩半跏像(国宝)・天寿国繍帳残闕(国宝)
紙製文殊菩薩立像(重要文化財) ・紙本墨書瑜伽師地論(重要文化財)
境内は夢殿のすぐ東に接する子院地にあるため、そのまま徒歩で拝観できます。
木造菩薩半跏像は微笑みが美しい漆黒の木造です。
しかし、かつては彩色がされていたということで、法隆寺の毘沙門天立像・吉祥天立像同様に、どのような色使いだったのかを想像しながら拝んでまいりました。
また、天寿国繍帳残闕は、その中に描かれる月の兎が特に印象的でした。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
檀信徒旅行(奈良)報告(6)
檀信徒旅行(奈良)報告(5)
檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
貞昌院檀信徒研修旅行が9月17日(祭・月)~18日(火)の日程で開催されました。
本年は、希望調査の結果から、奈良方面への一泊二日の旅行ということに決定されましたので、それを基に行程を計画しました。
今回のコンセプトは「大人の修学旅行」。
修学旅行で大抵は訪れたことのある奈良ではありますが、大人になってからはなかなかゆっくり参拝することのできない寺社群を、ゆっくりと廻って行きます。
範囲も欲張らず、奈良近辺に絞り、一か寺あたりの滞在時間をたっぷりと取りました。
また、行程の一日目を祭日にすることにより、参加者の負担を少なくしておりますが、結果的に奈良への交通量(修学旅行生・トラックなどの物流)が少ないというメリットもあり、予定時刻よりもさらに余裕のある旅行となりました。
その他、普段見ることのできない寺社の風情を楽しむ企画も設けました。
その報告も順次させていただく予定です。お楽しみに!
出発地・新横浜駅での結団式。
偶然にも、今回参加者のうち7名もの方の苗字に「奈良」が付いています!
行程は下記のとおりです。
1日目(17日・祭日)
新横浜~(新幹線)~京都~奈良(昼食)~元興寺~法隆寺~中宮寺~薬師寺~奈良市内(泊)
2日目(18日・火)
~西大寺~興福寺~東大寺~(昼食)~(宇治へ移動)~興聖寺~京都~(新幹線)~新横浜
となっております。
従って、参拝した寺院は
真言律宗・元興寺
聖徳宗・法隆寺
聖徳宗・中宮寺
法相宗・薬師寺
真言律宗・西大寺
法相宗・興福寺
華厳宗・東大寺
曹洞宗・興聖寺
です。
由緒・基礎データについてはWikiペディアを併せてご参照下さい。
所在地 奈良県奈良市中院町11
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅(重要文化財)
創建年 推古天皇元年(593年)
開基 蘇我馬子
文化財 本堂(国宝)、禅室(国宝)、五重小塔(国宝)
東門(重要文化財)、着色智光曼荼羅図(重要文化財)ほか
世界遺産
元興寺の本堂は極楽坊とも呼ばれます。
正面から見ると、このように屋根の形が三角形に見えます。寄棟造の妻側が正面に来る屋根構造となっています。中央に柱があるのも珍しいですね。
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↓写真は北側から眺めた本堂。
正面(東側)から見ると何故屋根が三角形に見えるかという理由が分かると思います。
行基葺きの瓦模様が美しいですね。
建築様式をじっくりと眺めるのも寺社参拝の醍醐味の一つです。
この本堂の正面には東門があります。阿弥陀堂建築は、東門から本堂正面を眺める造りになっているのが特徴です。
往時(奈良時代)の伽藍配置は、南大門-中門-金堂-講堂-鐘堂-食堂が南北に一直線に並び、金堂周囲には回廊が巡らされ、東に東塔院(五重塔)、西に小塔院という堂々たる伽藍でした。
奈良にあるほとんどの寺社は、その歴史の中で規模が縮小してしまっています。
この本堂と、その西側にある禅室は、かつての僧坊の一部分を鎌倉時代に改築したものです。
往時の伽藍がいかに規模が大きかったのかがよく分かりますね。
なお、元興寺は、この中院町の元興寺の他に、中世以降に分かれた新屋町所在の元興寺(華厳宗)があります。
昼食もこの近辺でいただきました。
檀信徒旅行(京都)報告(8)
檀信徒旅行(奈良)報告(7)
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檀信徒旅行(奈良)報告(4)
檀信徒旅行(奈良)報告(3)
檀信徒旅行(奈良)報告(2)
檀信徒旅行(奈良)報告(1)
貞昌院檀信徒研修旅行で奈良に来ています。
悠久の歴史を堪能中。
報告は後程・・・・・
檀信徒旅行(京都)報告(8)
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檀信徒旅行(奈良)報告(1)
春の中国旅行の報告では、中国で見かけたものあれこれ という記事で締めくくりました。
ということで、今日の記事は、フランス旅行でのスナップ写真でお送りする「フランスで見かけたものあれこれ」です。
(1)エッフェル塔南側の Parc du Champs de Mars を行く警察騎馬隊。優雅ですね~
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(5)セーヌ川沿いの屋台。一軒一軒がコンテナのようになっており、昼間はいっせいに本屋や絵葉書屋、CD屋が立ち並ぶ光景が見られます。
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(6)街角では家族でブランチを取る光景があちこちで見られます。
絵になりますね
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(11)街には画家が溢れます。右の女性が描いたフラミンゴの絵。
ちなみに、売っていただけるとしたらいくらかを訊ねたら、2000ユーロとのこと。
ごめんなさい、手が出ません。
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(12)下から見上げるエッフェル塔。
こうしてみると大きいですね。繊細な骨組みが目を引きます。
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(13)深夜の凱旋門。青い夜空オレンジ色に映し出される姿が美しいです。
こんな夜でもやっぱり凱旋門の周りをぐるぐる車が廻っています。
凱旋門の屋上までは、歩いて上る事が出来ます。人もひたすら螺旋階段をぐるぐる廻りながら登ります。
階段は下まで吹き抜けになっていて、見下ろすとみごとな幾何学模様が見られます。
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杭州・西湖の畔にある浄慈寺。
如浄禅師ゆかりの寺院であり、墓所もここにあります。
大雄宝殿には、盧遮那大仏が安置され、裏側には済公和尚が祀られています。
妙法蓮華経が刻まれた「南屏晩鐘」は1986年に曹洞宗から寄贈されました。
その元の鐘は、残念ながら残されていませんが、明代に鋳造されたものです。
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霊隠寺は、杭州でもっとも参拝者の多い寺院です。
そのあたりは、中国で広がる宗教心 ‐追記をご参照下さい。
その歴史は1600年を数えますが、唐代にはすでに大伽藍を初め、様々な伽藍が建立されました。
最盛期の五代呉越国時代には数千人の僧侶が修行していたとのこと。
太平天国のおりには、天王殿と羅漢堂を除いて壊され、大雄宝殿も近年建替えられるなど、伽藍堂宇の多くは、清代~現代に再建されています。
しかし、飛来峰の磨崖仏のように、南宋から残される貴重なものも多数遺されています。
飛来峰の名前の由来は、咸和元年(326年)慧理和尚が、杭州の美しい景色を見て驚き、インドの霊鷲山がここに飛来したようだと表現したことによります。
慧理和尚が建立した草庵が、現在の霊穏寺の元となっています。
霊隠寺は、雲林寺としても親しまれています。
大雄宝殿には、24本のクスノキで造られ金メッキが施された釈迦坐像(高さ24.8m)が安置されています。
ちょうど、法要が営まれておりました。
参拝者も一緒に読経をしていきます。
羅漢堂は最近の建物ですが、高さ12.6mの銅の御殿と、そこを中心にとりまく五百体の銅の羅漢像は圧巻です。
阿育(アショカ)王山広利寺。
道元禅師が明州慶元府(現在の寧波市)に到着されたとき、日本から運ばれてきた食材を求めにやってきた阿育王山広利寺の老典座和尚と出遭います。
道元禅師は、老いた典座和尚がはるばる歩いてきたのを見て、なぜ、あなたほどの高僧が自ら買出しにやってくるのかを訊ねます。
老典座は、「あなたは修行の意味や文字の意味をご存じではないようだ」と答え、その場を去っていきました。
数ヵ月後、天童山に籍を置いた道元禅師に、老典座が逢いに来ます。
阿育王山での任期を終えて故郷へ帰る途中、どうしても道元禅師に面会したかったのです。
道元禅師に再会した典座和尚は、文字とは「一二三四五」であり、修行とは「偏界曾て蔵さず」ということを教示します。
つまり、目に映り耳に聴こえる全てが生きた文字であって、全てのものが隠すところ無く仏道の真理であるということでしょう。
道元禅師が典座教訓を著すきっかけとなった出会いは、ここ阿育王山広利寺と深いかかわりがあります。
山門-天王殿-大雄宝殿-舎利殿 という直線の配置となっています。
舎利殿は清代康煕18年(1679年)に創建、1916年再建されました。
金色の瑠璃瓦が特徴。とても煌びやかで眼を引きます。
大雄宝殿にも舎利殿にも、屋根の中央には鏡が設置されています。
初めは神道の御神体のようなものかと思ったりしましたが、そうではなく、鏡に自分の姿を映すことができれば願意が叶うということです。
柱と梁は珍しく木材が使われています。
材料は日本から運ばれて来たとのこと。
どうりで、懐かしい感じがするわけです。
道元禅師入宋の地・寧波~天童山 の続きです
天童寺山から山道を20分ほど歩いた場所に、古天童があります。
古天童は、西晋永康元年(304年)、太白山麓に、義興老和尚により建立され、唐代に太白精舎として営まれましたが、山崩れに合い、至徳2年(757)に伽藍は現在の場所に移築されました。
元あった場所は古天童とよばれて、東谷塔林として、歴代の住職が祀られています。
[左]重興密雲円悟禅師
[中]開山義興始祖老和尚
[右]中興宏智正覚禅師
古天童へ続く道の光景。
おそらく道元禅師もこのような光景を眺めながら毎日を過ごしておられたのでしょう。
日本曹洞宗の開祖、道元禅師は、24歳の春(1223年)、明全和尚と共に宋へ渡航します。
もちろん、当時は飛行機などあるわけもなく、小船で一ヶ月以上かけてそれこそ命がけで海を渡ったのでしょう。
宋代には、明州は広州・泉州とで三大貿易港の一つであり、道元禅師はこの明州慶元府(現在の寧波市)に到着されるのですが、上陸の許可があるまでの間、しばらく船中に留まることとなります。
この期間は、道元禅師・明全和尚共に中国の言葉を学ぶ良い期間であったのかもしれません。
そして、日本からの輸入品を仕入れに来た阿育王山広利寺の老典座との出会いもこの港でありました。
当時の入国管理事務所のあった場所は、現在、「寧波世界貿易中心(寧波ワールドトレードセンター)ビル」が建っています。写真の左端の黄色いビルです。
道元禅師はここから上陸されたのでしょう。
道元禅師が上陸された付近(上の写真の右端・橋の付近)に、1998年、大本山永平寺宮崎奕保禅師発起人として、記念碑が立てられています。
碑には次のように記載されています。
南宋嘉定16年(1223年)4月、日本僧道元禅師、海を渡りこの明州慶元府(寧波市)に着き、商船内で阿育王寺の老典座と相見された。 宝慶元年(1225年)道元禅師は太白山の景徳禅寺(太白山天童寺)にて住持如浄禅師に相見し、その膝下で一生参学の大事を成就された。 日本に帰国された道元禅師は、永平寺を創建し、日本曹洞宗の開祖と仰がれている。 謹んでここに記念碑を建て、日中両国の文化交流と人民の伝統友誼の証とする。
記念碑の脇は、交通量の多い幹線道路(山東路)となっています。
宋代の様子とはずいぶん変わっていることでしょう。
道元禅師は宋の地を踏んでから、禅宗五山を初めさまざまな地を巡り、やがて、天童山景徳寺に籍を置き、無際了派禅師の元で修行をされます。
明州の港から天童山への道は、その途中に800年前と変わらない黒瓦屋根の集落が見られます。
道元禅師が辿った道を、私たち一行のバスも進んでいきました。
天童山に続く参道。
背後の山々は、道元禅師の頃とあまり変化がないのではないでしょうか。
その後、禅宗五山を初め、各地に遍参し、同行していた明全和尚が亡くなった直後に再び天童山に戻り、新しい住持(三十一世)・如浄禅師に師事することになります。
した。
道元禅師は、如浄禅師との出会いの印象を 「我 人に逢うなり」(『正法眼蔵』「有事」)と残しています。
五カ月後に如浄禅師から仏祖正伝菩薩戒脈を授けられます。
法堂にて拝登諷経
昼は点心の精進中華料理をいただきました。
印象的な料理をいくつか。
[左]白い砂肝のようなものは蒟蒻。歯ごたえが心地よいです。
[右]魚の形をした擬似豆腐。
山門-天王殿-仏殿-法堂 と直線状に配置し、、そして東西に禅堂を周囲を回廊で結ぶという様式となっています。
(宋代の伽藍配置とは多少異なります)
法堂の上は蔵経楼。
大般若経他たくさんの経典が収蔵されています。
法堂付近より、仏殿・天王殿方向の天童山全景。
境内の井戸、大楠や竹林などを除いては、道元禅師の修行されていた頃の伽藍は、残念ながら現在は残されていません。
そして、最盛期には、千人を超える修行僧たちも、文化大革命にり、全て還俗させられてしまいました。
その後、少しづつ復興され、1979年、日本曹洞宗の援助により伽藍の修復がなされました。
修行僧たちも徐々に増え、現在は100余人もの修行僧たちが在籍しています。
3月6日~9日までの日程で中国・浙江省へ教区寺院三か寺合同で檀参旅行に出かけました。
禅の源流を訪ね、道元禅師の足跡を辿る旅です。
その報告を下記にまとめました。
順次追加していく予定です
【2日目行程】
湯田中温泉・よろづや-小布施・岩松院、北斎館、市内散策-中野(昼食)・さくらんぼ狩り-善光寺-(関越道・首都高)-貞昌院
よろづやの”売り”はなんといっても温泉です。
源泉かけ流し、文化遺産の桃山風呂、広大な露天風呂・・・・今回の旅行は、この宿を指名で計画させていただいたほどです。
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小布施・岩松院
曹洞宗の寺院で、葛飾北斎の天井画・八方睨みの鳳凰図が有名ですが、小林一茶の「痩せ蛙・・・」の俳句で知られる蛙合戦の池もある、文化的にも見所満載の名刹です。
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小布施は栗の産地としても有名です。
街並みは黒壁デのザインで統一されています。
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昼食後にさくらんぼ狩りを楽しみました。
丁度さくらんぼの最盛期となっていて、枝にはたわわに様々な種類のさくらんぼが実っています。
行程の最後に善光寺詣でをして、旅のしめくくりとなりました。
GWの合間に休みをいただき、小淵沢・八ヶ岳方面へ小旅行してきました。
都心からそれほど距離の離れていない場所なので手軽にいけるということが最大の利点です。
懸念された渋滞も、それほど激しくなく、御殿場~河口湖~御坂のルートもスムーズに進むことができました。
途中、河口湖からの富士は本当に見事でした。
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連休中はあちこちでイベントが開催されています。
これは北杜市・長沢花の森公園でおこなわれている長沢鯉のぼりまつり。
清里・清泉寮にて
好天に恵まれ、南アルプスの山々が手に取るように見えます。
旅行の拠点として宿泊したリゾナーレ小淵沢。
http://www.risonare.com/
特に家族での旅行には最適なホテルだと思います。
■インターから近いこと
■家族向けの部屋など、様々なタイプの部屋が用意されていること
■大きなクア施設つき温水プールがあること
■イベントが季節ごとに用意されていること
■サービスに工夫がされていること
■観光地が近くにたくさんあること
などなど。
十数年前に出来たホテルですが、施設も綺麗に維持されていて好感が持てます。
プールサイドにはジャグジーや打たせ湯もあり、また、プールの水温が高めなのでとてもくつろげます。
一時間おきに巨大波が押し寄せたりします。
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夕食をレストランで堪能した後は、プールサイドでの演奏会を聞いたり、森を散策したり、贅沢な一日を過ごすことが出来ます。
部屋に戻って、清泉寮パン工場で買ってきた五穀パンやホテル内のコンビニエンスストアで購入できるワインやチーズなどでゆったりと晩酌を楽しんだり・・・
なお、このホテルで開催されているインフォラータについては昨日のエントリーをご参照ください。
http://kameno.bne.jp/blog/archives/000430.html
「インフィオラータ」とは、イタリア語で「花を敷きつめる」という意味です。
道路・広場などに花びらなどにより絵模様を描き、鑑賞に供するというイベントですが、その元となる祭典は、ローマ南部のジェンツァーノ市で毎年6月に2日間(準備をいれると3日間)行われている伝統的な「宗教的儀式」です。
最近は、日本の各地でも実施されるようになりました。
チューリップの花びらを敷き詰めるため、時期的にちょうどゴールデンウイークのイベントとして最適ですから、急速に広まったのでしょう。
チューリップの花びらを、このように敷き詰めていきます。
生ものですから、時間によってその表情は変化していきます。
※写真は、リゾナーレ小淵沢のインフィオラータです。連休中に開催されています。
http://www.risonare.com/event/information/news.html
平成八年に大本山總持寺独住第二十二世 大環正應禅師(成田芳髓禅師)の晋山式礼が執り行われましたが、その晋山式礼の準備運営に係わった事務局の仲間が、当時事務局次長の地元、山口に集いました。
おりしも、事務局長であったH師の七回忌とも重なり、是非という皆の思いが一つになり、実現に至ったものです。
開催場所は、山口県・長門湯本温泉。
歴史と文化と食と温泉、いろいろな意味で贅沢な二日間となりました。
写真はO事務局次長の本寺である大寧寺の山号額。
鮮やかな青が目を引きます。
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大寧寺は、応永17年(1410)大内家の支族、鷲頭弘忠公が、石屋真梁禅師を開山として迎え、開創となっています。
【開山堂である智日堂】
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石屋禅師は、18歳で中国に渡り、20年間の修行の後、南北朝に分かれていた皇室を、後小松天皇の勅命による合一の働きとして成し遂げ、皇室からの信頼を得ました。
その学徳兼備の名声を礎として、かつては全国に600余の末寺を持つ僧録寺として称えられ、その壮大なる伽藍は、全景古図に見ることができます。
また、戦国時代最大の悲劇のヒーロー、大内義隆公が自刃された地としても有名です。
「討つ人も討たるる人も諸共に 如露亦如電 応作如是観」
山門の礎石。
全景古図と併せて見ると、感慨深いです。
山門へ通じる参道の清流にかかる磐石橋です。
大小の石を組み合わせて橋梁、橋脚が形成されています。
現在渡ることは出来ませんが、とても文化的価値の高い橋です。
本堂の魚鼓。
深い歴史を感じさせますね。
境内には、長門豊川稲荷が祭祀されています。
明治維新の神仏分離・廃仏毀釈により妙厳寺と豊川稲荷を分離する権力に直面した際に、大寧寺四十五世簣運和尚により、三条実美卿を説得し、守った因縁により、豊川稲荷が設置されているのです。
当日、大寧寺では精進料理教室が行われていました。
また、授戒会も定期的に行われており、このような生きた活動を積極的に行っている現住職の姿勢は見習わうべき面がたくさんあります。
大寧寺の目の前に長門湯本温泉がありますが、元来、長門湯本温泉の一帯は大寧寺の寺領であり、現在でも湯本の泉源は大寧寺の所有となっています。
長門湯本温泉で一番有名な大谷山荘は大寧寺の元宿坊として、とても関係が深く、名物のふく料理を堪能させていただきました。
もちろん、湯量豊富な温泉もとても素晴らしいの一言です。
新居浜の佛国山・瑞応寺専門僧堂です。
由緒縁起 文安5年(1448)生子山城主松木景村公により創建。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征により、寺も戦火に遭う。
万治3年(1660)分外和尚により再興、広島県徳雲寺の九世白翁禅師を迎える。
文政11年(1828)に焼失。
天保元年(1830)本堂と僧堂、安政3年(1856)山門と中門、回廊が完成。
更に明治30年(1897)に専門僧堂を開設。
山門を入り、本堂を正面に見て左側に僧堂、右側に庫院という伽藍配置。
僧堂には月舟禅師書による額が掲げられています。
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聖僧さまの台に「ゲタ」が履かせられて、高さを調整している事がわかりますね。
その理由は、境内向い側にある韋駄天さまの目線と聖僧さまの目線を合わせるためです。
↓僧堂から庫院方面を望む
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僧堂の魚鼓(ほう)。
永年に亘って、食事の時間を堂内に知らせてきた証が刻まれています。
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僧堂と反対側にある韋駄天さま。
二つ上の写真で見える建物に安置されています。
併設されている光幼稚園の園児が、毎朝韋駄天さまにお参りし、本堂前でお勤めをします。
教育と宗教が切り離されがちな現代にあって、このような生きた教育をおこなってくれる幼稚園はとても貴重です。
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一日の行持を記した黒板。
地方僧堂の特色がよく表れています。
本山修行も大事ですが、その後、このような地方僧堂でゆったりと先哲の教えに触れる生活も貴重だと感じます。修行僧が羨ましいです。
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瑞応寺のシンボル、大銀杏。
金毘羅大権現を祀りるご神木でありますが、県の天然記念物に指定された際に樹齢八百年と推定されました。この八百年は、花尾山金毘羅大権現の創建された年代とも一致します。
ただし、内ノ宮社記には、「ある夜、銀杏樹の上に天の羽衣を着る神人あり。月庭和尚すなわち、斎戒、沐浴、焼香、礼拝、誦経すれば空中より金弊下る。一心祈願すれば紫雲たなびき、天華乱墜して神霊形を現す。よってこれを勧請し奉る。時に霊異あり云々・・・・」という元禄十年の記述があり、樹齢三百年は少なくとも経っていることは間違いありません。
瑞応寺の歴史を見守ってきた歴史ある大銀杏です。
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寺院の伽藍は、歴史と地域性により、その配置が異なっています。
基本的な禅様式の伽藍配置を基本としているわけですが、その伽藍をきちんと使いこなしている寺院というのは意外と少ないことに気づきます。
折角、七堂伽藍があるのに、その建物を使っていなかったり、維持できずに荒廃してしまったり。
曹洞宗門として、このような寺院に何らかの維持に向けての施策をとっていかないといけないでしょう。
瑞応寺は、その意味で、とてもよく運営されている専門道場だと感じます。
隅々まできちんと清掃の行き届いた伽藍がそれを物語っています。
一、火もと 忘るるなかれ
一、戸じまり ゆるむなかれ
一、朝おき いとうなかれ
一、食べもの 好き嫌いするなかれ
一、節約 かわることなかれ
一、掃除 おこたることなかれ
追記:
瑞応寺は、法堂が真北を向いて配置されています。
つまり、法堂の北側に山門があります。
http://local.google.co.jp/maps?ll=33.919619,133.300434&spn=0.006749,0.009479&hl=ja
寺院の法堂(本堂)は、なるべく南向きに作られるのが通常なのですが、○○に向かって本堂がつくられたり、地形的な理由により向きが変えられたりするわけです。
瑞応寺の場合は後者ですね。
デイタイムに行っている仕事(書類精査・取りまとめ作業)をお休みして、四国に来ています。
一泊二日という、束の間のゆったりした時間です。
空路、世界遺産に登録された熊野古道の山並みがとてもよく見えました。
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第一日目の旅先から一箇所だけ簡単にご紹介します。
阿波・曹洞宗丈六寺です。
丈六寺の伽藍配置は、いわゆる三門ー仏殿ー本堂ー方丈が一直線に並ぶ禅宗様式とは異なることが特徴です。
特に、三門は本堂に対して斜めになっており、仏殿にあたる観音堂は本堂の左奥の離れたところに配置されています。
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三門から回廊右側に徳習院と庫裏、回廊右側に禅堂・経堂が配置され、両側から本堂に回廊で結ばれています。
本堂の奥が書院となっています。
三門の手前に中門、総門(一の門)があり、この総門が第一の入り口にあたります。
総門りは、県道から数段見下ろす形で造られています。
普通、寺院は総門から坂を上がっていくように伽藍を造っていくのですが、この丈六寺は逆に、だんだん下っていく形で三門に進んでいきます。
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三門は、室町末期の建立。
禅様式(唐様)を基調として、二階には和様が取り入れられています。重要文化財指定。
県文化財指定の書院の庭です。
配置された飛び石が特徴的です。のんびりと庭を眺めながら抹茶をいただきたい場所です。
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経蔵(元坐禅堂)。
通常は回廊で結ばれている配置を取るのですが、前述したように、離れた位置に配置されています。
内部も珍しい造りになっていますね。ここの床(タタキ)は素晴らしいです。
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さらに離れた所に配置されている観音堂(佛殿)。
明治時代に国宝指定(現在は重文指定)された聖観世音菩薩が安置されています。
高さ3.6mの堂々たる、国内最大級の仏像の一つです。
(撮影許可済)
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観音堂裏の墓所。
細川成之をはじめ、寺院興隆につとめた多くの方の五輪塔が並んでいます。
その巨大さに圧倒されます。
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以上、速報的に公開しました。
(四国・琴平にて記す)